K'sファイルNO.100:筆者から読者の皆様へお礼と感謝

K'sファイルNO.100:筆者から読者の皆様へお礼と感謝

無断転載禁止                   注:K'sファイルは、毎週木曜日掲載予定

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K’sファイルNO.100記念 “お礼と感謝”

 

ご挨拶

K’sファイルは、本日2019年5月2日の掲載を持ちましてNO.100となりました。思えば2017年4月より掲載を始めまして2年が経過致しました。筆者は、SNSを通して読者の皆様に毎週木曜日、斯様な拙文を公開し続ける事になろうとはスタート当初は想像もできませんでした。それまで自らの書き物をこのようにして公に提供した経験はほとんどないに等しい状態でした。わずかながら、20061013日、文藝春秋社発刊の書籍「Gファイル:長嶋茂雄と黒衣の参謀」にて東京読売巨人軍に関するGファイルを提供致しました事と、確か中央大学で教鞭を執っていました時に大学広報室からのリクエストにお応えして、読売新聞社広報企画室のYOMIURI ONLINEに「中央大学スポーツの変革(CHANGE)~中大スポーツに光を!」を掲載された程度でありました。

NO.1よりNO.100に於きまして、累算で426,810字に及びました。此れも自らに課した使命の一つとして、スポーツ界への様々な思いを書き残せた事は感謝以外の何ものでもありません。

私自身にとりましては、最も不得手とするところの一つであります事に挑戦したわけで、それに対する勇気と動機付を与えて下さった信頼する親友に対しては心より感謝とお礼を述べさせていただきたいと思います。今後K’sファイルは、いつまで掲載できるか未知の世界に入ります。これからも出来ますれば、国内外で起きるスポーツの時事問題、話題をテーマにスポーツ・アドミニストレイターの視点と自らの経験、体験を加味しながら分析、解説を続けて参りたいと思う次第です。

NO.100は、自身に取りまして記念すべきK’sファイルとなりました。此れも一重に読者の皆様の温かい励ましのお言葉や、ご協力、ご指導の賜物であると深く感謝申し上げます。

2年間に於ける読者層は、略把握できるに至っております。河田弘道のスポーツBLOGの趣旨、目的の一つにも在ります学生、学生選手への参考になればと期待しています。しかしながら、告知が不十分の為か、大学教員の方々止まりとなっているケースが多く、学生、学生選手、指導者に行き届いていないのが現状です。そこで如何にしたら日本の大学生、学生選手達にこのプログを共有してもらう事ができるか、読者の皆さんのお知恵を拝借させて頂ければ幸甚です。ご指導、ご提案をお待ち致しております。

略15カ国、特に合衆国、ドイツ、英国、フランス、ロシア、等の読者からは、沢山のアクセス、コメントを毎日頂いております。K'sファイルに強い興味を持って頂きまして感謝申し上げます。K’sファイルは、皆さんと共にグローバルなスポーツ情報媒体としてもこれから歩んで参ろうと思います。

先月末には、南米ベネゼイラに於いてクーデターが発生したとの事をTV報道で知りました。首都カラカスには、筆者の米国大学での学生選手達及びその近親者が多く居住しています。この事件が一日も早く治まり平和を取り戻される事と心より祈念致しております。

毎週掲載原稿に対して真摯なコメント、読後感、感想、書評、ご意見を電子メールでお送り頂いている読者の皆様には、毎回ポジテイブな動機付けを賜り勇気と継続へのエネルギーとさせて頂いています事に、心より感謝とお礼を申し上げます。             深謝                         

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SOPORTS

お知らせ:次回K'sファイルは、NO.99「米国大学スポーツと筆者の基軸」中編を掲載予定致しております。

 

懐かしいK’sファイルNO.1NO.2の思い出

K’sファイルNO.1 ご挨拶

初めまして、私は、Gファイルに掲載されています河田弘道です。読者の皆様からいつも沢山の書評を賜りまして感謝申し上げます。

私の専門分野は、スポーツ・アドミニストレイション論、スポーツ科学でスポーツ・アドミニストレイターです。私の論理と実践を元にした経験とキャリアをこの世界に興味を持つ方々、特に現在業界、大学で本分野を目指している学生、学生選手に本ファイルを通して専門知識とプロフェッショナルな世界を実感して頂き、少しでも日本社会に還元できることを願っております。

この度は、SNSを活用させて頂きます。ご支援とご指導、ご協力の程宜しくお願い致します。

 文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 

K’sファイルNO.2 :スポーツ・アドミニストレイション論とスポーツ・アドミニストレイター 無断転載禁止

 

スポーツ・アドミニストレイションって何!

