K'sファイルNO.46:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅣ.)無断転載禁止

 

K'sファイルNO.4684ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅣ.)

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注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 PARTⅣ~筆者の米国に於ける日系人社会との出会い~

1米国大学競技スポーツの紹介

   まず初めに筆者は、長年米国の大学で競技スポーツの運営・管理に携わり、教鞭を執って参りました。米国に於ける日系人社会との出会いは、この米国の大学で指導してきた時期に遡(さかのぼ)りますので、米国と日本の大学競技スポーツの違いについてご説明する事から始めたいと思います。

  スポーツ大国米国の競技スポーツの構造とそのシステムは、日本とは、発想の原点と社会、文化が異なるので、読者の皆様にはすんなりと理解し難いかも知れません。しかし、米国のスポーツ界が日本の伝統的な構造とシステムとは、異なる所の知識を是非付与して頂きたくこの機会にご紹介致します。良いと思われるところは、是非参考にして頂き我々は我々の身の丈に合ったスポーツ文化の構築に取かかろうではありませんか。

此処では、本テーマに必要な一部をご紹介し、詳しくは、今後別途米国大学競技スポーツの実態、現状、問題、及び組織・団体について読者の皆様が興味が有りましたら機会を見て、詳しくご紹介させて頂きます。

全米大学競技スポーツ統括組織・団体の歩み

    日本に於いて、今日この「NCAA」という名を利用した話題作りを政府機関、マスメデイアが行っているようですので、本K'sファイルの読者の皆さんは、確りとした基礎知識を理解して戴き関係者が何をしようとしているのかの正しい視点で理解と判断をして頂ければ幸いです。

  NCAAとは、全米大学競技スポーツ協会(National Collegiate Athletic Association)の総称です。

NCAAに加盟している大学は、現在約1275(全米50州中)で加盟校はⅠ部校、Ⅱ部校、Ⅲ部校に区分されています。但し、マスメデイアで報道される大学は、殆どがⅠ部校のフットボール、バスケットボールの強豪校であります。

本組織・団体は、1905年に設立され当時既に800校が加盟し競技スポーツがNCAAのルールの下で行われていました。この時期日本に於いては、まだ大学と言う名称も無く、教育機関での余暇活動と称されていました明治時代です。

 女子の大学競技スポーツは1971年までNCAAに加盟参加できませんでした。1972年に男女平等な教育を受ける権利の法律(タイトルナインⅨ)が施行され、スポーツに於いても女子選手が男子と同じNCAAのルールに基づいた権利を獲得したのです。本法律は、ニクソン大統領により署名され当時の大学キャンパスはもうお祭り騒ぎで在った事を筆者はキャンパスで強烈に感じていました。

    しかし、米国に於いては、この当時まで女性に対する差別があったのです。1972年よりNCAAに各大学の女子競技種目及び学生選手が登録され、全米大学選手権を毎年争う事になったのです。

NCAAに加盟登録できる競技スポーツ及びその数は、男女ともに決められています。オリンピック競技スポーツ種目に入っているからと言って、認められるわけでないのです。例えば、日本で注目されているような女子のレスリングは、全米大学競技スポーツ種目として認められていませんので大学にはありません。此れには、明快な根拠があるからです。

米国の競技スポーツはシーズン制

   米国の大学競技スポーツ(中学、高校、プロも同様)は、シーズン制を形成し男女共に新学期を迎える秋、冬、そして春の学期に終了するプログラムとスケジュールに成っております。簡単に言えばこの3シーズン中に各競技スポーツ種目は、全米学生選手権を最後にそのシーズンを終了するのです(日本の競技スポーツのように幼い頃から一つの競技スポーツを365日行っているわけでありません)。

 各競技スポーツ・テイームを持つ大学は、各カンファレンスに所属し、その全カンファレンスを統括運営、管理している組織・団体がNCAAという名称で呼ばれています。(カンファレンスとは、日本のリーグと本質に於いて異なるコンセプトの下に運営、管理されています)

日本の大学競技スポーツとの基本的な違い

 日本の大学競技スポーツと大きく異なる点は、沢山ありますが、そのうちでも代表的なのは「競技スポーツがシーズン制」の為に各競技種目毎に決められたシーズンの期間にのみしか練習も試合も許可されません。シーズン以外は、大学の指導者の指導を受ける事が出来ず、施設は自主トレーニングとしてのみ使用可能です。

 ルール違反者は、NCAAのルールに従い厳しい罰則が待ち構えています。また、学生選手達は、シーズン制なので複数の競技スポーツに登録、出場が可能なので有能な選手は、複数の競技を兼務する選手もいる所が日本と大きな違いです。このシステムは、一つの種目に偏らず、秋、冬、春の競技スポーツを経験できることにより、その学生選手が最終的にどの競技スポーツを選択するか中学、高校時代からこのシステムの中で育って来ているので、大変合理的且つ、賢明なシステムであると筆者の現場を指導した経験からも思います。

  もう一つは、各学年履修単位数が決まっている為にフルタイム学生(fulltime student)と呼ばれ最低限の単位数が決められています。米国の大学生の生活には、フルタイム学生とパートタイム学生(Part-time student)に区別されます。フルタイム学生の定義は、卒業単位数の四分の一を各学年で履修取得する学生の事です(勿論、有能なフルタイム学生の中には、3年で4年間で取得し卒業単位を確保、学位を取得)する学生達もいます。

 筆者自身が教員体験しました日本の私学の一つでは、優秀な学生が3年で卒業単位の124単位を取得しても、4年目の授業料を納付、在籍しなければ卒業証書、学位を出さないというような品格の無い大学経営者も居る事に呆れて言葉も出ませんでした。読者の皆さんは、如何でしたか。此れでは、学生達を集金マシーンとしか考えていない証しのように思えてなりませんが・・・?

NCAAのルールでは、先ず学生選手(Student Athlete)は、このフルタイム学生である事が大前提なのです。

 パートタイム学生とは、何らかの事情、理由でフルタイム学生に成れない事を意味し、毎年、毎学期、履修登録する科目数だけの授業料を支払う学生の事を指しています。但し、外国人留学生は、フルタイム学生として毎学期の履修登録単位の取得、授業料の支払いが義務付けられています(移民局も関係)。

 筆者の経験では、このパートタイム学生の殆どは生活の糧となる仕事を最優先している学生達が殆どであります。勿論、授業料を支払う能力が在れば、既に本学のアドミッションを受けているので何時でもフルタイム学生になれます(日本もこのシステムは、真似て欲しいと日本の大学現場で感じました)。

 また、毎学期履修登録した全科目は、学生選手にNCAAによって定められたGPAGrad Point Average:履修登録された全科目の成績を数値化した平均値)数値以上の成績を確保維持しなければ、シーズンの対抗競技戦のロースター入り、試合の出場が出来ないのです。毎試合前日の決められた時間帯には、出場選手のアカデミックルールの確認を行い、NCAAオフィスにPCを通して報告する義務がありました。

これは、大学競技スポーツが教育の一環で在りその延長線上に位置している事を明確にした重要なルールの一つです。これにより、学生選手の根幹となす学生の定義Definition)に触れているのです。日本の学生競技者及び大学教育機関に全く欠落している部分です。

このルールに違反をした場合は、NCAAの査察班によりインベストゲーション(特別調査)が行われ短期間で結審されペナルテイーが決定する仕組みになっています。

規則・ルール・罰則はアドミニストレーションも同様、

 このようなルールを日本の大学競技スポーツに当てはめますと全く競技が出来ない大学が大半出て来てそのリーグも崩壊すると思います。それほど、厳しいルールが沢山あると言う事です。

例えば、日本の大学箱根駅伝に出場させるために、野球、バスケットボール、その他に於いても、外国人選手を安易に買って来たり、日本人選手を買って来たり、入学前に卒業、学位授与を確約したり、先日のメダリスト選手の様に4年間同学年の学生が一度しか見たことが無いという学生に卒業証書、学位を授与したり、毎月数十万円のキャッシュを渡したり、リクルート違反、等とこのような事を米国の大学で行うとどうなるのでしょうか。

 即NCAAから査察班が大学、学生選手に対して調査が入り、NCAAの裁判で裁かれます。米国の大学の場合は、殆どが同大学の同競技選手、教職員からのNCAAへの内部告発、対戦相手からの告発、等が大きな要因となっています。これらも、彼らは、基本的にJusticeとFairnessをリスペクトしている証の一つでもあると理解しています。

  そのペナルテイー例として、大学には、4年間以上NCAAに登録している全競技スポーツの出場停止処分、大学の経営責任者、指導者、管理者、は、雇用契約を破棄、学生選手は、永久追放となる可能性が高いです。

筆者が運営、管理に関わっていました時代に、某大学で事実処分された悪夢が蘇ります。この大学の全競技スポーツが復活するまでに約15年以上の年月を要しました。このルールが現在の日本の大学に適応されると、殆どの大学が競技出場停止、経営者、管理者、関係者解雇、学生選手は、永久追放となると思います。

