= お知らせ = 2018年5月20日付

    = お知らせ =    2018520日付

 

K’sファイル読者の皆様へ:

前回NO.52のお知らせでは、次回「NO.53:ハリルホッジ監督の突然の解任に思う」を予定しておりました。しかし、読者の皆様から、アメリカンフットボールの反則問題が社会問題となっているので、専門的な知見をK'sファイルに掲載して欲しい。とのご要望が寄せられております。そこで、次回NO.53から複数回の予定で連載させて頂くことにしました。

どうかご理解とご了解頂けましたら幸甚です。

河田弘道

K'sファイルNO.52:82W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場 無断転載禁止

K'sファイルNO.5282W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場

             無断転載禁止

注:Ksファイルのサッカーシリーズは、20186月開催予定の18W杯サッカーロシア大会を記念して掲載させて頂いております。

PARTⅣ FIFAW杯サッカー利権獲得への決断と実弾

①特命隊長の秘策と実行力

服部庸一氏は、社内の全ての情報を集約させて状況の分析、判断を誤らない為にも、細心の神経を集中され精査したことでしょう。そして、同氏は、ロス五輪で構築したルートからFIFA・W杯の権利保有会社のSMPI社に接近する為の戦略及び戦術を模索し始めたのです。

服部氏は、IOCサマランチ会長しかり、LAOOC84ロス五輪組織委員会)委員長のユベロス氏の動静、既に情報を把握していたP・ユベロス氏とホルスト・ダスラー氏の関係を察知していたので、服部氏は腹心のジミー・福崎氏を同行させてP・ユベロス氏を会食に誘い、電通FIFA 及びW杯サッカーのビジネス権利獲得に苦慮している事をざっくばらんにジミー・福崎さんを通して話した。と筆者は容易に推測します。(K'sファイルNO.51をご参照ください)

そこでP・ユベロス氏の口から出た言葉は、今日のスポーツ電通FIFAサッカー界を手中に収めたキーワードであったと思われます。それらは、P・ユベロス氏は、ホルスト・ダスラー氏とは、信頼関係にある事、そして、P・ユベロス氏は、嘗てAサマランチ氏からの紹介を受けて以来、H・ダスラー氏にスポーツ・マーケテイングビジネスを学び、84ロス五輪大会を成功させるためのアドバイスを得ていた事。とこれは筆者の想像と私見であります。

これにより、P・ユベロス氏は、ホルスト・ダスラー氏の82W杯サッカーでのマーケテイングビジネスのアイデイアとコンセプトを取り入れ、84ロス五輪大会では、民間企業を有効活用する為の経営、及びギャランテイー方式のビジネスコンセプトを独自でクリエイトし、基盤にしたと考えられます。

服部氏は、P・ユベロス氏からの貴重なアドバイス、情報を受け、ホルスト・ダスラー氏を直接紹介してもらう事になったのだと思います。此れに伴い、P・ユベロス氏、ホルスト・ダスラー氏、服部庸一氏(ジミー・福崎氏)のトライアングル(三角州)のビジネスゾーンが形成されるに至ったわけです。

このトライアングルが完成するには、ホルスト・ダスラー氏の電通への確固たる思惑(GIVETAKE)、電通H・ダスラー氏への協力と同氏を電通側に抱き込む(GIVE&TAKE)、P・ユベロス氏のH・ダスラー氏への嘗てのアイデイアへの返礼(TAKE&GIVE)の関係が成り立ち3者が、ハッピー・ビジネスを展開できるシナリオが必要です。これは、服部氏がロサンゼルスに居て初めて確証を得られる作業でもあるのです。

後は、服部氏及びジミー・福崎氏がH・ダスラー氏の本拠地ドイツに飛び、直接的にビジネスマターを確認、確約、その後、W杯スペイン大会の会場に乗り込みH・ダスラー氏の紹介でアベランジェFIFA会長にお目通りし、主だった幹部との会食を経てセレモニーを完了するというシナリオです。

上記シナリオが無事予定通りに進んだ証は、後日公の知る所になった出来事がその全てを裏付ける個々の物語となる次第です。

②スペイン革命の真相

H・ダスラー氏は、1982W杯スペイン大会に於いてかねてから自らが思い描いていたFIFAに於けるマーケテイングビジネスに関し、成果と結果を手に入れた事から更なる野望が沸々と心の内に宿り始めていたのでしょう。

スペイン大会のビジネス成果と結果で、自信を得たH・ダスラー氏は、スポーツマーケティング会社を自ら作ることを決心します。これは、丁度時を同じくして、盟友ユベロス氏から電通の服部庸一氏を紹介された時期であったのです。勿論電通の莫大な投資(実弾)の約束があった証です。

H・ダスラー氏は、パトリック・ナリー氏及びウエスト・ナリー社との連携にこれ以上な発展は今後期待できないと感じていたのです。そこに電通から思わぬコンタクトとオファーを受け、電通との思惑が合致したので、双方は82年W杯スペイン大会開催中に握手をする事になったのです。電通に取っては、逆転満塁ホーマーを演じたのでした。

此れは、服部氏が狙ったストラタジー(戦略)に狂いが無かった事を意味し、本利権獲得戦争を終結した事になったのです。

此れには、P・ユベロス氏とH・ダスラー氏のホットライン会話が重要なコーデイネーター役を演じたと想像します。

これがその後今日まで語り継がれているサッカー界の「スペイン革命」と言われる所以だったのです。即ち、H・ダスラー氏は、パトリック・ナリー氏達から電通に乗り換えたのでした。同氏にとっては、乗りたかった名馬に騎乗する夢が叶ったのです。

これにより、SMPI社は、解体され、ウエスト・ナリー社は、切り捨てられた事によりJ・坂崎氏も無念な思いをされ、博報堂は一瞬にしてビジネスゲームに敗れたのでした。

この時のJ・坂崎氏の心中は、如何なるものであったか、経験した者でなければ計り知れないことだったとお察し申し上げます。筆者も数限りない修羅場を体験しましたので、J・坂崎氏、J・福崎氏両名の心中は、それぞれの立ち位置で大変よく理解致します。二人の日系米国人が、日本のスポーツビジネス界での多大な貢献をされた事を尊敬の念を持って、ご紹介せずにはいられませんでした。お二人の信念とご努力は、日本のスポーツビジネス界の礎となっています。

1983年、電通は、H・ダスラー氏と組んでISL社「International Sports & Leisure社」を設立し、FIFAの関わる重要なイベント全ての広告、マーケテイング権を手中にしたのです。これにより、暫くの間は、ISL社が権力の頂点を極めたのでした。

服部庸一氏を交渉人として起用した電通本社の英断は、P・ユベロス氏を動かし、H・ダスラー氏の心を変革させた電通の度量、即ち莫大なISLへの投資が効果的に偉力を発揮したと思われます。

しかし、1987年にH・ダスラー氏は、突然病死し51歳の若さでこの世を去ったのでした。丁度ヨーロッパサッカー連盟UEFA)のアルテミオ・フランキ会長の交通事故の死から4年後の事で、「フランキの呪い」と呼ぶ人もいます。

H・ダスラー氏亡き後、ISL社は、財政難に陥ったこともあり、電通は、早期にISLに見切りをつけ独自に「FIFAとの間で新組織を設立」、全権利を担保して今日に至っているのです。電通の敏速な決断は、電通ISLに関してのリスクを最小限に抑える事であったと思われます。