私は、2005年9月より2017年3月迄、約10年間、日本の大学に於いてスポーツ・アドミニストレイション論の講義授業と付帯するゼミを指導して参りました。本専門分野、部門は、学問としてだけではなく、自身がスポーツ・アドミニストレイターとして日米通算で約40年にわたり、第一線級の競技スポーツの実践現場で培ってきた経験に裏打ちされたものであると確信致しております。

本講義科目及びゼミは、日本の大学競技スポーツ及びスポーツ界にとって学問と人材育成の必要性とその重要性を初めて実践演習(ゼミ)を通してご紹介させて頂き、講座を開設致しました、言わば先駆的学問並びに実践領域であると思います。今日我が国の社会及び大学では、スポーツ・ビジネスマネージメント、スポーツ・マネージメント、スポーツ・マーケテイング、スポーツ・プロモーション、等々と称される学科、科目をよく耳、目にする時代になりました。

スポーツ・アドミニストレイションは、これら「専門分野、部門、部署をトータルマネージメント(統括、運営・管理)する行為の総称である」と考えて戴けるとわかりやすいと思います

既にスポーツ先進国では、体育(Physical Education)という表現を見聞きすることが珍しくなっています。我が国の大学においても近年段々と体育の名称表現を変更する大学が増えて参りました。スポーツは、本来専門的に、

①リクレーション&レジャースポーツ、

②スポーツ健康医科学、

③競技スポーツ、

④観るスポーツ、

の4分野に大別されます。

スポーツ・マネージメントは、こうした概念のスポーツに、マネージメントという「手」を加える事により新しい「ソフト」を生み、新しい「生命」をもたらすものです。よってこの分野、部門は、スポーツを生産する為に重要不可欠な一つの要素となります。

筆者は、「スポーツ・アドミニストレイション」を日本に最初に持ち込みました。この専門分野、部門を基軸として、時事の国内外の問題を活用させて頂き、スポーツ・アドミニストレイターの視点で、それらの問題の分析、解説をさせて頂きながら内外の事例を参考に論を進めて参りたいと思います。

本論を進めて行くに当たり、文筆活動は、専門分野ではありません事を先ずご理解下さい。その為に配慮、気配りの無さから誤解、不愉快、等が発生し、読者の皆様に多大なご迷惑をお掛けすると思います事を先ず初めにお詫びとご理解を賜りましたら幸甚です。この様な不備、能力不足に対しては、自ら精進努力を惜しみませんが、読者の皆様に指導、協力、ご理解を仰ぎながら少しずつ成長して行けたらと願っております。

K'sファイルに於きましては、筆者の長年の専門知識と実践経験、体験を一人でも多くの興味を持たれるスポーツ界の情熱在る方々への一助となりますよう微力ではございますが応援、還元させて頂く一念です。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 

K’sファイルNO.99:米国型スポーツと筆者の基軸

KsファイルNO.99:米国型スポーツと筆者の基軸

無断転載禁止                        注:K'sファイルは、毎週木曜日掲載予定

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前編:筆者のスポーツに対する礎

1.筆者と米国スポーツの接点

先ず初めに

前回までのK’sファイルでは、NO.88NO.942020東京五輪招致の暗黒の霧はいつ晴れる、とNO.95NO.98:今日のスポーツ電通の礎84ロス五輪とは!―におきまして、東京五輪招致の不透明な部分と五輪開催の趣旨、目的が「震災の為でもなく、コンパクトで経費の掛からない五輪でもなく」、莫大な公金による箱物建設がその目当てで在った事を解き明かして来ました。