複数の競技種目が選択可能

 このシステムは、学生選手の真のスポーツ競技、種目の適性、適応能力を判断する為に大変効果的且つ、賢明な方法です。このことからも米国大学競技スポーツ及び学生選手は、教育の一環とその延長線上にある事を明確に定義づけているのです。日本では、その学生選手がその競技、種目に向いていなくても、一競技種目しか小さいころからやらせてもらえないのは、非常に教育上に於いてもアンフェアーの指導方法と構造及びシステムです。このような事から日本に於いては、選手の「育成」という言葉があっても選手が育たない最大の要因の一つだと思います。

日本版NCAAへの素朴な疑問

 今日、日本に於いては、文科省スポーツ庁の音頭で「日本版NCAA」と称する組織の構築を声高にされていますが、権威あるNCAAの名称をキャッチコピーしてちゃっかり御旗にしているようでは、「中国の偽りコピー商品を非難できない」のでないでしょうか。

  日米大学競技スポーツの間には、約113年の歴史的違いがあり、趣旨、目的及び本質は全く異なります。またNCAAの名称をキャッチコピーするのも失礼極まりないと思います(この名称は、1970年後半にワールドワイドな商標登録がなされた筈です)。2020東京五輪後を見据え、今度は、大学スポーツを利用し教育という名に於いての利権構築、また公金が狙われ負のスパイラルが立ちきれない事になりかねません事を老婆心ながらご注意申し上げます。

  もう既にスポーツ庁は、ある大学に対して日本版NCAAに関する名目で事業業務委託を行い何か事前の事業を始めているかに聞き及んでいます。勿論これによる助成金補助金が今度は文科省経由でなくスポーツ庁経由でなされているかに聴こえてきているのを皆さんはご存知なのですか。

このような事は、利害、利権を教育界に持ち込む要因と温床の最たる問題の一つでないかと思います。このような試みは、教育の一環とするならば何故フェアーな情報開示を行わないのか。

これからは、文科省が窓口でなくスポーツ庁文科省に代わって公金流出の窓口になるようです。よって、文科省スポーツ庁に深い関係と強いコネがある大学管理者、経営者は、既にその大きな裏の恩恵にあずかっているような大学教育機関で在ってならないと思います。

もうすでに、スタート前からフェアネスを踏み外してしまっているようですが、如何なものでしょう。此れも各大学関係者、関連機関は、勇気を持って声を上げないで無関心を装うので、ルール、モラルをリスペクトしない大学関係者が政治家と通じて我がもの顔で利得を得ようとしているようです。此れが我が国の教育機関、教育者、経営者の実体かと思うと実に情けないです。

日本の大学競技スポーツへの提案

 日本は、社会、環境、学生選手に合った統括組織、団体、が不可欠です。もっと専門家と称する関係者は、英知を絞って他国の模倣でなく、我が国の身の丈に合ったオリジナリテイーの高い組織・団体の構築を目して欲しいと思います。

関係者の中には、「金儲けをする為に、日本版NCAAを作る」と叫んでいる政治家、大学関係者が居るようですが、このような趣旨、目的では、1620年の五輪招致活動と同様に、大切な公金がまた無駄に流れ出る事になりかねません。これは、決して大義になり得ない諸悪の根源なのです。

 日本の大学には、スポーツ・ビジネスを行う商品価値のある競技スポーツがあるでしょうか。代表的なものとしてすぐ思い浮かぶのは、大学箱根駅伝です。現在本利権を確保している組織、団体は、お気を付け下さい。この競技種目は、狙われている唯一の商品なのかも知れません(K'sファイルNO.29~33大学箱根駅伝は誰の物)。

また商品を開発する前から「捕らぬ狸の皮算用」をしている関係者も大勢います。大半いるという事です。関係者の間では、広告代理店を利用してスポンサーシップをと目論む動きも既に始まっています。代理店を大学に呼び、商品価値はどれぐらいか、そろばんをはじかせたようですが、大学にスポンサーシップを付ける商品価値、そしてマーケットセアーが小さすぎてキャッシュにも換算できなかったという失笑話も筆者の耳には既に入って来ています。これでは、スポーツ・アドミニストレーションのレベルが疑われます。

 また、余談になりますが、日本のマスメデイアは、NCAA全米大学体育協会と訳していますが、これは、体育と競技スポーツの本質を理解できておらず適切な訳語ではないと思われます。体育協会と訳したいのならば、National Collegiate Physical Education Associationが正解かと思われます。丁度私が米国大学の代表者の1人としてNCAAの会議に出席していました時(1970年代中盤)に、日本ではこのような訳がなされている事を問題提議しました時に委員会の関係者から、「日本はAthletic SportsPhysical Educationを、混同されて理解しているようですね」と大笑いされたのが今も強い記憶に残っています。そして、それを1978年の文部省体育局長の招聘講演で「NCAA、米国大学競技スポーツの現状、日本体育協会国民体育大会、等の名称の問題、等」として報告致しました。しかし、今尚使用し続けている事は、進歩していないという事なのかも知れません。

  今日まで長年維持して来た「日本体育協会」の名称が「日本スポーツ協会」に本年度4月から名称変更されました。国民体育大会5年後の大会から「国民スポーツ大会」に改称される見通しだそうです。

筆者の米国大学を起点とした遠征先での貴重な出会い

米国大学競技スポーツの商品とその価値

 特に男子のフットボール、バスケットボールは、圧倒的な集客力、収益を獲得できるドル箱商品であります。しかし、価値ある商品(勝てるテイーム)を持っている大学とそうでない大学との格差は拡大するばかりです。NCAAのビジネス価値のある商品は、フットボールとバスケットボールです。例えば、フットボールNCAAチャンピオン大学と準優勝テイームには、毎年両大学に対して均等にそれぞれ10億円が主催者組織から寄付されています。

  その他の公認競技スポーツ(男女)は、金食い虫と表現した方がビジネス的には理解しやすいかと思います。しかし、そこには、教育の一環として、延長線上としての競技スポーツの大義、趣旨、目的がある事を忘れてはなりません。

  日本人として、米国大学の競技スポーツのスポーツ・アドミニストレーターとして、また大学代表者の1人としてNCAAで業務活動していたのは、筆者がその先駆者で多分唯一の実践者ではないかと自負しております。

  フットボール、バスケットボールのシーズン中は、空港にチャーター機がスタンバイしていますのでアウエイでは学生選手、スタッフ、管理職、チアリーダーズ、等と共に木曜日の午前中の授業終了後には、バスに乗り込みそのまま空港で待つ専用機まで直行と遠征が半年続くのです(フットボールは、8月下旬にシーズン開幕、12月上旬に公式戦終了、1月下旬までポストシーズン招待試合、バスケットは、12月初旬開幕4月上旬公式戦終了)。

  私は、このような大学競技スポーツの運営、管理していました関係からアメリカ西海岸のみならず、全米各州の日系人社会、日系人、各対戦する大学の後援会のみならず、日系人関係者とは非常に密な関係を構築できたと自負しています。勿論、筆者が日本人で在った事が理由です。このような関係から日系人の人達が彼らの母校がアウエイで本学にテイームの応援に来られる時は、観戦席の確保、ホテルの確保をプライベートでお手伝いさせて頂きました。日系人の関係者達は、本当にいつも相手方の大学のスポーツ・アドミニストレーターであるにも関わらず、日本人という事からいつも温かく迎えて頂いた事に心より感謝しております。

日系人社会と日系人の共通した意識と認識

  私の長きに渡る経験から申し上げますと、日本人は、日系人とその社会に対して何故か軽視する傾向が感じられ、此れも日本人独特の偏見なのかどうかは、今尚理解できない問題の一つであります。その一方で日本人は、日系人の方々に多くの願い事、協力をして頂き救われた事が数限りなくあるのも事実です。しかし、表舞台で日系人の方々を称える声をあまり聞かないのは、丁度日本の選手がお世話になった大切な裏方の人達(真の指導者、トレーナー、医師、等)を公で紹介したり、感謝の意を述べたりしない事とよく似ているように思えてなりません。

 これは、どのような理由でそうさせるのか、今後の大きなソーシャルスタデイーでの課題だと思われます。何故一人で成功、大きく成ったような言動、態度でいられるのでしょうか。特に競技選手(Athlete)は、喜びも悲しみも誠実にセアーできる社会である事(本当にお世話になった相手の意思を尊重して実名で)を心から祈念します。人として大切な事は、相手に対して敬う心を持ち、相手に手を差し伸べ、自らを律する事を多くの日系人の関係者、親友、友人から学ばせて頂きました。

以上が筆者と米国大学競技スポーツを通して、日系人社会、日系人との関係構築に付いて簡単に整理、ご紹介させて頂きましたのでご参考にして頂けましたら幸甚です。

  読者の皆様には、これからの日本の競技スポーツ界、スポーツマスメデイア界、スポーツ組織・団体、大学競技スポーツと少しでも専門知識を補強して頂き、今後は起きるであろう、より一層複雑怪奇な出来事に対して、理解と適切な判断をされることを切に願う次第です。

これをもちまして、この度のシリーズ(K’sファイルNO.38NO.46)を終了させて頂きます。

 文責者 河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORT

 お知らせ:K'sファイルNO.47からは、今日のワールドカップサッカー(略:WCサッカー)の公式広告代理店の争奪戦の勝ち組は・・・をシリーズで予定しています。これまたドロドロのスポーツ・ビジネスの戦場バトルが繰り広げられる!