これで電通は、世界最大のスポーツイベント・ビジネスのオリンピック(IOC)と世界最大のサッカービジネスのFIFAIAAF国際陸上競技連盟)の世界陸上と全てのメジャー競技スポーツの利権を獲得して、現在世界のスポーツビジネスを席巻しているのです。

④戦い終えて

博報堂

博報堂は、W杯サッカーから静かな撤退を余儀なくされました。

19933月、Jリーグ開幕に向けた広告代理店は、博報堂と言われ華々しく開幕しましたが、開幕後、博報堂の関与は徐々に影が薄れ、Jリーグの勢いも当時の予想と異なる方向に向かい今日に至っている次第です。

しかし、電通は、公益財団法人・日本サッカー協会(略:JFAJapan Football Association)と2007年にJFAのオフィシャル広告代店として8年契約を結び、近年2015年に契約を更新しています。これにより、JFAの財政は、飛躍的な改善を遂げ4年間に二度もの高額な外国人監督を招聘、解任、解雇するようなサッカー・アドミニストレーションが出来るようになっているのが現状です。

電通は、FIFAのオフィシャル広告代理店であり、JFAのオフィシャル広告代理店でもある事を忘れてはなりません。

K’sファイルNO.2933.では、「大学箱根駅伝は誰の物」でサッポロビールの広告代理店として、博報堂をご紹介しました。博報堂のスポーツ界への復活は、今後の日本のスポーツ界の活性化と発展に無くてはならない貴重な存在と起爆剤なので期待しています。 

当時の博報堂電通の違いは、「サラリーマン気質の企業体質(此処では上司の指示通り動く意味)と個性派プロ集団企業体質(社内外での敵と戦う、戦闘集団の意味)との違いでないか、と筆者は感じていました。

博報堂に必要なのは、求心力と洞察力を持った実戦経験豊かな経営者とカリスマを持ったアグレッシブな人材(プロデユーサー)であると思います。また、近年構築された博報堂、大広、読売広告連合「博報堂DY」へのパワーアップと新しいイメージの新社名で、ワールド・ワイドに打って出るプラニングとリスクマネージメントが生き残りをかけたこれからの源となるのではと思います。

筆者の経験則から、斜陽する会社・企業、組織・団体の共通した問題は、「次世代の人材の確保を怠ったか」、「頂点の最高経営者(CEOの取り巻き役員達)の企業、組織のビジネスアドミニストレーションのコンセプトが内向きか」、現状に甘んじて「次世代へのアグレッシブな改善、改革を怠ったか」、或は、「その両方」が最大の原因であると思います。

また、「経営者、管理者が独裁的である企業、組織・団体」は、組織内の有能な人材が牙を抜かれポチ化し、既に組織全体の活力が失せて手が付けられない事態となっています。独裁者が居なくなった後は、崩壊するシナリオが既に出来ている事が世の常であることをお忘れなく。此れでは、優秀な人材の芽が潰されるだけです。読者の皆さんの所属されている企業、組織・団体は、大丈夫ですか。

アデイダス社

強烈なスポーツ界のボス、ホルスト・ダスラー氏を失ったアデイダス社は、求心力を失い後継者を巡っての迷走が暫く続いたことにより、一時期経営権がフランス人の投資家に移行するなど混乱期を迎えたために、新興勢力のナイキ社に世界のマーケットセアーでは、大きく水をあけられてしまいました。

ISL

ホルスト・ダスラー氏亡き後のISL社は、電通の撤退後2001年に破綻しました。この後、電通は、サッカープロジェクトの最終段階の仕上げに入るのです。それは、予てよりホルス・ダスラー氏がFIFA内に子飼いのブラッター氏を潜入させ、要職に就けてあった種子が発芽し、ブラッター氏はアベランジェ前会長を引き継ぎFIFA会長の席を獲得したのでした。ブラッター氏の粘り腰には、はなはだ驚嘆するのみです。

電通は、FIFAのオフィシャル代理店として直接契約を結び、誰も介入させないビジネスコンセプトを完成したのです。

これは、「電通方式」と言われ、電通IOCとの間で取り行った形態で、「第三者の介入を許さない」強烈なビジネスコンセプトを最後に完成させたのでした。この方式は、電通の企業理念でもあったのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:K’sファイルNO.49、50、51、52と世界のサッカービジネスの舞台裏をご紹介致しましたが、如何でしたでしょうか。次回は、引き続きサッカーの話題として、「ハリルホジッチ監督の突然の解雇に思う」をテーマに、筆者の独断と偏見をお許し頂きスポーツ・アドミニストレイターの視点で述べさせて頂くことを予定しております。

K'sファイルNO.51:82W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった 無断転載禁止

K'sファイルNO.5182W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった

               無断転載禁止

注:K’sファイルのサッカーシリーズは、2018年6月開催予定の18W杯サッカー ロシア大会を記念して掲載させて頂いております。

PARTⅢ スペイン大会開催中の電通の利権強奪作戦

1.電通のサッカービジネス担当者の経験値、

①サッカービジネスとの遭遇

イベントとの関係に於いて、広告代理店電通は、主に文化・芸能・万博関係が主体であったため、スポーツ界に於ける、人間関係はそれほどなかった。

1979年秋、国立競技場で開催されたニューヨーク・コスモス対日本代表による「ゼロックス・スーパー・サッカー」は、電通によりプロデユースされた最初の競技スポーツのイベントであったと思われます。

これは、1978FIFA W杯サッカーアルゼンチン大会の翌年秋のことでした。当時米国でプロサッカーテイームとして設立されていた、N.Y.コスモスは、映画会社のワーナー・ブラザーズ(略:WB’s)が筆頭株主であった事からもアジアへのプロモーション活動を兼ねたエキジビションマッチ企画と考えられていたのです。この情報を得た電通ニューヨーク支局は、築地電通本社にこの情報を打電したのです。よって、此の情報は、当時米国の映画、音楽関係者からN.Y.コスモスのメジャースポンサーであるWB’sが日本でのエキジビションマッチを行うに当たって受け皿及びスポンサーを探しているとの情報をN.Y.電通支局がキャッチしたと言われていたのも無理からぬことでした。

電通内では、イベントプロデユースに於いて、大きな実績のあった服部庸一氏(大阪万博、沖縄海洋博、音楽イベント、等)に情報をインプット、服部氏の独特の勘で「これはいける」と判断したようです。その大きな理由の一つは、78年W杯アルゼンチン大会の企業広告に関する情報と動向から、将来のスポーツイベントの重要性を鑑み、もう一つの理由は、本コスモスのテイームがドリームテイームと言われ、選手にドイツのベッケンバウアー選手、ブラジルのペレ選手とサッカーを知らない当時の日本人にでも名前は聞いたことがある有名選手が入っていた事でした。

多分、プロデユーサーの服部氏は、当時あまりスポーツ、サッカーに興味が有り詳しいとは思えなかったと思います。

②初のサッカーイベントへの対応力

電通は、服部庸一氏(プロデユーサー)の臭覚により東京開催を決断した時点で本サッカーイベント開催に向けたプロジェクトテイームを本社に設け担当スタッフを招集したのでした。その招集されたメンバーの中にその後サッカー、等に関わるプロデユーサー達が実践経験を通してノウハウを構築していったのです。

電通に取って、サッカービジネスと最初の関わりを持ったのがこのイベントでした。当日、国立競技場は、満席となり成功裏に終えたのです。

その名もスポンサー名を冠にした「ゼロックス・スーパー・サッカー」で、1990年迄継続したのでした。

この成功と結果から、電通に於ける服部氏のスポーツイベントへの強い関心と、興味が彼の次なる高いハードルへと駆り立て、電通本社も同氏に信頼を寄せ、次なる世界最大のスポーツイベントのオリンピック大会の利権獲得へと向かうのでした。しかし、彼らは、スポーツの世界の裏舞台に暗闇する人間達が居る事にまだこの時点では半信半疑であったと考えられるのです。