これらは、政治家達の利権闘争に始まり、暗黒の招致活動による疑惑や、20東京五輪組織委員会の役員人事に関する不透明さ、国内スポンサーシップの一業種一社から複数社の変更に伴う配慮に欠けた一部選考。さらには公益財団法人20東京五輪組織委員会の公金使用内訳の情報公開の無さとグレーで不可解な仕組みや出来事。84ロス五輪の公金を使用しない民間資本による経営・運営・管理手法の成果と成功例の比較を読者の皆様にお届け致しました。

①良き伝統の継承と悪しき慣習を処理する勇気

NO.99は、米国型スポーツ・アドミニストレイションの基本的な構造とその実情が大学競技スポーツにある事をご紹介したいと思います。今後日本のスポーツ界を改善、改革して行くに欠かせない大切なものがスポーツ・アドミニストレイションであり、その指針にして頂ければとの願いを込めて掲載させて頂きます。

また、読者の皆様は、筆者が長年米国の大学に在職していながら、どのようにして日本の大学関係者、会社・企業関係者、TV/マスメデイア、文部省(現文科省)、JOC,日本体育協会(現日本スポーツ協会)、等々の重鎮と人間関係を構築できたのかと、多分素朴な疑問を持たれている事と思います。その疑問に付きましても、本前編、中編、後編を通してご理解を深めて頂けるのではないかと想像致します。

筆者は、日本は素晴らしい歴史と伝統のある豊な国と思います。しかし、それら全てが我が国の次世代にマッチするものではない事も理解、認識致します。スポーツ大国の米国には、沢山学ぶべきよいパーツもあれば、決して真似をしてはいけないパーツも沢山ある事を自らの実体験から承知致しております。

我が国には、沢山継承すべき伝統的な遺産と悪しき伝統的な負の遺産を整理する必要性があります。2020年は、新しい専門知識とキャリアのある次世代のリーダー達が情熱を持ってリードして行く重要なターニングポイントであると確信致しております。長く伝統的に継承し続けて来た、先輩諸氏の背中の垢は綺麗さっぱりと洗い落として、悪しき伝統を今脱ぎ捨てる決断と勇気を持って先ずは行動しないと、何時まで経っても改善、改革に至らないのではないでしょうか。

②大学は国の教育とスポーツの大義・目的・使命を示す場

筆者は、長年米国の大学で競技スポーツの運営・管理に携わり、教鞭を執って参りました。スポーツ大国に於ける競技スポーツとその関係組織、関係者、多民族との出会いは、米国の大学で教育を受け、また、指導者、管理者として生き抜いてきた時期にさかのぼりますその基盤となっているのは、まさしく日本人として日本で身に着けた礼儀作法から教育、そして大学生活を生き抜いた経験が自身の全ての財産であり、土台を形成していると確信します

米国に渡ってもこの自身の基盤は、ぶれる事無く大学で、職場で職責、責務を全うし成果と結果を出せた事に感謝致しております。そこから得た知識と実践キャリアは、母国に帰国後の実践活動に於いて計り知れない自信と共にまた成果と結果を導き出せたと自負しています。

本編では、日本と米国の特に大学競技スポーツのファンダメンタルな違いについてから解説と説明をさせて頂ければと思います。

スポーツ大国米国の競技スポーツの構造とそのシステムは、日本とは発想の原点と社会、文化の構造も異なるので、読者の皆様にはすんなりと理解し難いかも知れません。読者の皆様には、米国のスポーツ界が日本の伝統的な構造とシステムが異なる所を是非理解して頂きたくこの機会にご紹介致します。

良いと思われるところは、是非ポジテイブに理解して頂きたく願います。そして、勿論、絶対に真似をして欲しくない点はコピーするべきではありません。読者の皆様には、想像もつかない問題も抱えているからです。我々は、身の丈に合ったスポーツ及び競技スポーツの構築に取かかる事をお勧めいたします。

筆者は、当時それら諸問題の解決、処理に学生選手の側に立って根気よく指導していたことが、今は懐かしく思い出されます。此処では、スペースの問題で本テーマに必要な一部をご紹介するにとどめ、詳しくは、別途米国大学競技スポーツの実態、現状、問題、及び組織・団体について国内の時事問題に沿うような形でご紹介できればと考えております。