 *興味が有りましたら本年度卒業した学生のURLをご参照ください。

http://hktokyo2017041.hatenablog.com/entry/2018/03/28/093547 

特別寄稿集:河田弘道教授の講義から~

 題:卒業前の米国大学競技スポーツ観戦旅行を終えて 文責 鈴木善之

 

K’sファイルNO.45:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PARTⅢ.) 無断転載禁止

K’sファイルNO.4584ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PARTⅢ.)

                                                無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 PARTⅢ. 84ロス五輪と2020東京五輪の統括管理者達とそのまとめ~

    この度は、2018年冬季五輪月間でありましたので2020東京五輪84ロス五輪と其の比較、そしてスポーツ電通の関わりに付いてシリーズで述べさせて頂きました。本K'sファイルNO.45では、PARTⅢ、PARTⅣ、を一気に掲載させて頂く予定でしたが、PARTⅣ.~筆者の米国に於ける日系人社会との出会いと歩み~は、次週掲載を予定とさせて頂きます。

 1.森喜朗氏とP・ユベロス氏の違い~

 森喜朗組織委員会会長への素朴な疑問?:

     筆者は、先ず森喜朗会長がアスリート(競技者)をリスペクトした発言を耳にしたことがありません。同氏は、我が国のアスリートを貶したり、暴言を吐いたりする事はよくマスコミメデイアを通して耳に致してきました。このような人物を2020東京五輪組織委員会会長の玉座に推挙することは、適切ではないと私は思いますが、読者の皆様は如何でしょうか。

    会長選考は、選考基準、選考方法も公示せず、誰がどのような理由で何の為に選んだのかも未だにグレーのままです。フェアーな選考委員、選考委員会は、存在したのか、何処の誰がどのような理由で選考したのかも明確な情報公開が全くなされないままのようです。このような選考では、戦前、戦後間もない時代のような何か不純な他意があるとしか思えません。このような事は、民主主義国家たるに反するフェアーでないアドミニストレーションです。スポーツに必要不可欠なリーダーたるや、爽やかさと清潔感があり、人からリスペクトされる魅力を持ち合わせている事が大前提であると私は思います。

   2020年五輪東京大会、組織委員会会長の森喜朗氏と84年五輪ロサンゼルス大会、組織委員会・委員長のP・ユベロス氏とは、理念、コンセプト及び略歴、選考方法、等を含めた比較を致しても、全てに於いて一目瞭然でその違いを理解して戴けたかと思われます。

   特に二人の相違は、森氏が組織の長として奉られた名誉職のような存在であるのに対して、P・ユベロス氏は、実質組織のトップとして実務を自ら取り仕切るゼネラルマネージャー(GM)であり、かつまたビジネスマネージャー(BMでもある点です。

前者は、日本の政界に於いて自由民主党の政治家(元文部大臣、元総理大臣を歴任)として卓越したキャリアを持たれた、日本の伝統的なスポーツ組織・団体の親分です。後者は、両部門(GMBM)を実践的に統括経営、運営、管理できるまさにクリーンな最先端のスポーツ・アドミニストレーターの実践者であり、成果と結果も申し分ない人物でした。

   この違いは、招致活動から今日に至るまで、組織の統括責任者としての言動、行動、対応を読者の皆さんが感じておられる通りです。このような選考では、国民、社会に与える暗いイメージは計り知れないと思います。

  一方、P・ユベロス氏は、ロス五輪後米国共和党カリフォルニア州知事として立候補を予定していましたが、丁度同党からアーノルド・アロイス・シュワルツェネッガー氏(Arnold Alois Schwarzenegger, 19477 30 - )が立候補した為、共和党は、シュワルツェネッガー氏を擁立した経緯が在りました。ユベロス氏は、政治家としてのセンス、実力を兼ね備えていた事も州民が認めるところです。その後同氏は、メジャーリーグMLBコミッショナーの要職に就きました。このような人物こそが、信頼できる政治家であり、スポーツ・ビジネスアドミニストレーターなのだと思います。世界のスポーツ界に変革を与えたBIG31人と言われる所以です。

   此処で誤解を恐れずに申し上げますと、筆者は、森喜朗氏個人に対しての良し悪しを申し上げているのではございません。私は、同氏との面識も利害関係もありません中立の立ち位置です。同氏を本組織委員会の総責任者として祭り上げた関係者の「都合」が問題であるのでないかと申し上げているのです。このことは、組織内に於いて談合がしやすい利権構造にしてしまっている事、よって国民、社会に情報公開がなされない事が問題であると指摘させて頂いているのです。おそらく、ご本人の森氏は、このような事を思考されたこともないのでしょう。

   もう一つ疑念が残されています。2016年、2020東京オリンピックを招致しようとした国会議員連の政治家達とJOC東京都知事、そして関係者は、何故84P・ユベロス氏が残した貴重な財産の運用、活用を検討もせず、公金(税金)を引き出すことのみに執念を燃やしたのか、此処にどの様な理由と真意が潜んでいるかです。或は、これら関係者は、専門的な知識と情報が欠落し、公金を使う事のみに魅力と興味が有ったのでないかと思われてもしかたありません。

   客観的に申し上げられます事は、森喜朗氏自身が問題の本質を認識されていないのだと推測させて頂きます。政治家の持つ常識と我々国民、社会の常識とは、全く真逆か、或は、正義と公正の感覚がずれているのでしょうか。

  若しかして、真のスポーツ・アドミニストレーターとして求心力、カリスマを持った人材が日本には居なかったのでそのようなアイデイア、知恵も醸成できなかったということでしょうか。私は、そうは思いたくないし、そうであって欲しくもありません。読者の皆様の本音は、如何でしょうか。

  皆さんが無感心を装い、勇気を出して発言されないのでグレーゾーンの中に入る人達が増殖して行っているような気がしてなりません。我々国民一人一人にも責任の一端は、確かにあると思います。

 IOCのオフィシャル広告代理店としての電通

    広告代理店電通は、84年ロス五輪以降、IOCのオフィシャル広告代理店となり、今日もこれからもIOCと契約関係にあります。84年以後全てのオリンピック大会の公式代理店は、電通であります。

 84年迄の日本の広告代理店は、二巨頭として電通博報堂が君臨していたことを知る方々も多くいると思います。世代に寄っては、博報堂のネーミングすらご存じない方がいるかも知れません。1982年のワールドカップサッカー、スペイン大会の広告代理店は、博報堂でした。Jリーグも1993年の開幕から博報堂でしたが、今やその影はサッカー界において見当たりません。箱根駅伝のスポンサーシップの広告代理店、また高梨沙羅選手の代理店は、博報堂です。この事は、「KsファイルNO.29~33河田弘道の素朴な疑問:大学箱根駅伝は誰の物」、で紹介させて頂きましたのでご参照ください。

   電通は、当然IOCのオフィシャル広告代理店であり、東京五輪組織委員会の国内のオフィシャル広告代理店としても、全てのスポンサーシップを独占的(Exclusive)にビジネスマネージメントを行っています。よって、電通は、何処でオリンピックが開催されようとも事業、ビジネスに損失は生じない構造とシステムに成っているのです。読者の皆さんは、ご存知でしたか。

   2016,2020年の東京招致活動から、そして組織委員会と殆ど大会の経営、運営、管理に携わる関係者達は、これらのノウハウも持ち合わせていないために、略全てを電通さんにお任せしてお預けしてしまったと申し上げても過言でありません。(例えば、オリンピックのプレゼンテイションの台本からスピーチの人選、雛壇に並ぶ人選までも)

 政治家達とその関係者達の仕事は、国民、都民の貴重な血税である公金が使えるように準備されたと申し上げた方が判りやすいかも知れません。このような構造とシステムの中で、流れ出て行く公金の使途を精査するかどうかもこの政治家、関係者の裁量に委ねられている、悲しい構造である事に我々国民は、無関心を装っているのです。読者の皆様は、長野冬季五輪組織委員会の重要書類が焼却処分されていて不正の調査が立切れとなった事は記憶に新しいのでないでしょうか。このような問題は、今日に於いても財務省局長の国会答弁でも同じような事が繰り返されている事をご承知の筈です。