電通のオリンピックビジネスと未知との遭遇

丁度当時の電通は、既にオリンピックに対しても本格的に参戦しようとする時期でした。その手始めの1980モスクワ五輪は、当時のソ連軍のアフガン侵攻作戦により自由主義国がボイコットしたにも関わらず、競技は開催されました。そして、ビジネス権利は、博報堂が獲得し放映権をテレビ朝日が獲得していたのです。

その後、本格的に参戦した、88年名古屋五輪招致活動に於いては、81年のIOC総会でソウル開催が決定しオリンピック招致活動のポリテイカルゲームの現実に煮え湯を飲まされたことになったのです。

何故、電通をもってして名古屋に持って来る事が出来なかったのか。

この時初めて、電通は、暗黒の世界を取り仕切る黒い人影の存在を認めざるを得なかったのでした。それは、この世界最大のスポーツプロモーション活動に表では計り知れない裏の力を肌で感じたからでした。そして、その影の人物は、とてつもなくダークなイメージを持ち、世界中に張り巡らされたネットワークとポリテイカルパワー及び、ネゴシエーション力をも兼ね備えている当時のスポーツ界のドンであったのでした。

その名は、ホルスト・ダスラー氏(既にK’sファイルNO.4950PARTⅠ、PARTⅡ、でご紹介済みをご参照下さい)であったのです。

これは、時を同じくして1982W杯サッカースペイン大会で電通がビジネスマーケテイング権を獲得できなかった理由の最大の要因と、まさに共通したキーパーソンでもあったのです。

88ソウル五輪大会招致活動に於いて、ホルスト・ダスラー氏はIOCAサマランチ会長、FIFAアベランジェ会長、IAAFのネビオロ会長、等メジャー組織・団体の会長と通じたIOC理事達に対して、IOC総会が開催されるホテルでロビイストとして自ら直接、間接的に、短期間でロビー活動を通してソウルへの投票をまとめたとされる有名な話が今日まで語り継がれている人物です。

 (注意:ロビー活動とは、その昔米国の議員が賛成票を取りまとめる為に、ホテルのロビーを活用して会談を繰り返した事に由来する。ロビイストとは、その行った本人の総称です)

これにより、電通は、82W杯スペイン大会、88年名古屋五輪招致活動と屈辱の敗北を経験し、その起因となった人物がホルスト・ダスラー氏その人だったのです。

この苦汁を舐めた電通は、電通本社が最高の信頼を寄せるプロデユーサーの服部庸一氏を84年ロス五輪のビジネス権獲得に向かわせる事になったのです。

本ロス五輪と電通服部氏のストーリーは、既にK’sファイルNO.4146に掲載済みですのでご参照ください

2020年五輪東京大会を含む今日の世界の大型スポーツイベントの招致活動は、このような歴史を経てIOCの理事達、各主要国際競技団体(FIFAIAAF、等)の会長等の権益構造が新たに構築されているのです。これにより莫大な行き先不明の諸経費(公金)は、大きく国民の負担となっている事を我々日本国民も既に気付いて戴けたのでないでしょうか。此処まで国民の犠牲を払ってまでも、どうして政治家達は、オリンピック、W杯の招致活動に夢中になるのでしょうか。読者の皆さんの「ため息」が聞こえてきています。

電通特殊部隊の戦闘準備

FIFA W杯サッカーのスポンサーセールスを全てホルスト・ダスラー氏SMPI社、ウエスト・ナリ―社、ウエスト・ナリーJAPAN社、博報堂に持って行かれた電通は、満を持して次の一手に出たのです。

電通は、ホルスト・ダスラー氏率いるマーケテイングビジネス集団が82W杯サッカースペイン大会の権利を獲得していた時、84年ロサンゼルス五輪における独占販売権を電通が手中に収めた時であったのです。既にKsファイルで解説しましたように、ロス五輪大会組織委員長のピーター・ユベロス氏は、電通の本プロジェクトの代表責任者であった服部庸一氏、その通訳、コーデイネーター、ネゴシエイターであったジミー・福崎氏とは、ビジネス以上な信頼関係が構築されていた時期でもあったのです。

電通本社は、FIFA及び82W杯サッカースペイン大会で敗北し、既存のサッカープロジェクトテイームではサッカー界の利権の扉は開かない事を十二分に味わったのでした。

そこで社運を賭け大ナタを振るわなければとの思いから、既に84年ロス五輪大会プロジェクトでの成果と結果を確認していたので本件の新たなるサッカープロジェクトの交渉人に服部庸一氏を指名したのです。一大プロジェクトを既に取りまとめているプロデユーサーの服部庸一氏に直接の指示を出したのは、最後のカードを切ったと申し上げても過言でありませんでした。

服部氏は、社内のサッカープロジェクトテイームが動いている作業、業務に自ら手を出すようなことをしなかったのは、まさにプロのプロデユーサーのモラルと配慮からでもあります。しかし、本社からの密命を受け指名、指示に対して、服部氏は、会社の苦境を十分に理解しこの苦境を乗り切る為に逃げるわけにいかず、男服部庸一氏は、会社の意向を受けざるを得なかったのだと思います。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイルNO.52は、電通の最高の交渉人(ネゴシエイター)としての密命を受けた服部庸一氏(腹心のJ・福崎氏)が、綿密な諜報活動とそれまでの電通内部で得た情報を精査し、決断と実行の最終シリーズに挑みます。

ご期待ください。

K'sファイルNO.50:82W杯サッカースペイン大会は、ビジネスの戦場 無断転載禁止

K'sファイルNO.5082W杯サッカースペイン大会は、ビジネスの戦場

            無断転載禁止

     注:K’sファイルのサッカーシリーズは、20186月開催予定の18W杯サッカーロ シア大会を記念して

                 掲 載させて頂いております。

 

PARTⅡ:ホルスト(H)・ダスラー氏の権力拡大と強引な手法~

1.新たなパートナーの選択はステップアップの為:

①人材確保と配置付け、

1974年のFIFA W杯サッカー西ドイツ大会は、西ドイツが二度目の優勝を遂げました。そしてその代表テイームのアパレル、グッズは、全て勿論ホルスト・ダスラー氏のアデイダス製で、アデイダスの知名度のみならず最高経営者の名声も世界に轟くようになったのです。

また、この74年には、それまでサポートしてきた友人のアベランジェ氏(ブラジル)が、FIFA国際サッカー連盟』の第7代会長に就任したのを機に、H・ダスラー氏のパワーゲームは一層激しさを増し、露骨化し出します。

彼の行動は、自社の利益追求のみならず権力志向への野心そのものであったように思えてなりませんでした。丁度この時期は、IOCのアントニオ・サマランチ氏(当時理事)が声高にオリンピック憲章の「アマチュア」文言の削除が現実化し、オリンピックのビジネス化、選手のプロ化容認するタイミングであったのです。

既にH・ダスラー氏は、1972年に配下であったブラッター氏(後にFIFA会長)をFIFAへ潜り込ませていました。1975年にブラッター氏がFIFAの要職につくと、日々の情報は、オンタイムでH・ダスラー氏の手元に集約されたことは容易に推測できます。既に彼は、この時期から将来のFIFAでの絶大なる権力を構築する為に人的布石を打ち始めていたのです。