③全米大学競技スポーツ統括組織・団体

近年日本に於いて、「NCAA」という商標名を利用した話題作りを政府機関、マスメデイアが行っているようですので、本K'sファイルの読者の皆さんには、関係者が何を夢見ているのか、真似をしたがっているのか、正しい理解と判断をする為にも正しい知識を是非会得して頂ければと思う次第です。

現時点では、「NCAA」を模倣する為の大義となるソースが日本の大学には見当たらないと言うのが筆者の正直な見解です。」

現在の日本の大学競技スポーツ界を慮る(おもんばかる)と、NCAAの物まねをする以前に、今解決しておかなければならない問題が山積しているように思えます。関係者達はその事に目を背けて、大学スポーツで新たな利権を企むことなど滅相も無い事なのです。また、商品価値の無いものに民間資本を期待する事などは、ビジネス経験の無い方々のたわごとです。このような方々は、最初から公金(税金)を当てにする東京五輪方式をまたコピーして使おうと“二匹目のドジョウを狙っている”としか思えてならないのは筆者だけでしょうか。

先ず「NCAA」とは、全米大学競技スポーツ協会(National Collegiate Athletic Association)の総称です。我が国に於いては、伝統的にNCAAを「全米大学体育協会National Collegiate Physical Education Association」と誤訳表記しており、平然としていることが不思議でなりません

筆者は、もう50年前になりますが、米国の大学教員となった初期のころから略毎年、夏休みで一時帰国する度に、文部省の体育局長、日本体育学会(会長・副会長)、日本体育協会の競技力向上委員会(強化委員長、他)、スポーツ医科学研究所長、JOC理事強化担当者が集って開く、米国のスポーツ、競技スポーツの現状報告会に米国の大学の現場業務に直接携わる日本人として協力をさせられていました。

報告会に出席されているのはオーソリテイーと呼ばれている日本の体育、スポーツ、競技スポーツ、大学の代表者の方々でしたが、小生の講演、報告は何処か別世界の話であるように聞こえていた方もいらしたようでした。毎回出席されていたので新しい知識だけは持ち帰ろうと考えていたようでした。

当時、その席で文部省の柳川覚治体育局長(後、参議院員、自民党)には、「日本体育協会」は、間違った表記であり、「日本スポーツ協会、日本競技スポーツ協会」が適切であると毎回進言させて頂きました記憶が蘇ります。そして「日本スポーツ協会」と改名したのは昨年です。看板の取り換えには、半世紀の歳月を要しました

此れが日本のスポーツ・アドミニストレイションの実体と現実であると申し上げて過言でありません。体育(Physical Education)と競技スポーツ(Athletic Sports)の本質が対極にあり異なるという事を教育者、指導者、経営者、管理者が混同してしまって、ミスリードされている為に国民、社会では体育が競技スポーツ、競技スポーツは体育であると長年思い込んでキャリーしているのが問題であると思います

NCAAに加盟している大学は、約1275(2005年当時全米50州中)で加盟校はⅠ部校、Ⅱ部校、Ⅲ部校に区分されています。但し、マスメデイアで報道される大学は、殆どがⅠ部校のフットボール、バスケットボールの強豪校であり、一部のアカデミックな伝統校でもあります。本組織・団体は、1905年に設立され当時既に800校が加盟し競技スポーツがNCAAのルール(規則、罰則)の下で行われていた歴史があります。この時期日本に於いては、まだ大学と言う名称はほとんど無く、教育機関での余暇活動と称されていた明治時代です。現在日本の関係者達は、NCAAを語るに当たり約100年の歴史の差異がある事に気付いていないのかも知れません。

④女子学生選手がNCAAに登録

女子の大学競技スポーツは、1971年までNCAAに加盟参加できませんでした。1972年に男女平等な教育を受ける権利の法律(タイトルナインⅨ)が施行され、スポーツに於いても女子選手が男子と同じNCAAのルールに基づいた同等な権利を獲得したのです。本法律は、当時のニクソン大統領により署名され当時の大学キャンパスはもうお祭り騒ぎで在った事を筆者はキャンパスに居て強烈に肌で感じていました。