 真の情報開示の必要性、

   これらの重要な情報は、国民と社会に誰が提供すべきなのでしょうか。どうして我が国の国民、社会は、このような現実に対して無関心を装おうとするのか、個々の大多数の国民は、本当は疑問と疑念を抱いているが、個人の力ではどうせお上には伝わらない、逆らえない、よって言ってもしょうがない、とそのあきらめによる無関心な「心」が不誠実な人達を醸成し、わが日本国を蝕んで行っているのでないかと私は考えます。

   皆さんは、84年ロス五輪の運営・管理方式と2020東京五輪の運営・管理方式のどちらのコンセプトを採用するのが日本国民と社会に取って適切だとお考えですか。もっと国民、社会は、無関心を装わず強い関心と意識を持って勇気ある発言力と行動力を持たなければ、この国は近隣諸国に略奪される可能性も近い将来あるかも知れない。そういう危機感を持って欲しいです。国民よ、そして若者よ、目を覚まそうではないか。皆様の「心」に変革(Change)が必要な時代と時がやってきたのです。現在の我が国の構造的な問題を改善、改変しなければ若い世代に未来は訪れないです。

 筆者が組織委員会の統括管理者であったなら、

    僭越ながら、若し筆者が2020年東京大会の組織委員会で、真の実権が与えられたならどうしただろうとふとクリエイトする事があります。私は、一部ロス方式を活用したかもしれません。それは、IOCのオフィシャル広告代理店が日本の企業電通である事を大いに利用して、20年東京大会組織委員会の権利である国内スポンサーシップ販売権を電通HDYグループ(博報堂、大広、読売広告)、その他広告代理店に対し、競争の原理を活用し、少なくとも公金の負担を軽減できる金額を提示した代理店に権利を譲渡する手段を用い、スポンサーシップ権を有効活用しようと考えます。この方式をIOCに承認させるのが政治的な手腕であると確信している次第です。如何でしょうか。

   何故ならば、ご存知の通り2024年のパリ、2028年のロサンゼルスと招致を希望する都市がこの都市しか立候補せず、東京のような招致合戦が無くなったためにIOC及びその理事達は窮地に立たされていたのです。要するに日本国内の招致合戦(利権争い)をIOCの理事達に上手く利用されたのです。

   これによりオリンピック開催は、国内企業への経済の活性化、国民、社会の一体化へと繋がり、使用しなかった公金は、東北のみならず震災復興に全て還元し、一人でも多くの苦しまれている国民を救えたのではないでしょうか。これらは、関係政治家、関係者の「心」による判断と決断をもってして可能であったことです。読者の皆様には、ご理解頂けましたでしょうか。

 文責 河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K'sファイルNO.46では、これまでのシリーズの中で筆者は、米国に於いてどのようにし日系人社会、日系人達と関係構築したのだろうと興味を持たれている読者の方々がいらっしゃるとお聞きしましたので、別途述べさせて頂きます戴います。笑読下されば幸いです。

K'sファイル:特別寄稿集:河田弘道教授の講義から~

特別寄稿集:河田弘道教授の講義から~

 題:卒業前の米国大学競技スポーツ観戦旅行を終えて

 この度57日という日程でアメリカ旅行を計画し終えました。

大学では、スポーツ経済学を専攻し河田ゼミに所属、アメリカで豊富な実践経験を積まれた河田教授の下学んできました。この経験から「是非自らの目で学んだことの総復習を」と計画に至った次第です。

 先生は、アメリカと日本の大学スポーツの違いを自らのご経験から語ってくれました。教育という現場においての日米の現状の違いや学生の競技スポーツの現実と現状など細部まで詳しく学ばせて頂きました。このことを踏まえた上で大学最後の実践的学習として現地で大学競技スポーツを観戦しました。

 率直な感想としまして、講義の内容全てそのままでした。今回は、先生の母校の一つでもあります『オレゴン大学』と『UCLA』の大学バスケットボールのシーズン公式戦の1試合、UCLAのホームゲームをUCLAのキャンパスにあるバスケットボール専用アリーナで観戦できました。

 手始めに観客の数、バスケットボールアリーナのクオリテイー、選手のスピード、スキルに圧倒されました。講義の中で散々聞いていました状況ですが、生で観戦した時の興奮を帰国後の現在でもはっきりと体感に残っています。

選手のユニフォームがキャンパス内のブックストア―で普通に販売されていることや、観戦している観客全員が大学のユニフォームを着用していたり、私たちが観戦した席も100ドル(約12000円)を超えていますが、周りは満席状態と初めて尽くしの光景を目の当たりにしました。

 日本の大学競技スポーツとは、いったい何なんだ、何故指導者、教員は、もっと実践に則した指導ができないのか。何か我々学生は、日本の大学教育、専門教育に疑問を抱くようになりました。

学生スポーツで日本のプロスポーツ以上の席料金になっています。アメリカでの大学競技スポーツの注目度、商品価値と日本のそれとは、余りにも格段の差があることが明らかになりました。このショックから現実に戻るのに大変な一日になりました。

 日本の大学競技スポーツを自身が経験したことを踏まえて比較してみても全てに於いて桁外れの規模と現実を確認致しました。

日本版NCAA云々の話題を此の所マスメデイアで語られるようになりましたが、関係者達は、全く大学競技スポーツの日米の現実の差を知らない人達である事が明確になりました。

 日本の大学競技スポーツは、河田教授の講義でも学びました通り、ステップバイステップ、一歩一歩出来ることを改善、改革して行く事であり、米国の大学競技スポーツやNCAAの真似など100年早く、不可能な現実をこの目で確認でき肌で感じる事が出来ました。競技以外の規則、ルールを守らない、守れない我々が、日本版NCAAとは何を考えているのでしょうか。呆れます。

スポーツビジネスとしての規模も人気も、そしてそれらの商品価値も、日本の大学競技スポーツの資質があまりにも低いので比較対象にもならない現実を目にする事が出来ました。

 此れで、河田教授の講義授業は、学内外の教員が机上での資料を集めて講義授業をされているのに対して、先生の長年の実践、実績に基づいた論理的に体系づけられた講義授業で在られた事を社会人になる前に自分で確認できました。

 此の程の両校のバスケットボールを観戦しながら、私は、先生の姿が目に浮かびました。先生は、このような環境で長年それも米国の強豪大学でスポーツ・アドミニストレーターとしてフットボール、バスケットボール、野球、その他、またNCAAに於いても活躍されて来られたので、講義授業におかれても迫力が全く他の授業と異なり、説得力があり僕らを変革して下さった方だったんだ。と帰国の飛行機の中で感謝の気持ちでいっぱいでした。

 先生との出会いは、私の生涯の貴重な宝物であり、財産でした。此処に改めて心より感謝とお礼を申し上げます。

 

文責者 鈴木 善之               2018年3月1日

K’sファイルNO.44:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅡ)無断転載禁止

K’sファイルNO.4484ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅡ.)

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      注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 

Part.Ⅱ.~電通のロス五輪プロゼクトの最終交渉~

 1.電通ロス支局は最強の最前線基地、

 ①ロス支局の人材と対応実践力、

    電通P・ユベロス氏への接近計画は、当時本プロゼクトが企画・遂行される前から現地ロサンゼルスの電通支局がその最前線基地となる事から、当時の支局幹部、他現地スタッフの方々は、戦場さながらであったに違いありません。その最大の任務は、本プロゼクトに関するあらゆる情報の収集、および整理作成、そして分析が水面下で遂行されていたと思われます。さらに分析された情報は、レポートされ築地電通本社の企画本部に打電。そこから指示待ち、再度情報収集と分析、レポートと繰り返し続く作業は、24時間(時差もあり)それはまさに戦場そのものであったと思われます。

    電通支局には、東京本社のあらゆるグループ、部署のプロデユーサーレベルから、管理職の方々からの情報取り、そしてその返信にも対応しなければならず、どの部署の誰にどのような情報を入れるかの選別も大変神経を尖らせた事と察します。しかし、このような有能なロス電通のスタッフの方々の能動的な血のにじむような業務と努力が在って、本プロゼクトが完成された事は言うまでもありません。

    まさにこの支局の有能な方々は、服部氏、ジミー氏の掛け替えのない戦場での戦友そのものであったのです。本ロス支局も現地での本プロゼクト遂行に関しては、服部氏、ジミー・福崎氏のアドバイスを真摯に受け止め、支援する事が組織のコンセンサスと成っていたので、何の疑いもなかった筈です。

    同支局のスタッフ達は、築地電通本社の社員として鍛えられていたので、ロス支局に於いても日本流の夜討ち朝駆けで情報収集、アレンジメント、コンタクト作業がなされたのです。これらの実践行動は、アメリカ人には信じられない行動力と緻密な作業プロゼクト戦略に沿った形で、遂行されたのです。支局員達は、能動的という表現を遥かに超えた、アグレッシブで攻撃的な性格の方々であったと強く印象に残っています。