1977年にアベランジェ会長が世界ユースの公約を達成すると、かねてから約束していた新しいスポンサーをウエスト・ナリー社と共に、米国のコカ・コーラ社を迎え入れたのです。

H・ダスラー氏とウエスト・ナリー社は、翌1978年のW杯サッカーアルゼンチン大会で「広告看板」の販売を始めますが、コカコーラの例が先鞭となり、世界的企業がスポンサーに連なるようになりました。

同氏は、1970年代初期からタイミングを見計らないながら、英国のスポーツマーケテイング会社の経営者であったパトリック・ナリー氏に急速に接近して行くのでした。そして、1978年のW杯サッカーアルゼンチン大会前から仕事を共にする仲になるのでした。

ナリー氏は、英国に本拠を置くウェスト・ナリー社の経営者であり既にスポーツマーケテイング・ビジネスを展開していたのです。ウエスト・ナリー社は、当時英国BBCの解説者であったピーター・ウエスト氏がナリー氏のパートナーとして経営者の一員となっていたので、社名もウエスト・ナリーの名称で知られていました。

 H・ダスラー氏は、その後英国のナリ―氏と共同で、スポーツマーケテイングの権利を管理するSMPI社をモナコに設立します。SMPI社は、株式の51%をH・ダスラー氏が保有し、パトリック・ナリー氏が49%を保有するパートナーシップ社でありました。

これは、H・ダスラー氏に取っては、ウエスト・ナリー社の最高経営者ナリー氏とパートナーシップを組み、SMPI社の最高経営権(CEO)を手にした事により、事実上、ウエスト・ナリー社を翼下に持つホールデイング(HD)会社を作り上げたことを意味します。此れに伴い、その後のエスト・ナリー社は、SMPI社の権利を販売する販売代理店(Sales Agency)が主たる業務内容となったのです。

SMPI社の保有商品:

このSMPI社が設立当初保有していたマーケテイング・ビジネス権利は、FIFAUEFAの他、4大会のマーケテイング権でした。

1.FIFA W杯サッカー

2.ヨーロッパ選手権EURO

3.ヨーロッパ・クラブ選手権(現在のチャンピオンズ・リーグ)

4.カップ・ウイナーズ・カップ(廃止、現在はUEFA CUPに統合)

この4大会の諸権利は、「INTERSOCCER4」と呼ばれ、ウエスト・ナリー社(上記商品の独占販売代理店=Exclusive Sales Agency)がパッケージとして全世界にセールス。世界のサッカービジネスの目玉となる大会を全部集めた、価値ある商品内容であったのです。

③ウエスト・ナリーJAPAN社の設立(1978年):

エスト・ナリー社は、INTERSOCCER4を主力商品としたスポーツビジネス・マーケテイング及びその販売を目的にウエスト・ナリーJAPAN社を設立、対日本企業への販売拠点を目的として立ち上げたのです。そして、同社の代表として米国日系3世のジャック・坂崎氏が就任したのです。

J・坂崎氏は、米国の大学を卒業後、1974年日本法人のIMG社(International Management Group=米国に本社を持つ当時は、非常にユニークなトップアスリートのマネージメントをビジネスの主体とした代理店)に就職し、テニス選手のマーケテイングを担当していました。その後テレプラニング社に移り、1978年にはウエスト・ナリーJAPAN社を設立し、代表としてINTERSOCCER4のセールスに携わるようになりました。1987年のJ・坂崎マーケテイング会社設立以降もサッカー界、テニス界、そして世界陸上のマーケテイングに於いて多大なる功績を残されました。

余談として、

筆者は、J・坂崎氏に最初にお目にかかったのは私の記憶が正しければ、197778年頃、丁度米国の大学の専任職であり、西武国土計画の堤義明社長の野球担当秘書を兼務していた時代の事でした、当時は日米間を年間24、5回往復していた時代で、同氏は、野球ビジネスに関しての用件で品川プリンスホテル、高輪プリンスホテルに訪ねて来られたのが昨日の事の様に思い出されます。

小職が米国大学の代表として、NCAA(全米大学競技スポーツ協会)のフットボール公式戦(BYUネバダ大学ラスベガス校)を初めて日本(国立競技場)に紹介した時にホテルに訪ねて来られました。その後は、小生がNEC SPORTSのスポーツ・アドミニストレーター時代に、J・坂崎氏がテニスの冠スポンサー販売で確か本社宣伝部を訪問された際にお会いし、最後にお目にかかったのは、1991年の世界陸上東京大会の日本テレビ主催のご苦労さんパーテイーで、今ではとても懐かしい思い出です。

J・坂崎氏に初めてお会いした時の印象は、日系米国人として米国とは異なるビジネス環境に大変戸惑われている様子でした。しかし、彼は、米国人若者特有のバイタリテイーに溢れた、何事にも全く物おじしない積極的な行動力と日本人にはない話術という特別な能力を兼ね備えており、スポーツビジネス、マーケテイング、セールスの分野で如何なく能力を発揮され、この日本の表舞台のビジネス社会で成功されたのです。彼の功績には、心より敬意を表する次第です。

彼の言葉の端々からは、日系人として日本で日本人相手にそれは人には言えない苦い思いと味わいをされたのだろうと肌で感じる事が多々ありました。しかし、彼が本当に粘り強く耐え忍んで今日を築かれたことに対して敬意を表すると共に、彼の素晴らしい人間力をご紹介させて頂きます。

同氏は、現在確か日本を引き上げてカリフォルニアに戻られたと伺っています。

 

2.ウエスト・ナリーJAPAN社の功績と電通との因果~

①インターサッカー4のパッケージ販売:

本パッケージセールは、当時既に世界最大の広告代理店となっていた電通ではなく、博報堂が確立し、博報堂によって日本を代表する大手企業に販売されていたことは、ごく限られた業界関係者の間でしか知られていませんでした。

 何故電通でなかったのか?

4大会の広告パッケージ販売は、J・坂崎氏により最初は最大手の電通にセールスがかけられたもようです。しかし、電通は、内容を吟味するどころか傲慢な態度で鼻にも引っ掛けなかったようです。此の事が後に明らかになったのは、その後電通W杯サッカー界のマーケテイングの権利獲得に苦難を強いられた時に初めて内部の心ある関係者から、当時の担当者がチャンスを追い払ったことがその後最大の苦境に立たされた要因であったことが分かったようです。

 電通との交渉がうまく行かなかったJ・坂崎氏は、関係者が居たルートを通じて電通のライバル企業の博報堂に共同セールスを持ちかけたのです。

②ウエスト・ナリーJAPANを救った博報堂

博報堂は、電通とは異なりJ・坂崎氏の巧みなセールス・プレゼンテイションを真摯に受け止め、準備されていたセールスシート及び、細部に渡る資料を丁重に吟味し、結論に至ったのです。

その結果として、博報堂は、1業種1社の販売権を確認してセイコーキヤノン、日本ビクターJVの3社とFIFA W杯スペイン大会の公式スポンサー契約を結ぶ事になったのです。その後、この事実を評価した他社、確か富士フィルムFUJIFILM)が4番目のスポンサーに加わったのでした。これにより、ワールドワイド公式スポンサー10社のうちの4割を、日本を代表する企業4社が占めたことでFIFA W杯サッカーのイベント並びに商品価値はとてつもなく跳ね上がる事になったわけです。

この時期の日本は、まだ大型バブルが始まる前で、サッカー人気の薄かった時代でした。日本では、J・坂崎氏の手腕と情熱に敬服すると同時に、W杯サッカーがグローバルなイベントであることを即座に評価し、公式スポンサーとなった日本企業の見識に世界は皆驚いたのです。これは、J・坂崎氏のセールス力、プレゼンテーション力、スピーチ力、プロモーション力の賜物でした

このようにして、82W杯サッカースペイン大会は、ホルスト・ダスラー氏をビジネスマーケテイングのリーダーとして、SMPI社、ウエスト・ナリー社、ウエスト・ナリーJAPAN社のサポートにより、大会スポンサーからは、約100億円余りの収入を得たとされています。

この成果と結果は、H・ダスラー氏をサッカー界における一層の野望に拍車をかけ彼を次なる権力の高みに駆立てて行くのです。

怪物電通は、一人の社員の対応ミスからW杯サッカースペイン大会の利権を逃してしまったのでした。読者の皆さんの身近にも、よく似たケースが起きているかも知れません。今日の世界のスポーツ電通は、自社の理念と経営、事業コンセプトに伴った下準備を整えた上で、電通の切り札的コマンド部隊を戦場に投入する決断をし、この逆風(Against Wind)に挑むのです。

さあ、電通は、どのような勝負に挑むのか!