米国に於いては、この当時まで女性に対する差別があったのです。1972年よりNCAAに各大学の女子競技種目及び女子学生選手が登録可能となり、全米大学選手権を毎年争う事になったのです

NCAAに加盟登録できる競技スポーツ種目及びその数は、男女ともに決められています。オリンピック競技スポーツ種目に入っているからと言って、登録が認められるわけではないのです例えば、日本で注目されているような女子のレスリング、女子柔道の種目は、スポーツ大国の米国であってもNCAAの種目として認められていませんので大学にはありません此れには、明快な根拠があるからです。このような事実は、日本のスポーツマスメデイアに於いて一切報道、情報公開がなされていないのも不思議な気がしてなりませんが、読者の皆さんもそう思われませんか。何か報道するとまずい事でもあるのでフィルターを掛けて報道を控えているのでしょうか。

⑤米国の競技スポーツはシーズン制

米国の大学競技スポーツ(中学、高校、プロも同様)は、シーズン制を形成し男女共に新学期を迎える秋、冬、そして春の学期に終了するプログラムとスケジュールに成っております。簡単に言えばこの3シーズン中に各競技スポーツ種目は、全米大学選手権(NCAAチャンピオンシップ)を最後にそのシーズンを終了するのです。日本の競技スポーツのように幼い頃から一つの競技スポーツを365日行っているわけでありません

このシーズン制のメリットは、シーズンの異なる複数の競技種目に出場が許可されている事です。これにより個々の子供達、生徒、学生選手は、異なるシーズンの異なる種目から競技スポーツ選手として必要な身体能力の基礎を養い、バランスの取れた競技者に自然に成長して行くのです。また、もう一つの大きなメリットは、幼いころからの偏った競技種目を選択する事で、個々の得意な(秀でた)才能を潰す可能性が高くなる事です。複数の競技スポーツを経験、体験する事で最終的にその生徒、学生選手に取って一番興味がある、秀でた競技スポーツを選択できる事です。そして、最後に選択した競技スポーツは、それまでの複数の異なる競技スポーツで得た身体力、知識、経験の全てが最終的に競技者としての強い土台を形成するのです

日本に於いては、幼いころから同じ競技スポーツを1年中行わされています。これは、スポーツ医科学的観点からも身体的には偏ったアンバランスを生み、傷害、障害のリスクが増大するのです。また精神的には、バーンナウト(燃え尽き)症候群を起こし興味を失う可能性が非常に高い事です。

そして、此の最大の問題は、他の競技スポーツであれば個々の秀でた才能により発展する可能性を持った生徒、学生選手が居ても競技種目を変更できない伝統的な縛りが存在している事です仮に、日本に於いて、今日社会問題となっている不祥事、暴力、は、シーズンスポーツ制度を採用する事により指導者の不祥事、暴力は、激減する可能性を秘めています。何故ならば、そのような不祥事、暴力を行う指導者及びその種目には、子供達、父母が興味を失い参加しなくなる可能性が高くなるからです。

★重要案件

大学の経営者、指導者、運営・管理者の現在の雇用制度が日米に於いて大きく異なる事です国内の不合理、矛盾、不祥事を改善する為には、大学の教職員、競技スポーツ指導者、運営・管理者、経営者の雇用体制を現雇用体制から「契約雇用体制」に改める事です。筆者の経験から申し上げますと、これにより現場に於ける不祥事、暴力、ハラスメント、等の犯罪的行為は、間違いなく激減します。何故ならば、契約雇用制度に改められると、契約違反者に対しては、次回の契約更新がされない可能性が高く、また汚点雇用履歴では、他の雇用先は契約を拒否する可能性が高くなるからです。これにより、雇用制度の改善は、不祥事、暴力、等への抑止力となります。

また、この他にも大きなメリットがあるのです。それは、教育の現場、競技スポーツの現場に於いても教員、指導者の競争が激しくなり資質の向上が間違いなく起きる事です。これは、学生、学生選手を第一に考えるならば、大学教学、経営法人に於いてもこれ以上ない好循環を与えるのです。

何故、日本の教育機関の経営者、管理者、教育者達は、気付かないのでしょうか。気付いていても、これらの制度は、自らに不利益を与えると考えているのかも知れません。制度改革なくして我が国の教育、指導、競技スポーツに明るい未来無し、とは言い過ぎでしょうか。