 ②P・ユベロス氏と服部、ジミー氏の会談後、

    フレッド・和田氏の仲介の後、いよいよ電通プロゼクトテイームは、服部氏、ジミー氏、そしてサポーテイブなロス電通支局員と力を合わせ、現地最前線の作業部隊として戦闘を開始したのです。また、P・ユベロス氏も、その後LAOOCの立ち上げ後、組織の強化構築と非常に多忙を極めながらも、電通の作業部会との時間取り、エネルギーを費やす重要な時間帯を共有したと思われます。

    LAOOCは、全ての権限が委員長のP・ユベロス氏に集約されていて、組織の各セクションのマネージメント体制の統括管理責任者であり、全ての指揮管理系統の頂点となっているのでまさに同氏は84ロス五輪のスーパースポーツアドミニストレーターでした。

   しかし、日本人ビジネスマンと異なる点は、常にユベロス氏は、ビジネスとリラクゼーションとのバランスを取るのが大変上手く、多忙の中に置いても必ず趣味のゴルフには出かけていました。このアメリカ人のビジネススタイルと日本人の気質の違いは、日本人ビジネスマンをいら立たせ築地電通本社からの信じられない程のプレッシャーがロス電通支局に押し寄せていたに違いありません。

    先ずは、ユベロス氏のスケジュールから如何にして電通タイムを確保できるかは、至難を極めた事と思われます。日本人スタイルのビジネスマンの夜討ち朝駆けは、アメリカ人には通用しません。それでは、如何にしてビジネスアワーにビジネスタイムを確保できるかが、米国に於いてはビジネスの成否の分かれ目となるのです。

  そこで電通ロス支局は、ユベロス氏の一日のスケジュールの情報を克明にリサーチ、如何にしてその隙間を確保できるかに日々神経を尖らせたことでしょう。ユベロス氏は、必ず息抜き(ファミリータイム、ソーシャルタイム、フレンドシップタイム、リラクゼーションタイム)の為に時間を確保しています。そこで彼のゴルフタイムに狙いを定めたのでした。

③ビジネス・ミーテイング会場と化したCC

    ユベロス氏は、ロサンゼルス近辺の超名門ゴルフクラブのメンバーとして、特にその中でも名門コースのロサンゼルス・カントリークラブ(Los Angeles Country Club)、ベル・エア~カントリークラブ(BelAir Country Club)は、お気に入りであったことも確認。とりわけロサンゼルスCCは、メンバー以外の出入りが非常に厳しく(元大統領のレーガン氏もメンバーと聞き及んでいました)制限されるクラブで在り、そのため、ユベロス氏が一番よく使用するベル・エアーCCに狙いを定めたのでした。ベル・エアーCCは、市内の超高級住宅街のビバリーヒルズ、ベル・エアーと代表的な超高級住宅地域の一画にあります。場所は、WEST WOODエストウッドのUCLAキャンパスの裏山がこのベル・エアー地域なのです。

   丁度、此処には、親友の家族がその山頂付近に豪邸を構えていたため、私には付近の様子が手に取るようにわかりました。この地域は大変詳しかったのです。ベル・エア―CCについても、プレシテイージの高いゴルフクラブでありますが、幸い、私は、本CCで何度も親友の米国人とプレーしていましたので、こちらも精通していたと言えると思います。

    余談になりますが、本クラブのコースは、超有名なホールが在り、それはインの10番ホール、P3200ヤード、鋭い深い谷越えが名物ホールです。いつも私もプレッシャーを受けてプレーしていました。私の親友は、このホールをいつもスキップしてプレーしないで次の11番に向かって行っていました。その理由を会食時に訊ねると「waste of ballボールが無駄」と頭からあきらめの境地でした。また、このベル・エアーCCの特徴は、勿論カート使用もできますが、一人のプレーヤーに若い男性キャデイーを付けてくれ、バックを担いでくれ、コースのガイドもやって下さるので大変記憶に残るゴルフクラブで在ります。殆どの米国の各州の名門クラブは、リクエストすれば男性の個人キャデイーが付いてくれます。また、名門クラブのメンバーは、他州の名門コースのTタイムも予約できます。双方のメンバーにはメリットがあり、大変行き届いています。

 P・ユベロス氏をベル・エア~CC待ち伏せ

    ジミー・福崎氏は、日系米国人で電通側に立ち、米国流のビジネスコンセプトと服部氏(電通)の日本流なビジネスコンセプトを十分に心得たうえで戦略を組み立てられていたのには敬意を表します。

  彼はユベロス氏に近付き、権利獲得へと電通を導き、そして今日に至るまで世界にスポーツ・ビジネス「電通」の名をとどろかせた、電通に取ってはかけがえのない人物でした。服部氏が他の日本人ビジネスマンと異なる所は、信頼するジミー氏にキーを預けて相手とのネゴシエーションを任せる所です。

   米国人と交渉事を行うに当たり、多くの日本人の最大の問題は、ジミー氏のような立場の人を雇っているにも関わらず、日本人独特のやり方を通すことで、折角のビジネスチャンスを潰してしまう、即ち幕開けから幕閉じまで自分でやらねば気が済まない性格から針で穴を突くような事をやらかす欠点があるのです。その点、服部氏は、度量の大きな人物でした。

   此の事は、全く業界においても社会においても伏せられてきた特命事項で電通内部に於いても本プロゼクトの部門及び関係部署の人間以外は知るよしもなく、服部庸一氏の名前は知っていてもジミー・福崎氏の名は何故か外部に対しては誰もが語ろうとはしませんでした。これは、日本の伝統的な社会、組織の習慣の一つなのかも知れません。日本人には、良い意味での不思議な美徳、美学がある事を初めて認識した次第です。しかし、私は、このような伝統はフェアーな評価ではないと考えます。

   服部氏とジミー氏は、ベル・エアーCCP・ユベロス氏のゴルフプレー終了を待ちかまえ、クラブハウス内に潜り込んでのミーテイングを繰り返し行ったものと想像できます。勿論、ユベロス氏のLAOOCの委員長オフィスのミーテイングルームに於いても、またある時は、ダウンタウンのホテル会議室に於いて話が積み重ねて行われていたのです。

2.契約内容の詰めから実務作業へ、

①本社での実務作業開始

    その結果、契約書に盛り込む骨子が固まって行ったのです。それは、K'sファイルNO.4284ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.」をご参照して頂ければ理解して戴けると思われます。

  此れにより契約内容の骨子は、事務的な修正、訂正、加筆等と事務的作業がメインとなり作業部門、法文部門に引き継がれて行きます。そして、服部・ジミー部隊は、その後大きな調整事項に付いてのみP・ユベロス氏との直接交渉となり、それ以後の業務は、LAOOCから得た全ての知的財産権利を今度は築地電通本社内の各専門部門、部署の営業、企画、デザイン、等に於いて現実的な商品化作業を行い、各カテゴリーのスポンサー企業に対するセールスを遂行する重要な工程に入って行ったのです。

  LAOOCから得た権利を最大限有効に活用する為には、一業種一社に絞り込む為に各複数の業種を確定するに当たっての企業間との駆け引き交渉作業が開始されたのです。

  その結果、84ロサンゼルス・オリンピック大会での一番最初に決まった一業種一社の会社・企業は、事務機器メーカーでブラザー電子タイプライターだったのです。それは、ブラザー工業が世界に市場を求めているタイミングでもあった事です。

  筆者も本タイプライターを長年愛用したので当時のタイプライターでは、大変斬新で使いやすかったのを記憶しております。

②ジミー・福崎氏の存在と新たなWCサッカービジネスの開拓、

   私は、ジミー・福崎氏が黒衣の人間として立ち回った事をよく存じて居たので此処にご紹介させて頂きました。また、このご両人は、ロス大会プロゼクトと並行して進めていました電通のワールドカップサッカー(略:WCS)の権利獲得も最終的にまとめ上げ、発展させたのでありました。これも本ロス五輪の権利獲得の成功が大きな原動力となり次なる大きなプロゼクトへと踏み出して行くのです。本WCサッカー獲得戦略に付きましては、近日公開予定。

   電通内部では、当時服部庸一氏の部門、部署ではなく、関係部署で業務をされていた方々が、今日では私が電通で「オリンピックビジネス」を「サッカービジネス」を「世界陸上ビジネス」をやったと公言されるケースが多々あるようですが、その方々は、当時関係はされていてもキーマンではありませんでした。

キーマンは、時間と共に歴史が語る事になるのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイル45は、本ロス五輪プロゼクトのまとめを掲載させて頂きます。このまとめは、あくまで筆者の私見です。読者の皆さんと価値観が異なるかも知れませんが悪しからず。