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイルNO.51では、H・ダスラー氏、パトリック・ナリー氏、ウエスト・ナリー社、ウエスト・ナリーJapan社、博報堂にやられた、電通は、どのような報復に打って出たかのテーマを予定しています。ご期待下さい。

K’sファイルNO.49:82W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった 無断転載禁止

K’sファイルNO.4982W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった 

               無断転載禁止

 注:K’sファイルのサッカーシリーズは、20186月開催予定の18W杯サッ カーロシア大会を記念して掲載させて頂いております。

PARTI. サッカー・ビジネスが体系づけられた時代と背景~

 前置:読者の皆様は、既に1984ロス五輪のテーマについて本K’sファイルNO.38~46を通してお読み頂いているかと思われます。丁度84年ロス五輪の仕込みを電通が取りかかり始めている以前から、国内外のサッカー利権は、日本の大手広告代理店の博報堂が牙城を築き上げていました。そこに84年ロス五輪でオリンピック利権をせしめた電通が、ロス五輪の人脈とノウハウを駆使して立ち遅れていたサッカー界の利権の切り崩しにロスからスペインへと飛び、82W杯スペイン大会の会場が、まさに今日そうであるようにサッカービジネスの「戦場」と化したのです。

1.W杯サッカー・ビジネスに変革をもたらした人物

  時は1982年。FIFAワールドカップ(略:W杯)サッカーの開催国は、スペインでした。1978W杯は、アルゼンチンで開催されましたが、それまでのサッカー・ビジネスに目を向けるとビジネスコンセプトの存在すら皆無に近い状態で経営、運営、管理がなされていました。まさに大きな混乱を来していたわけです。

 FIFA W杯サッカーは、世界の競技スポーツ界に於いてオリンピック大会以外で最大級のイベントとして巨大化していたにも関わらず、本ビジネス部門は、極めて非力でもあったのです。W杯サッカーの主催は、国際サッカー連盟(略:FIFAFederation of International Football Association)です。

 ホルスト・ダスラー氏の出現:

 ホルスト・ダスラー氏(Horst Dassler/1936~1987年)のマーケテイング戦略に付いて述べる前に彼のバックグラウンドを理解する事が彼を知る上で重要なファクターと考えられます。同氏は、アデイダス(Adidas)社の創業者であるアドルフ・ダスラー氏(Adolf Dassler/1900~1978)の長男でアデイダス社の2代目の最高責任者(略:CEOChief Executive Officerの意味)であったことを先ず記憶しておいて下さい。

アデイダス社の系譜と歴史、

アデイダス(Adidas)社は、アドルフ・ダスラー氏のニックネームであるアデ(adi)とダスラー(dassler)から来ています。アドルフの妻は、アデイダスドイツの経営に従事していたカタリーナさんです。

1924年に、アドルフ氏は、兄ルドルフ氏とダスラー兄弟製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)を設立し創業を始めたのです。

1928年のアムステルダム五輪に於いて、アドルフ氏のシューズは、多くのアスリートに提供され、これが会社の国際的名声と発展に繋がり、「アデイ―シューズ」として初めてその名を博しました。

1936年のベルリン五輪では、米国のジェシー・オーエンス選手にシューズを提供した結果、アデイ―のシューズを履いた同選手が4個の金メダルを獲得し、さらなる名声を世界にとどろかせたのです。

1948年にダスラー兄弟は、袂を分かつ事に成り、弟のアドルフ氏は、アデイダス(Adidas)の創業者として、兄のルドルフ氏は、隣町にプーマ(Puma)を起業し創業者となったのです。アデイダス社は、当初よりつい近年まで長年スポーツ用品の最大手メーカーとして世界に君臨して参りました。

しかし、近年1970年初期に米国に於いて起業したナイキ社の台頭により、今日の世界のマーケットシェアーは、ナイキ社に大きく水を開けられる事となったのです。この理由に付きましては、本シリーズでスペースがあればご紹介致したく思います。

1930年代に入るとダスラー兄弟はナチに入党。しかし、アドルフ氏より兄ルドルフ氏の方がより熱心な国家社会主義者であったと当時から評されていました。

アドルフ・ヒットラーは、アドルフ・ダスラー氏の職人気質を期待してか、ドイツ国防軍のブーツを生産するために重宝された一方、ルドルフ・ダスラー氏は徴兵され、後にアメリカ軍の捕虜となったと記録されています。

兄のルドフル氏は、弟のアドルフ氏と、性格も異なり兄弟それぞれ類まれな才能を持った人物であったようです。しかし、兄弟は、第二次大戦下での軍政下に翻弄され、問題に巻き込まれ、それが原因で兄弟の袂を分かつ結果となる運命であったのです。

アドルフ氏は、職人気質を受け継ぎ、根っからの靴職人であったようです。しかし、兄ルドルフ氏は、性格も異なり経営、マネージメント力に長けていたのです。此の為か兄弟の間では、常に意見の食い違いがあった事も想像できます。

アドルフ氏の長男として生まれたホルスト・ダスラー氏は、アデイダス社の2代目として事業を継承しました。彼は、類まれな経営、政治、ビジネス・マネージメント力に才能を持った人物であり、後に世界のスポーツ界を席巻するようになったのです。1978年にアドルフ氏はヘルツォーゲンアウラハで死去、77歳でした。(以上ダスラー家のバイオグラフィーより)

サッカー・ビジネスにマーケテイング戦略の必要性:

1978W杯のアルゼンチン大会までは、サッカーフィールド内のピッチ周辺に置く広告看板を試合ごと、テイームごとに切り売りをしていたのです。そして、当時は、近年のようなスポンサーシップ形態の「1業種1社」の独占担保権もなく、1業種に複数社の広告看板が出ているというありさまだったのです。

国際サッカー連盟FIFA)は、ワールドカップ(W杯)に関わる諸権利の帰属が不明瞭であるだけでなく、大会組織委員会に帰属するものもあれば、FIFA保有しているものもありで、全く統制が取れていなかったのです。

こうした混乱した状況を整理し、FIFAの持つW杯に、ビジネスマーケテイングの必要性を打ち出し、マーケテイング権を確立し、統合する事を実践した人物が現れたのです。その名は、ホルスト・ダスラー氏です。

このホルスト・ダスラー氏こそが、世界のスポーツ界BIG33人目、最後の人物です。

 注意:これで世界のスポーツ界のBIG3IOCサマランチ氏、84ロス五輪のユベロス氏、そしてこのダスラー氏)と出そろった次第です。

2.サッカービジネスのマーケテイングの開祖として

スポーツに於けるマーケテイングとは:

スポーツ・マーケテイングとは、スポーツサービスを供給する事であり、簡単に言えば「売れる仕組みを作る」こと、と理解して戴ければわかりやすいと思います。その為には、顧客のニーズを第一と考える事です。

つまり、消費者のニーズに合ったスポーツサービスを提供して、その対価を得る関係をより効率よく、より多く築く事がマーケテイングの趣旨、目的となると思われます。

スポーツサービスの供給には、基本的にはスポーツサービス組織とスポーツ消費者との間の交換関係で成り立っています。

メガ・スポーツイベント(オリンピック、W杯サッカー、各メジャースポーツ世界選手権、等)は、単純な交換関係のみで成り立たず、そこにはマスメデイアや代理店(Agency)の介在、仲介が必要となるのです。代理店自身が独立したスポーツ組織として活動する時代になっているのです。

ホルスト・ダスラー氏のマーケテイング手法:

サッカー・ビジネスのマーケテイングに関わる諸権利を初めて統合的に管理した人物がホルスト・ダスラー氏であると言われています。

1982年ワールドカップサッカー(略:W杯))スペイン大会は、イタリアが優勝、ブラジルは、黄金カルテッドが人気であったが2位となる。このスペイン大会は、FIFA W杯にかかわるマーケテイング権を初めて総合的に束ねたW杯だったのです。 そのマーケテイング権とは、大会のマークの使用権、ピッチに看板を出す権利、呼称権、等をパッケージ・セール(一つにまとめて販売する意味)にしたことです。当時この手法は、画期的なマーケテイングセールスであったのです。

 

W杯サッカーのBusiness Right6つに分類:

1.興行権(テイケット収入)

2.ピッチ看板掲出権(大会だけの看板)

3.マークの使用権(FIFAのロゴ・マーク、大会マーク、スポンサーが広告やプロモー

  ションに使用する権利)

4.呼称兼(例:SEKOは、FIFA WCの公式計時スポンサーです)と名乗る権利

5.ライセンシング権(例:大会マークをTシャツなどのマーチャンダイジング(商

  品)に使用する権利、等)

6.放送権(但し、1998年まで、放送権は、FIFAが放送局と直接的に取引していた)

以上6つに分類された商業化権は、FIFAの承認を受け告知された時、世界のスポーツビジネス界では驚嘆の嵐で迎えられました。

H・ダスラー氏は、スポーツという新しいメデイアが持つ力に事のほか興味を持ち神経を集中させたのです。彼は、1970年代からIOC国際オリンピック委員会や、FIFAをはじめとするIFInternational Sports Federations)と呼ばれる国際スポーツ連盟に接近し、特にIOCサマランチ氏、FIFAのアベランジュ会長、 UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のアルテミオ・フランキ会長、IAAF(国際陸上競技連盟)のプリオ・ネビオロ会長との仲は、血縁よりも濃い関係と囁かれていたのです。

このような関係を広めると同時に、主だった国際スポーツ競技連盟のマーケット権を獲得して行ったのです。しかし、UEFAのフランキ会長とは、当初より犬猿の中と関係者が認める仲、日々敵対関係が深まる中、19838月にフランキ会長は、イタリアに於いて自身の運転する車が大型トラックと正面衝突して即死されたのです。本事故に関して、当時は色んな憶測が流布していましたが、事件としては取り扱われていませんでした。

 H・ダスラー氏の政治的手腕と資金力、経営手腕をトータル・マネージメントした能力は、まさに新しい時代に相応しいスポーツ・アドミニストレイターの出現でもあったのです。

 文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORT

 お知らせ:次回K’sファイルNO.50では、82W杯スペイン大会がビジネスの戦場となり、70年代のサッカー界を占拠していた日本の広告代理店、博報堂に一大危機が到来する様子をテーマとして予定致しております。

 

 

K’sファイルNO.48:河田弘道のスポーツブログ1周年を迎えて~

KsファイルNO.48河田弘道のスポーツブログ1周年を迎えて~

 Ksファイル:河田弘道のスポーツブログ1周年を迎えて~

             =お礼と感謝=

    2017417日に「KsファイルNO.1 」を公開して以来既に48回を迎えました。此れも一重に読者の皆様方のご支援、励ましが在ってのことでした。

筆者は、それまで自らの意思で公に文章を公開するなど考えてもみませんでした。きっかけは、米国の大学での指導に続き、日本の大学に於いてスポーツ・アドミニストレイターとして教育の実践現場を経験させて頂いたことで、日本の教育に大きな違和感を持ったからであります。そして、この1年は、本当にあっという間に過ぎ去りましたが、その足跡を記録に残せた事は大きな喜びと新しい挑戦への扉が開かれた思いです。

    これまで長年の貴重な実践経験、体験を如何にして我が国スポーツ界の担い手であります、次世代を担う方々に継承して頂けるかと思案していました。幸い、近年は、最新の情報機器の発達によりましてSNSを通して大量に情報伝達が可能となりました。私は、これを機会に自身が思案、思考していました懸案事項をKsファイルとして発信、公開させて頂いています。

スポーツに関するマスメデイでの話題、専門知識を自らの実践例をリンクさせる事により、判りやすく読者の皆様、社会に還元できたらとの思いで始めた次第です。おかげ様で、読者の皆様からは、本BLOGが大変読みやすく理解しやすいです。との好評を賜りまして大変嬉しく思います。

 2006年に出版された「Gファイル:長嶋茂雄と黒衣の参謀、文芸春秋社武田頼政著」、そして、此の程「K'sファイル:河田弘道のスポーツBLOG」では、筆者の専門分野、部門をより具体的にご紹介できるように努力を続けて参りました。

  K'sファイルは、毎週木曜日の早朝に公開致しております。文章を書いて、アップする作業、公開と全てが初めての試みでした。情報機器の操作方法、入力方法、等は、嘗ての大学の河田ゼミ生の手を借りました。彼らには、本当に深夜もいとわず指導協力してくれる事に心より感謝致しております。また、ご専門家の方にも、いろいろと相談に乗って頂き、温かくご協力下さることにこの場をお借りしてお礼と感謝を述べさせていただきます。

  読者の皆様も私同様に、本K'sファイルは、一体いつまで続くのであろうかと思われた事でしょう。マスメデイアの関係者は、不定期な思い付きか、暇つぶしで1,2回で終わりと推測されていた方も居たようです。ご期待に沿えずごめんなさい。

 私自身は、文章を書くなど一番苦手で長い人生の中でも初めての事でした。それが、本作業を始めて毎週一回、今日まで字数に致しまして、162,373字を記録致しました。毎週平均致しますと3、382字を原稿にしている事になります。

 これは、筆者に取まして自身の能力を遥かに超えたまさにミラクルな出来事であります。また、まさにギネス物です。此れも一重に読者の皆様のお蔭です。文才の無い素人の為に、読者の皆様には大変読みづらい原稿となっていると思われますが、何卒寛大なお心を持ってご笑読下さっている事に深く感謝申し上げます。

  いつも本K'sファイルを愛読して下さっている読者の皆さんには、筆者の寄稿に対する真意をご理解して下さっている事と思います。本来は、もっと本分野に関する時事の出来事を寄稿致したいのですが、時事の出来事が多発致しますので全てに対応する事が難しい状況でありますことをご理解下さい。