このような問題の指摘、改善、改革の声が上がらない理由も、個々の利害、利権を最優先する温床からかも知れません。即ち、組織・団体・機関の関係者達は、無責任体質、体制が何よりも居心地が良いのかも知れません。我が国は、スポーツ・アドミニストレイションに対する知識・認識とその重要性を教育の現場に於いて指導する事が急務であり、次世代を担う若者達にスポーツ・アドミニストレイターの必要性と重要性を付与して頂きたく願う次第です。 

 文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 お知らせ:

この度のNO.99前編は、如何でしたでしょうか。インターミッションとして考えていましたが、息つくどころか肩の凝る深刻な問題、視点を提供してしまいました。悪しからず。本テーマは、一応前編、中編、後編に分けて掲載させて頂く予定です。本テーマの次回の中編では、また新たな知識と世界が広がれば幸いです。本原稿は、世界15カ国の多くの読者の方々にも同時に配信されています。読者の皆様もグローバルな世界の一員として本原稿を通じて繋がっています。

 

K’sファイルNO.98:今日のスポーツ電通の礎 84ロス五輪とは!

K’sファイルNO.98:今日のスポーツ電通の礎 84ロス五輪とは!

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読者からの便り~

河田様

毎週楽しみに拝読させて頂いています。奥が深いです。今回のNO.97の「彼一人では、何も出来ない事を百も承知であったようです。」の文章が、一番印象に残りました。いつもありがとうございます。

河田先生

毎回貴重な先生の実践された知的財産を我々に無料で提供して下さり誠に有難うございます。書籍にされて有料で発刊された方が読者には、ありがたみが判るのではないでしょうか。書店に出ています書籍と全く迫力も価値が異なります。凄いです。社内に於いては、伝説の大先輩の当時の様子がこんなにリアルに解説して下さり感激しております。本ファイルの存在を教えて下さった社友には、感謝以外に表現が出て来ません。ファイルは、何ものにも代え難い財産です。このような貴重なドキュメントを拝読させて頂き感謝を込めてご無礼を承知でメールを出させて頂きました。有難うございます。社内の仲間に1日1人伝えています。河田スポーツ実践塾が必要かとそして塾生にと勝手に夢見ています。

第四弾:84ロス五輪プロゼクトの最終交渉

1.電通ロス支局は最強の最前線基地だった

①ロス支局員の過酷な対応とご苦労

電通P・ユベロス氏への接近計画は、当時本プロゼクトが企画・遂行される前から現地ロサンゼルスの電通支局がその最前線基地となっており、当時の支局幹部、他現地スタッフの方々は、戦場さながらであったと容易に想像できます。

その最大の任務は、本プロゼクトに関するあらゆる情報の収集、およびその情報の裏取り作業と整理、そして分析が連日連夜遂行されていたと思われますさらに分析された情報は、デイリーレポートで東京築地電通本社の企画本部に打電。そこから指示待ち、再度情報収集と裏取り、分析、レポートと繰り返し続く作業は、24時間(時差もあり)夜を徹する事も日常茶飯事、それはまさに戦場そのものであったと思います。

電通支局には、東京本社のあらゆるグループ、部署のプロデユーサーレベルから役員の方々まで情報取りや返信にも対応しなければならず、どの部署の誰にどこまでのレベルの情報を入れるかの選別も大変神経を尖らせた事と察します。もちろん、このプロゼクト以外にも多くの通常のプロゼクト活動、リサーチ、情報活動、電通本社の役員クラスのロス訪問に際しての送迎案内、等とあらゆる業務も並行してありました。このような有能なロス電通のスタッフの方々の能動的な血のにじむような業務と努力が在って、本プロゼクトが完成されたのだと思います。

まさにこの支局の有能な方々は、服部庸一氏、ジミー・福崎氏にとって掛け替えのない戦場での戦友そのものだったと思われます。本ロス支局も現地での本プロゼクト遂行に関しては、服部氏、ジミー・福崎氏のアドバイス、指示を真摯に受け止め、支援する事が組織のコンセンサツと成っていたので、何の疑いもなかった筈です。また、服部氏の支局員への配慮、気配りが現地に於いても当時此処かしこと散りばめられていた記憶が蘇ります。