K’sファイルNO.43:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

K’sファイルNO.4384ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

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       注河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

      PartⅠ.~電通P・ユベロス氏への攻勢と真の参謀~

 1.電通 表の参謀と裏の参謀の存在:

 今日のスポーツ電通を築いた真の侍達、

此処で、如何にして電通は、P・ユベロス氏に接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。

元来、電通P・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかった事に付いてK’sファイルNO.42で触れました。よって、本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。同氏が本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、此処に至るまでの長い実践キャリアと実績があったのです。

服部氏は、元々音楽の才能をも持ち合わせ、大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動していたというプロ顔負けの声量の持ち主であった事の紹介は以前申し上げました。しかし、この戦後間もない当時から彼のジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)がその後の彼の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけての演奏をしていたようです。そして、そこで当時駐留兵士達に米国本土からタレント、歌手達を招聘して慰問活動の担当をしていた日系人との出会いが、服部氏の将来に大きな変化をもたらす事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、記憶して置いて下さい。

その後、服部氏は、縁あって電通に就職をする事になるのでした。そこでは、また彼の趣味で在り得意であった音楽が水を得た魚の如く、彼を音楽の事業へと駆り立てて行くのです。此処では、私が音楽界及びその知識には疎いので割愛させて頂きます。

ここで彼のキャリアの中で輝かしいと私が思ったのは、大阪万博に於いてのプロデユーサーを手掛け成功、そして次には、沖縄海洋博のプロデユーサーも手掛けて成功された事を聞かして頂いたことです。このような話、話題になりますと夜も更けるのを忘れてロスのホテルで話し込んだ記憶が蘇ります。

服部氏は、一部の電通社員特有な傲慢な態度とは異なり、人当たりが素晴らしくよく、人の話に耳を傾け、特に彼の経験の少ないスポーツの世界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でありました。私の個人的な印象では、本当に電通の人間とは思えない程、物腰が低くソフトな方でした。大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友人のような親しみを覚えた記憶が濃く今も残っております。多分当時は、P・ユベロス氏との契約の見通しもメドが付き、あの日はホッとした夜だったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が在っての事も事実です。

2.電通コマンド部隊の突撃

 ジミー・福崎氏の存在と服部庸一氏の人柄、

服部氏は、如何に実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であります。彼一人では、何も出来ないのを百も承知であったようです。

そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして今は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトをしたのです。そこでの服部氏の福崎氏への頼み事は、何とかしてLAOOCの委員長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性、方法、手段を探すことを頼み込んだのです。

服部氏の側でいつも同席し、物静かに笑みを浮かべている大きな図体をした日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーでマフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通をゆるぎない基盤を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏であったのです。

ジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏に如何にして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー・福崎氏と服部庸一氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、如何に辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。

服部氏は、どこでこのジミー氏を見つけられたのか、出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休みの日にロスの私邸に招いて下さったときにお茶を頂きながらストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問バンドのマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

服部庸一氏の人柄、

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通人のイメージとは対極の人物であったのです。

彼は、決して私に対しても見下した言動態度をすることもなく、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しいおじさんでした。

このような事を十二分に理解しているジミー氏は、服部氏には全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織からジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動からも受けて取れました。このように服部・ジミーコンビは、お互いにリスペクトし合い、強い信頼と硬い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいたのだとも思います。即ち、服部氏、ジミー氏双方が互いに尊敬と信頼に足る人物と評価していたのであったと確信致して居ます。私の経験から申し上げますと、この双方の信頼関係なくして巨大プロゼクトは成り立ちません。また、プロゼクト成功後も双方のどちらかが勝手に自身の利害で双方の信義を裏切る様な行動を致しますと、このような絆で在っていとも簡単にそれまで構築して来た尊敬と信頼の絆は破綻してしまう事を、私自ら後に経験した事もあります。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画でお世話になっていた時に出会った当時、西武ライオンズの監督でありました根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差し、気配り、配慮と、とても酷似であったことも親しみを感じていました。勿論、人間として本質的な部分は、生まれも育ちも異なりますので、あくまでも表面的、客観的な部分を指します。

私は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から彼の行動、経歴、等に付きましては事前に教えて頂いていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。それは、ロス日系社会には、私の古き良き親友が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。

ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを理解していた人物でした。この人物は、最初は電通の本プロゼクトの窓口であり、責任者であった服部庸一氏の通訳として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です。

服部氏は、私がご一緒し、米国人が居る時には一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちわ、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を表の電通の参謀としますとこのジミー・福崎氏は裏の参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小生の関係とは、最終的には異なっていたようです。

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、LAOOC電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、美味しいお茶を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか測り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

裏方参謀の業務と行動力、

服部氏から依頼を受けた当時、ジミー・福崎氏もP・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。

しかし、ジミー氏は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在の1人でもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです。

和田氏は、2世として数々の功績を自身の血のにじむようなご努力と共に勝ち取り、乗り切られて来られた事をご本人から嘗てお伺いしていましたので、私は常に尊敬の念で同氏の言葉を記憶しております。同氏とは、私のロス日系人社会の超有名なご家族との関係で、この親友の親しい関係者のパーテイーでご紹介を受け、それ以降親友とご一緒に何度か会食の機会が在るごとに、若造の小生にはよく「頑張りなさい」とお会いする度に励まされ、苦労話、日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等と本当に親身になって教えて下さった事に感謝致しております。同氏に付きましては、また機会がありましたら、如何に素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。

このような事があった後に、私は、親友から「フレッドがP・ユベロス氏に電通を紹介して挙げたんですよ」という話を伺っていたので、服部氏、ジミー氏とその後お会いして話をお聞きする時には、何か不思議な人間関係の大切さ、ご縁の大事さを肌で感じずにはいられなかったのです。

ジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを勿論断る事もできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みを伝え、協力が得られるか、暫くの間、入念に思案した様子がうかがえました。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、小生は、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からもいろいろと俗世間の話を聞かされていました事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大きな機会となりました。

ジミー氏の結論は、日系人社会で確固たる実績を持たれ、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです。

勿論、彼は、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。

1979年の春も終りを告げようとする頃、ようやくジミー氏の準備が整い、和田氏のロス自宅に服部氏と同行して、いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)のコマンド部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り地ならしを完了していましたので、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクションは和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることを快諾されたのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

お知らせ:K'sファイルNO.44は、和田氏を味方に付けP・ユベロス氏への橋がかかり、双方の思惑が進行する中、新たなBIGプロゼクトに参戦しなければならない事態が発生するのです。読者の皆さんは、興味ありますか。

K'sファイルNO.42:84ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.無断転載禁止

K'sファイルNO.4284ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 

PARTⅡ.~84ロス五輪大会組織委員会・委員長の手法とその決断~

 粗筋―84ロス大会組織委員会の委員長は、選考基準の公開や、選考方法の事前告知を経て、応募者600名の中からフェアーな選考委員会(利害、利得を得る可能性の低い、その分野と社会からリスペクトされている人物)により選出されました。2020年東京大会の組織委員会・会長は、どのようにして選考されたかご存知ですか。少なくとも私は、存じ上げません。

東京大会組織委員会は、会長の選考方法も情報公開も国民、都民にはなされず、いつの間にか現人物が鎮座してしまったような記憶しかありません。

これを見ましても我が国は、グローバル化を声高に叫びながら実は伝統的な隠蔽と談合体質から抜け出せない悲しい現実が、21世紀の今日も尚、現存している事を理解して戴けたのでないかと思います。

 1984LAOOCP・ユベロス委員長の掲げた大義と勝利:

1.ユベロス氏の大義と信念とは、

P・ユベロス氏は、「このオリンピック大会開催では、アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス市の公金である税金を1セントたりとも使わず、黒字化する」と委員長就任時に掲げ宣言したのです。

一方2020年東京大会・組織委員会・会長の森喜朗氏は、就任時に何を宣言されたか皆さんご存知ですか?