 時事への対応は、微力ではございますがFacebookTwitterにマスメデイアに公開された記事に対して、コメントをさせて頂く形を取っています。機会がございましたら河田弘道フェイスブックツイッターを覗いて頂けましたら幸いです。

URLhttps://www.facebook.com/profile.php?id=100010788879354

URLhttps://twitter.com/rinn_trh

  K'sファイルは、日本全国の幅広い読者の方々が毎週木曜日の公開を待って下さっている事も承知致しております。

 これは、筆者に取ましての最大のモチベーションの一つであります。しかし、毎週、毎月のアクセス件数は、まだまだ目標に到達していない状況です。恐らくその理由の一つとしまして、本Ksファイルのプロモーション活動が皆無であることから、多くの方々がまだ本BLOGの存在をご存知ないのだと考えられます。

 読者の皆様にはお手数ですが、本スポーツブログが全国津々浦々まで広がりを増しますよう、一人でも二人でも口コミを通してご協力を頂けますよう切にお願い申し上げます。特に高校生、大学生達、そしてその指導者、教員の方々が興味を持って下されば本K’sファイルの趣旨、目的に一致するものであります。

  このKsファイルは、読者の皆様のスポーツに関しますシンクタンクthink tank)とご理解して下されば幸甚です。Ksファイルの読者メンバー一人ひとりが、やがて日本のスポーツ界の根底を変革し、ジャステイス(正義)とフェアネス(公平)を理念とした新しいスポーツ社会のネットワークを構築する次世代の礎となって下さる事を心より祈念致しています。これからは、よき伝統のみを継承し、悪しき伝統には変革(Change)を!

                                深謝

 

河田弘道                     2018417

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SPORT

 お知らせ:次回Ksファイルは、新しいテーマを予定致しております。ご期待下さい。

K'sファイルNO.47:特別寄稿、レスリング協会の謝罪会見に思う~無断転載禁止

K'sファイルNO.47:特別寄稿、レスリング協会の謝罪会見に思う~

            無断転載禁止

  注NO.47は、予定を変更して特別寄稿とさせて頂きます。

 特別寄稿、レスリング協会の謝罪会見に思う~

 Ⅰ.筆者の視点、

この度の騒動は、伊調馨選手と栄和人強化本部長との間でパワハラがあったとする、第三者から内閣府に対する告発状に端を発した事件出来事でした。

何故第三者代理人弁護士)は、内閣府に告発状を出したのか。一般の読者は、不思議に思われた事でしょう。

また、代理人弁護士は、誰から依頼を受けたのか、その主を明確にしなかったことは大変残念でした。告発を決断するのであれば、事が競技スポーツに関連した問題なのでスポーツマンとして堂々と名乗り出て欲しかったです。後からマスメデイアを通してぞろぞろと出てくるのは、本件の趣旨、目的からして問題の性質や重大さ、特に選手生命、指導者生命がかかっている事のみならず、多くの関連、関係した若い選手達も何らかの影響と心の傷を負うことからも実名で告発する事が望ましかったと筆者は感じます。読者の皆さんは、如何でしたか。

 通常でありますと本競技種目の選手、指導者を登録し統括運営、管理をしている公益法人日本レスリング協会(略:日レス協会)」に申し出るのが筋です。それを行わず、あえて内閣府に提出した理由は、日レス協会は公益法人であり、その許認可権を有するのが内閣府であると判断されたのかも知れません。現在の内閣府では、あまり期待できないと思われます。或は、問題の協会内部を十分に熟知していて、協会に提出する事により、本告発状が内部派閥により握りつぶされる可能性を想定されたのかも知れません。また、協会内部の利害、利権に大変興味をお持ちの重鎮が別の権力を利用してシナリオを描きマッチポンプとして誘導しているのかも知れません。

 しかし、一般的には、先ず日レス協会に告発状を提出すべきです。そして、そのコピーを内閣府に提出して於くのが一般社会常識ではないでしょうか。何故代理人は、正攻法を依頼主に指導されなかったのか。先日の日レス協会の謝罪会見では、何か誠実とは反対な様子が透けて見えたのは筆者だけだったのでしょうか。これが日本独特のスポーツ競技組織の利害、利権ファーストの最たる例のように感じたのも、筆者だけでしょうか。また、日レス協会の会見は、明快なファクトが欠落し、第三者委員会のメンバーも選考方法の開示も無く、何の根拠をもって本第三者委員会が正当と言えるのでしょうか。此れも密室の選考です。

 Ⅱ.問題の本質、

本件の問題をスポーツ・アドミニストレイターの視点で指摘させて頂きますと、押さえるポイントは非常に単純な事なのです。

1人の女子レスリング選手は、五輪で四連覇した金メダリスト、国民栄誉賞受賞者、全日本チャンピオンである事です。この選手を指導して来た指導者は、栄和人コーチ(至学館大学監督)であり、伊調選手は、同大学の一学生選手でした。

その後、伊調選手は、卒業迄は、大学指導者の管理管轄下にあります。卒業後社会人となった時点では、その管理管轄体制が社会人として会社企業(ALSOK)のレスリング部の監督、指導者の管理管轄となるのが日本の企業スポーツの伝統的な構造と体制であります。本件は、先ず伊調選手が栄強化本部長よりパワハラを受けたと認識した事。次に同選手を指導している田南部コーチもパワハラを受けたと認識した事です。そして、両名は、どうして栄強化本部長からそのような行為を受けたのか。が問題の本質です。

筆者は、かつて20年間、NEC SPORTSの会社企業スポーツのスポーツ・アドミニストレイターとして長年の実践キャリアから申し上げている次第です。

 1.問題点、

至学館大学の監督である栄氏が日レス協会の強化本部長としての地位を得た事です。本来ならば、栄氏は、至学館大の監督職を今後も継続するのか、或は、ナショナルテイームの強化本部長職を取るのかの決断をすべきでした。

何故ならば、スポーツ・アドミニストレイターの視点で申し上げますと、至学館大から生活の糧(報酬)を得ており、強化本部長としても協会から報酬を受けていると理解できるからであります。この状態は、栄氏自身が指導者としてすでに業務上コンフリクト(利害の矛盾)を起こしているのです。

協会の本部長としての職責がバランテイアー活動であるとは到底考えられません。若し協会の本部長職が無給であるとするならば、栄氏には、協会の指導、管理責任の重責は問えなくなります。つまり、これは栄氏の問題ではなく日レス協会の伝統的な組織的構造と体質に起因していると考えられます。

②次の問題は、日レス協会から栄氏へ強化本部長としてのオファーがあった時点で本件をマネージメント出来る人材が双方に居なかったと思われる点です。栄氏にオファーがあった時に所属大学側の意向と自らの意思を明確にしていればこのような問題は、起きなかったかと思われます。

或は、栄氏か大学側、或はその両方が両職責を手に入れる事がメリットと考えたのかも知れません。

この度の本件に関して協会側、大学側、マスメデイア記事では、誰もがこの重大なポイントを指摘、触れないのはどうしてでしょうか。単に気付かなかったとは考えにくのですが。

③さらに、伊調選手を指導している田南部コーチは、日本体育大学の指導者で在り、日レス協会の男子強化コーチでもあるとマスメデイアは報じています。此れが事実なら、本件は、別の大きな問題を協会側、同コーチ側及び所属大学が何かを意識的か無意識的か見過ごしてしまっている事に成ります。或は、何らかの理由で黙認していたのか、という事です。

それは、伊調選手が至学館大学を卒業して社会人となった時点で所属、選手資格、指導者、等の告知、情報公開を何故所属会社企業、日レス協会は、行わなかったのか、という事です。