同支局のスタッフ達は、築地電通本社の社員として鍛えられていたので、ロス支局に於いても日本流の夜討ち朝駆けの態勢で情報収集、アレンジメント、コンタクト、コーデイネート作業がなされたのです。これらの実務は、アメリカ人には信じられない戦略、行動力と作業プロゼクトに沿った形で、遂行されたのです。支局員達は、アグレッシブという表現を遥かに超えた攻撃的な性格の方々であったことが強く印象に残っています。支局は、限られたマンパワーの中での業務であったので、米国のビジネスマン達には考えられない個人のプライベートタイムを略奪した、会社、企業の業務に徹した姿はこれぞ日本人の外地に於ける企業戦士の戦場そのものであったように記憶しています

②P・ユベロス氏と服部、ジミー氏の会談の後

フレッド・和田氏の仲介の後、いよいよ電通プロゼクトテイームは、服部氏、ジミー氏、そしてサポーテイブなロス電通支局員と力を合わせ、現地最前線の作業部隊として戦闘を開始したのです。また、P・ユベロス氏も、その後LAOOCの立ち上げ後、組織の強化構築と多忙を極めながらも、電通の作業部会との時間取り、エネルギーを費やす重要な時間帯を共有したと思われます

LAOOCは、全ての権限が会長のP・ユベロス氏に集約されていて、組織の各セクションのマネージメント体制の統括管理責任者であり、全ての指揮管理系統の頂点となっているのでまさに同氏は84ロス五輪のイグゼクテイブスポーツ・アドミニストレーターと申し上げて過言ではありませんでした。

しかし、日本の会社、企業のビジネスマンと異なる点は、ユベロス氏は常にビジネスとリラクゼーションとのオンとオフのバランスを取るのが大変上手く、多忙の中に置いても必ず趣味のゴルフには出かけていましたこのアメリカ人特有なビジネス・ライフスタイルと日本人のそれとの違いは、日本人ビジネスマンをいら立たせ築地電通本社からの信じられない程のストレスがロス電通支局を直撃し、限られたマンパーワーと人材で無理難題を処理、解決するには限界に達していたに違いありません。

先ずは、ユベロス氏のスケジュールから如何にして電通タイム(電通とのビジネスミーテイングに割ける時間)を確保できるかは、至難を極めた事と思われます。日本人スタイルのビジネスマンの夜討ち朝駆けは、アメリカ人には通用しません。それでは、如何にしてビジネスアワーにビジネスタイムを確保できるかが、米国に於いてはビジネスの成否の分かれ目となるのです。

そこで電通ロス支局は、ユベロス氏の一日のスケジュールの情報を克明にリサーチ、如何にしてその隙間を確保できるかに日々神経を尖らせたことでしょう。ユベロス氏は、必ず息抜きの為にファミリータイム、ソーシャルタイム、フレンドシップタイム、リラクゼーションタイムの時間を確保しています。そこで彼のゴルフタイムに狙いを定めたのでした。

③ビジネス・ミーテイング会場と化したCC

ユベロス氏は、ロサンゼルス近郊の名門ゴルフクラブのメンバーであり、特にその中でも超名門コースのロサンゼルス・カントリークラブLos Angeles Country Club)、ベル・エアー・カントリークラブ(BelAir Country Club)リビエラ・カントリークラブRiviera Country Club)が、お気に入りであったことが確認されました。

とりわけロサンゼルスCCは、メンバー以外の出入りが非常に厳しく(元大統領のレーガン氏もメンバーと聞き及んでいました)制限されるクラブで在り、そのため、ユベロス氏のお気に入りで一番よく使用するベル・エアーCCに狙いを定めたのでした。ベル・エアーCCは、市内の超高級住宅街のビバリーヒルズ、ベル・エアーと代表的な超高級注宅地域の一画にあります。場所は、WEST WOODエストウッドのUCLAキャンパスの裏山がこのベル・エアー地域なのです。