P・ユベロス氏の着眼点には、有名な言葉があります。それは、「オリンピックに必要なのは、競技場でなく、その競技場に何台のカメラを持ち込めるかだ」と断言したのです。

P・ユベロス氏の強烈なコンセプトとそのビジネス手法:

2.新しいスポーツ・ビジネスの理念と明快なコンセプトとは、

P・ユベロス氏のビジネスは、「権利=Right」を最大限生かす為の手段と方法に特徴を持ったのです。

そのコンセプトは、何かが「制限」されて初めてその「制限を制限すること」ができる。つまり「権利」の意味が生じることです。

権利が与えられても、権利を持たない者との区別がなければ、やはり意味はないのです。

権利の有無により区別が無いなら、なんとかして「差別化」を図って区別を作り出す事が必要であると考えたのです。

権利を持たない者に対しては、制限を強くする程、その「制限を免除される権利」自体の価値が高くなることは明白です。

誰もが使えると言うのは、誰にも使えないというのと同じに、その使用自体には価値が生じないのです。

権利の重要なポイントは、「権利」という商品は物理的に存在しないのです。

一般の商品とは性格が異なる点に着眼したのです。

「無体財産権」は、「知的財産権」とも呼ばれ、知的にしかその存在は認められないのです。その意味は、「権利=Right」の質、価値は、価格(お金)でしか評価できい」と言う事を実践して見せたのがユベロス氏なのです。即ち、スポーツに権利ビジネスを持ち込んだわけです。(以上、同氏のビジネスコンセプトより)

このようにP・ユベロス氏は、確りとした論理的なコンセプト基盤を持って実践された、いわゆる知的戦略、戦術家であったと思います。

ユベロス氏の着眼点―:

3.成功の秘訣とキーワードとは、

ユベロス氏は、「オリンピックに必要なものは、大きな競技場ではなく、問題は、その競技場に何台のテレビカメラを入れられるかだ」と断言したのです。

一つ目の着眼点-

彼の視点は、スポーツ・ビジネスを如何にして実践し、成果を出すかの徹底したコンセプトが伺えます。それは、オリンピック自体をテレビ放送用のスポーツ・エンターテイメントとして位置付け、放送権利の売買を行うビジネスの道を開拓したのです。

この大会以降、スポーツイベントの放送権料が右肩上がりを始めたのは、ユベロス氏の功罪のうちの罪の部分であるところです。

二つ目の着眼点-

スポンサーシップという形で民間資本を活用する事が、唯一の財源を確保する術であると位置づけた事です。そして、その為には、巨大な広告代理店(AdvertisingAgency)の協力とその活用方法に着目したのです。

重要項目の一つの民間企業から得るスポンサーシップに付いては、権利をより強固にするため、一業種一社制を取り入れた事です。これにより、スポンサー広告の価値はより効果的且つ、競争原理導入でより効果が高まる事を期待したのです。(例:車のスポンサーは、世界で一社のみ)

広告代理店には、ビジネス的な権利を与える代わりに、ロス大会を成功させるために必要最低限のギャランテイー(保証)方式を取り入れて、大会成功の財政的な基盤を確保する事でした。その為には、代理店を先ず選考、指名することを最優先としたのです。

ユベロス氏は、当時日本がバブル経済を迎え、日本企業がまさに海外にマーケット(市場)を求めている事を強く認識していました。そのため、ターゲットとして日本の広告代理店「電通」を心の底では期待していたのではと推測します。しかし、誰にも心中を明かさず、彼の賢さが伺えます。

そこへ、まんまと飛び込んでいったのが電通でした。P・ユベロス氏に直接、接触を求めて行ったわけです。(本件に付きましては、次回以降に予定)

 4.何故米国の広告代理店でなかったのか、

P・ユベロス氏と広告代理店電通との関係は、元々縁もゆかりもありませんでした。よって、ユベロス氏や物事は、最初から電通ありきで動き出したわけではなかったのです。

AE制度とは、

米国の広告代理店制度は、日本とは異なり非常に厳しい制度の下で成り立っている業界です。その最大の特徴は、米国の広告代理店は、AEAccount Executive)制度が法律によって守られており、即ち一業種一社制度の事なのです。一業種一社とは、一つの広告代理店が同じ業種の代理店になれない事を意味しています。例えば、A広告代理店がフォード社との代理店契約をした場合は、同じカテゴリーのトヨタ社の代理店にはなり得ない事を意味します。

つまり、米国の広告代理店ではスポンサーセールに於いて、ユベロス氏が考えるような競争原理を活用する事が出来なかったのです。それに比べて、日本の広告代理店は、AE制度がなく各広告代理店が一業種一社の枠を超えた、複数業種一社制度の日本の広告代理店が好都合であったのです。即ち、日本の広告代理店は、一社がトヨタ、ホンダ、日産、マツダ、鈴木、等と何社でも取り扱えるという意味です。

電通内部の葛藤、

電通内部に於いては、一枚岩で在った訳でなく電通組織の体制、体質から内部での競争、闘争は激しく、常に群雄割拠のなかで、やるかやられるかのパワーゲームが横行している戦略的な組織でもあるのです。

既に当時から米国に於いては、各競技スポーツのトップアスリートをかき集めたスポーツ・エイゼンシ―(IMG社:International Management Group)を立ち上げ活動し始めた時期であったのです。内部の別グループのプロデユーサーは、服部氏、ジミー氏の機先を制するが如く、このスポーツ代理店のCEO(最高経営者)をLAOOCP・ユベロス氏のネゴシエーター(交渉人)とするべく動き出したのです。

しかし、この動きの情報を既に察知したP・ユベロス氏は、電通IMGに対して“NO”と即答したのでIMGを前面にしようと策を弄したこのプロデユーサーの企画は、実現しませんでした。(後に本プロデユサーは、電通を離れて何故か体育学部のある大学に)。これにより今迄以上にユベロス氏と服部・ジミー氏との関係は絆を深め、服部氏は、社内の闘いを制していよいよ本格的な交渉へと駒を進めたのです。

5.LAOOC電通に与えた対価としての権利とは、

ユベロス氏は、さすが一筋縄では行かないビジネス・アドミニストレーターであり一流のネゴシエーター(交渉人)でもあったのです。ビジネス交渉が具体的に動き始めたのは、確か1979年秋ではなかったかと思われます。此れは、電通側の焦りが、プロのネゴシエーターであるユベロス氏の罠に入ってゆくことを意味します。(本件に付いても、次回以降に予定)

此処で付け加えますと、LAOOCの総責任者は、P・ユベロス氏であり、唯一の対電通に対するネゴシエーターでもあった事がこの人物の強烈な個性とパワーを感じさせる次第です。(此処が20年東京大会組織委員会の責任者とは、全く異なり、非常にアクテイブな政治家的実業家でした)

最終的に、ユベロス氏が電通側に権利の中身を手渡し、同意した内容は、以下の通りです。

1.公式マスコット、エンブレムを使ったライセンス権

2.公式スポンサーとサプライヤー

3.アニメ化権

4.入場券取り扱い権

以上が合意事項であり、放映権、入場料収入権は、与えられませんでした。此れもユベロス氏のしたたかなプロのネゴシエーターの一面だったと思います。

アクチュアル予算化の重要性、

ユベロス氏は、本大会委員長を受託した後、早速に手掛けたのが大会を成功させる為に必要な自身が掲げた大義を如何にクリアーするかでした。

それは、「公金は使わない、黒字にする」のハードルを越えなければ自身のコミットメントを解消できないことを十分に承知していたのです。そこで先ずは、予算を概算でなくアクチュアル(本当に必要)な数値を設定したのです。この数値(金額)目標を電通にコミットさせれば、その時点でユベロス氏の勝利となり、ゲームオーバーとなると試算して、対電通とのネゴシエーションに臨んだのです。

6.P・ユベロス氏のビジネスキャリアと頭脳センスの勝利、

ユベロス氏は、当時バブル期を迎えていた日本経済に目を付け、広告代理店をLAOOCの公式広告代理店に指名したのです。日本の広告代理店は、電通でした。何故博報堂、その他でなかったのか。(次回以降に予定)

GIVE&TAKEの結末

ユベロス氏と電通の間では、双方丁々発止のネゴシエーション(交渉)が積み重ねられ、最終的に、ユベロス委員長は、電通の提示に満足し、組織委員会LAOOC)は電通側のギャランテイー(保証)を担保し、リスクマネージメントを回避、スポーツ・ビジネスとしては、ここでユベロス氏の一大勝利となったのです。即ち、P・ユベロス氏が提示した権利(1,2,3,4)を電通に渡す対価としてLAOOCの赤字の可能性は、無くなった事です。

此れで、ロス大会開催前に大会予算は、電通により保証され、後は、黒字化を考えるだけとなったのです。

最後に黒字化の最大の要因は、ユベロス氏が最後まで電通側とのネゴシエーションから切り離して渡さなかった、TV放映権、及び入場料収入(テイケット収入)が彼の最後の国民、州民、市民に公約した黒字化の要因となったのです。

そして、本黒字となった財源(440億円)は、全てカリフォルニア州、ロサンゼルス市の社会厚生施設に還元されたのです。

以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より~」

我が国には、残念ながら2020年東京大会開催に於けるロードマップを完成できるスポーツ・アドミニストレーターが居なかった、という事ではないのでしょうか。

 文責:河田 弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 お知らせ次回NO.43は、何故電通P・ユベロス氏に近づけたのか、如何にして電通は、今日の世界のスポーツ・ビジネス(オリンピック、ワールドカップ・サッカー、世界陸上、等)を一手にできたのか、そこには、表の参謀と黒衣の参謀の戦士が居た。華やかな舞台裏には、何かが匂い、何かがうごめき、そこには必ずキーマンが居る。

 