通常、日本人選手が日本の大学所属から会社企業所属に移籍しますと、マネージメントは、企業会社の所属部が運営管理する事に成ります。伊調選手が現在所属する会社企業は、ALSOKと理解しております。ALSOKには、女子レスリング部が設置され、監督も存在します。伊調選手の練習拠点は、ALSOK社に存在し指導者も確保され、日レス協会のみならず、実業団連盟にも選手登録がなされている筈です。そうでないなら、日レス協会の管理責任とALSOKの運営管理責任が問われるわけです。

伊調選手が所属するALSOKと田南部氏との関係はどうなっているのかという事です。

伊調選手が信頼して指導を受けている田南部氏は、ALSOKが雇用しているかどうかが不明瞭。また、ハッキリしない理由は何なのか。

此処で田南部氏の職責は、日体大に所属する指導者であり、日レス協会の男子強化コーチです。その立ち位置の田南部コーチは、何故女子強化選手、ALSOKの会社企業所属、登録の女子強化選手を指導出来るのかは、現時点で告知されていません。

しかし、この事は、スポーツ・アドミニストレーションに於いて重要且つ、明確にしなければ組織としてのガバナンスが維持できないのです。

この問題は、田南部氏が日体大の組織で在れ、日レス協会の組織で在れ、各組織、団体に所属する者として遵守しなければならないルール、指導者倫理がある筈です。何故職責、責務以外の女子選手を田南部氏は、指導していたのかをこの度、誰もが語らない事に強い疑念が残ります。筆者は、何か見落としているのでしょうか。

また、伊調選手が田南部コーチに指導を個人的にお願いしたのか、田南部氏が伊調選手にアプローチしたのか、この所は、重大なファクターであります。この二人の関係は、誰かがオーソライズ(権限を与えなければ)しなければ成り立たないのです。誰かが田南部氏に許可、権限を与えたのであればその時点で田南部氏は、断るか(男子強化コーチであり、日本体育大学の指導者である事を理由に)、或は、依頼書を要求するべきであったのです。

田南部氏が所属する大学には、スポーツ・アドミニストレイターの肩書を持たせた担当者がいるようですが、大学指導者に対する指導、運営、管理が全く出来ていない、或は出来る能力がないのに肩書だけを付与させた見せかけだけの肩書であるのかも知れません。

⑤田南部氏は、伊調選手のバランテイアー指導者なのか、何処から生活の糧(報酬)を受けているのか。これが、明確であれば答えは自ずとして出て来ます。田南部氏には、伊調選手の指導者として明快な依頼書、或は同意書があるはずです。依頼書が発行されているなら、その中に必ず職責、責務に対する対価も明記されている筈です。この部分に付いても、日レス協会の会見では、一言も述べられていませんでした。

この書き物もない田南部氏が個人的理由でこのような過去の状態を維持していたのなら、これは、彼の越権行為以外の何ものでもありません。組織の人間としては失格であり、非常識極まりないと指導者として断罪されてもおかしくないのです。栄氏のパワハラ行為を批判する以前の問題であります。

この問題が伊調選手、田南部氏、双方から明確に事情聴衆し、公表しなければ、栄氏へのパワハラ云々の判断と会見は甚だ片手落ちではないでしょうか。伊調選手にも重大な問題があるのでないかと推察します。明らかに不明確、不明瞭なファクターが未確認過ぎます。

筆者は、上記問題点のファクト(事実)が明快になれば、本件の問題、事件は、自ずと明快な結論と対処法が整うと考えます。これらファクトが、現在出ていない前に謝罪会見を行うとは、日レス協会のレスリング・アドミニストレーションのレベルを問われても仕方ありません。

 

 Ⅲ.日レス協会の謝罪会見での不可解な発言、

此処で先日の日レス協会の謝罪会見に於いて、筆者は不可解な発言をした馳(はせ)副会長の補足コメントが気になりました。

それは、本人伊調馨は、「そろそろ身体を動かしたいので練習場を確保して欲しいとの申し入れがあった」とのアナウンスを日レス協会の会見で馳浩副会長(元文科大臣、前日体大理事、現衆議員)が、松浪協会副会長(元国会議員、元文科副大臣、現日体大理事長)同席で補足された事です。これは、視聴者からしますと何故馳氏がこのことだけを補足発表したのかです。

 どうして、伊調選手は、会社側に「練習会場の確保」を申し出たのでしょうか。これは素朴な私の疑問です。まさか、ALSOK社には、練習場もなく、選手達を渡り鳥させて広告塔としてのみ利用、活用しているのかとふと頭によぎりました。日レス協会は、このような会社企業にレスリング部の設置、登録の許認可を出したとは信じがたいのです。

嘗て、筆者は、企業スポーツのアドミニストレーターとして業務を遂行致していました時に、会社企業の最上層部から難儀な問題が舞い降りて参った当時の事が蘇りました。それは、冬の競技スポーツ種目の1人の有名なメダリストの件でした。

現在の公益法人日本スケート連盟(略:日スケ連)最高責任者(国会議員、政治家、元選手)とその秘書が会社企業に押しかけて来て、同選手の面倒を見て欲しい旨を最高経営者におねだりしたのです。本件に付いて私の意見を求められたので、私は、運営、管理者として「当社には、同選手が在籍する部がない事、予算も大幅にアップしなければならなくなるのでお断り致します。」と回答したのを鮮明に覚えています。但し、会社がお断りできない相手でしたら方法論としては、ペーパー競技部を設置申請、登録してそこに所属して頂き、協会登録をされては如何ですか。本件は、日スケ連から持ち込まれた件なので、練習施設等は先方が準備する事を条件とされてはいかがでしょうか。そして、予算は、広告塔としての役割が主体になるのでしょうから、宣伝部の予算でお願いされると問題ないでしょうと申し上げました。結果そのような運びとなりました。

しかし、本件を持ち込んで来た国会議員とその秘書は、選手のスポンサーを見つける事だけが真意でない事は明白でした。政治家が大企業との関係を構築、期待する忖度がそこには働いているので、本メダリストを政治活動のツールにしたと、私は今でもそう認識しています。

よって、この度の日レス協会の会見の場で、馳国会議員が唐突な伊調馨選手の補足コメントを持ち出した時に、私は、かつての政治家と企業スポーツの関係、競技スポーツの組織・団体に政治家、国会議員がやたらとポジションを欲しがる日本のスポーツ界の悪しき伝統をこの度の記者会見でも拝見したと感じた次第いです。 オリンピック招致活動の政治家の目的にも似ていますね。

スポーツ・アドミニストレイターの視点で申し上げますと、事の次第は、単純なのですが、それを誰かが複雑怪奇にしてファクトを隠蔽している所をマスメデイアがスキャンダラスに商品化している構図が透けて見える次第です。スポーツ・ビジネスの視点では、伊調選手の商品価値が競技による実績にプラス国民栄誉賞という付加価値が政治的に加味されたことで跳ね上がっている証しでもあるかと思われます。

伊調選手しかり、吉田選手しかり、彼女らは、一日も早く現役を続行するのかしないのかの判断を告知する事が社会に対する責任でもあると思われます。何故明言しないでCM活動に精を出すのでしょうか。

これは、個人の問題ではありますが、「飛ぶ鳥跡を濁さず」との諺がある事を老婆心ながら付け加えさせて頂きます。読者の皆様には、どのように映っていますでしょうか。

 大切にされるべきは、選手生命です。しかし、選手側の自己管理能力の有無もこの度の問題の大きな要因になっているのも確かだと考えられます。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SPORT