K'sファイルNO.41:84ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

K'sファイルNO.4184ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピック・パラリンピック大会が日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 ~今日のオリンピック・ビジネスが体系づけられた実践と成果~PARTⅠ.アマチュアスポーツのビジネス化(プロへの移行)

 1.オリンピック激動の時代と変革(Change):

 ①世界のスポーツ界にカリスマ(BIG3)が出現、

1970年代のスポーツの動向は、当時の世界的な経済の動向に強い影響を受けている事です。70年代は、スポーツに関連する事業形態が、それまでとは異なるスポーツ・ビジネスが産声を上げようとしていたのです。これは、丁度私が米国に渡ってまもなく米国に於いてもスポーツの変革の時期と時を同じくしていたように肌で感じたのです。

70年代に入って、本格的にスタートしたスポーツ・ビジネスは、その後新しい可能性を求めて次世代に引き継がれ今日に至っています。

 五輪のスポーツ・ビジネスの新しい可能性は、1966年にIOC国際オリンピック委員会)委員に就任、70年に理事に昇進、そして80年には、第7代IOC会長に選出された、アントニオ・サマランチ氏(Juan Antonio Samaranch、1920~2010スペイン、バルセロナの生まれ)のリーダーシップにより勧められました。同氏は、その過程に於いて、IOC内外での政治的手腕を最大限発揮し、将来のオリンピック発展構想の推進役を担った人物です。1998年の長野オリンピックは、サマランチ氏と堤義明氏(当時西武・国土計画会長)との間の公私に渡る関係で成立した事は有名です。世界のスポーツ界の変革に貢献したBIG3の1人です。

 スポーツという概念は、元来ヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人の文化社会の流れを受け、アマチュアリズムが19世紀に英国で生まれたと言われています。このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神を「アマチュアリズム」として長年継承して来たのです。

ピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス、1863年~1937年)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者です。同氏が提唱したオリンピック憲章のアマチュア規定は、長い間オリンピック大会及び選手、競技関係者達の自由を縛って来た為に段々とオリンピック大会開催が疲弊し財政的な赤字をともない、各国の主催都市が招致に消極的になり激減し出した事がIOCにとって最大の問題の一つとなっていた時期です。

 ②アマチュアとは、

マチュアのコンセプトは、そもそも「選手は、スポーツによる金品の授受及び生活の糧として受けてはならない事、指導者、関係者は、スポーツによる一切のビジネスは認められない事、また、それによる金銭の授受及び生活の糧を受けてはならない事」がアマチュアとしての大前提であったのです。

 日本に於いては、このような世界の動向から約10年後の1986年5月に日本体育協会 (体協) が,従来の「日本体育協会マチュア規程」を廃止し,代わりに新しく制定した,加盟競技団体の登録競技者の資格規程を改めたのです。

 ③アマチュアとの決別、

そこでA・サマランチ氏は、自身がIOCの委員時代から本オリンピック憲章のアマチュア規定の問題を検討課題とし、1970年にIOC理事に昇格、憲章からアマチュア規定の削除を提案し、それ以降強力に推進した一人であったと言われる人物です。その後1974年にオリンピック憲章の五輪参加資格から「アマチュア」という文字を削除する事になったのです。

丁度この時期のIOC内部のポリテイカルな様相は、IOC国際オリンピック委員会)会長にA・サマランチ氏(スペイン)を筆頭にIGB(国際競技連盟)のメジャー競技スポーツとされるFIFA国際サッカー連盟)の会長にジョアン・アベランジェ氏(ブラジル)、IAAF(国際陸上競技連盟)の会長にプリオ・ネビオロ氏(イタリア)と白人主導からラテン系主導へと歴史が移動した事もサマランチ氏にとっては、追い風となり改革がスムーズに遂行出来たのは確かなようです。当時、国際マスメデイアは、こぞって彼らを「ラテン系マフィア」と呼んだのも納得がいく、その後の彼らの積極的且つ手荒い言動、行動であったのも事実です。

これは、オリンピックをビジネス、商品(Merchandising)として、競技選手(Athlete)を商品であり、プロとして出場を公認した出来事へと発展させたオリンピックの革命的な変革の時期であったのです。

 2.スポーツ・ビジネスの夜明け:

 ①オリンピックにスポーツ・ビジネスアドミニストレーターが出現、

このようなオリンピックの歴史を背景に、1980年にロサンゼルス・オリンピック大会組織委員会(略:LAOOC)の委員長に任命されたP・ユベロス氏は、IOC会長のサマランチ氏の掲げたオリンピックのビジネス化を自らの手で実践され、確立されたカリスマ的人物と申し上げても過言でありません。今日のスポーツ・ビジネスの源は、この時代にこのような人達によって体系付けられたのです。1980年よりP・ユベロス氏がロス五輪で実践したスポーツ・ビジネスは、オリンピックだけでなく世界のスポーツ界のビジネスコンセプトを根底から変革するに十分な実績を残したのです。世界のスポーツ界のBIG3のもう1人です。

 84年ロス大会はオリンピックの商業化元年、

1984年ロサンゼルス・オリンピック大会は、オリンピックの商業化(ビジネス)元年と称される所以なのです。それまでのオリンピックは、常に開催国の赤字負担によるもので、段々と五輪大会が開催国、主催都市の重荷になり、IOCでは、大規模な縮小が声高に叫ばれるようになっていた時代です。しかし、サマランチ会長のリーダーシップにともない、それまで定説となっていました「アマチュアと呼ばれていたコンセプト」を五輪憲章から削除した事によりスポーツ界のあらゆる面に於いて一大変革を起こしたのです。

 これにともない1980年にロサンゼルス・オリンピック組織委員会LAOOC)の委員長に就任したP・ユベロス氏は、サマランチ会長のIOC改革の急先鋒としてスポーツ・ビジネスを実践し偉大なる成果と結果を残したのです。

 4.P・ユベロス氏はオリンピックの救世主:

 ピーター・ヴィクター・ユベロス(Peter Victor Ueberroth)は、1937年9月2日生まれ、米国実業家、1984年ロサンゼルス・オリンピッ大会組織委員長、赤字続きのオリンピックを黒字に転換した人物、その後第6代MLBメジャーリーグコミッショナー、等々を歴任。

 ①略歴:

オリンピック創設者のPクーベルタン氏が死去した1937年9月2日に米国イリノイ州で生まれる。ピーターは、長じてフランス人貴族のピエールが産み、育てたオリンピックの救世主となる。この奇妙な因縁を人は語り継いでいる。

 IOCは、78年5月、アテネで開く総会で84年開催都市を決める予定でいたのです。しかし、立候補は、ロサンゼルス市のみ、しかも、申請書によればロサンゼルス市は、財政を保証せず、一切の責任を負わない。民間の任意団体、南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)が民間資本を導入、運営する予定になっていた。IOCは、困惑した。長い歴史で考えてもみなかった事態が起きたのです。その理由は、76モントリオール大会の巨額赤字、加えて冬季大会開催予定の米国デンバー市の大会返上でした。

*カリフォルニアで育ち、高校時代はフットボール、野球、水泳で活躍。大学は、サンノゼ州立大に進み、水球で活躍、1956メルボルン・オリンピックの代表候補、代表にはなれなかった。卒業後、トランス・インターナショナル航空に就職、63年に自ら旅行会社設立、その後北米NO.2の旅行会社に成長させた。1980年、その手腕を評価されロサンゼルス・オリンピック大会組織委員長に就任した。(以上~PV・ユベロス氏バイオグラフィーより~)

 ロスオリンピック大会組織委員会、委員長選考基準項目:

1.40歳から55歳 

2.南カリフォルニア在住

3.企業経験を有す

4.スポーツ好き

5.経済的に独立

6.国際情勢に通じる

上記条件で全米600人もの候補者から絞り込まれたP・ユベロス氏でした。ユベロス氏は、当時42歳。ロス郊外に住み、従業員1人から始めた旅行代理店を北米2位に育てた実業家。

 *同氏の信条は、伝統を破壊せず。革新的であっても伝統を破壊してはならない。無駄を省き経費をかけないが、親しみやすさのなかにも威厳も必要だ。産経新聞特別記者 佐野慎輔氏取材資料より)

 以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より~」

上記P・ユベロス氏と2020年東京大会組織委員会・会長のプロフィール(既に皆様はご存知の通り)と比較して下されば、その違いがよく理解できるのではないでしょうか。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

お知らせNO.41を是非ご記憶して頂き、次週NO.42に入って戴ければ「なるほど」と理解、確信して下さると思います。次回NO.42PARTⅡは、1984年ロサンゼルス大会が公金を一切使用せず、440億円の黒字にしたビジネスコンセプト、その手法をご紹介致します。少し難しくなるかも知れませんので出来うる限り咀嚼させて頂ければと考えています。此れこそが知的戦略、戦術。アッと驚かれますよ。