筆者の余談話

丁度、此処には、筆者の親友の家族がその山頂付近に豪邸を構えていたため、私には付近の様子が手に取るようにわかりました。この地域は大変詳しかったのです。ベル・エアーCCについても、プレシテイージの高いゴルフクラブでありますが、幸い、私は、本CCで何度も別の親友の米国人とプレーしていましたので、こちらも精通していたと言えると思います。

本クラブのコースは、超有名なホールが在り、それはインの10番ホール、パー3のショートホールで距離200ヤード、鋭い深い谷越えが名物ホールです。私もいつもプレッシャーを受けてプレーしていました。私の親友は、このホールをいつもスキップしてプレーせずにカートで次の11番に向かっていました。

その理由を会食時に訊ねると「waste of ballボールが無駄」と頭からあきらめの境地でした。このベル・エアーCCの特徴は、カート使用も可能ですが、プレーヤーにはそれぞれ若い男性キャデイーが付いてバックを担いでくれ、コースガイドもやってくれる大変記憶に残るゴルフクラブです。殆どの米国の名門クラブは、リクエストすれば男性の個人キャデイーが付いてくれます。また、名門クラブのメンバーは、他州の名門コースのTタイム(スタート時間)も予約できます。双方のメンバーにはメリットがあり、至れり尽くせりとなっています。

P・ユベロス氏をベル・エアーCCでの待ち伏せ作戦

ジミー・福崎氏は、日系米国人で電通側に立ち、米国流のビジネスコンセプトと服部氏(電通)の日本流なビジネスコンセプトを十分に心得たうえで戦略を組み立てられていたのには敬意を表します。

彼はユベロス氏に近付き、権利獲得へと電通を導き、そして今日に至るまで世界にスポーツ・ビジネス「電通」の名をとどろかせた、電通に取ってはかけがえのない人物でした。服部氏が他の日本人ビジネスマンと異なる所は、信頼するジミー氏にキーを預けて相手とのネゴシエーションを任せる所でした

米国人と交渉事を行うに当たり、多くの日本人経営者、ビジネスマンの最大の問題と弱点は、ジミー氏のような立場の人を雇っているにも関わらず、日本人独特のやり方を通すことで、折角のビジネスチャンスを潰してしまう、即ち幕開けから幕閉じまで自分でやらねば気が済まない性格から重箱の隅をつつくような事をやらかす欠点があるのです。その点、服部氏は、度量の大きな人物でした。

このような日本の伝統的な経営、運営、管理手法では、管理者、指導者の能力以上の成果・結果を期待できない事です。即ち、真のトータルマネージメント(スポーツ・アドミニストレイション)が何たるかを理解できていない証しであります。自分の権益を犯すかもしれない人材は、育てない置かないが伝統的な日本の経営、運営、指導、管理者であり、スポーツ先進諸国のそれとは真逆なのです。

ジミー・福崎氏の事は、全く業界においても社会においても伏せられてきました。電通内部に於いても本プロゼクトの部門及び関係部署の人間以外は知るよしもなく、服部庸一氏の名前は知っていてもジミー・福崎氏の名は何故か外部に対しては誰もが語ろうとはしませんでした。これは、日本の伝統的な社会、組織の雇用体質の慣習と知恵の一つなのかも知れません。日本人には、良い意味での不思議な美徳、美学がある事を初めて認識した次第です。しかし、私は、このような組織内の伝統的な慣習はアンフェアーな評価と扱いでないかと思われてなりません。

服部氏とジミー氏は、ベル・エアーCCP・ユベロス氏のゴルフプレー終了を待ちかまえ、クラブハウス内に潜り込んでのミーテイングを繰り返し行ったものと想像できます。勿論、ユベロス氏のLAOOCオフィスのミーテイングルームに於いても、またある時は、ダウンタウンのホテル会議室に於いて話が積み重ねて行われていったのです。

2.契約内容の詰めから実務作業へ

本社での実務作業が開始

その結果、契約書に盛り込む骨子が固まって行きました。此れにより契約内容の骨子は、事務的な修正、訂正、加筆等と事務的作業がメインとなり作業部門、法務部門に引き継がれました。そして、服部・ジミー部隊は、その後大きな調整事項に付いてのみP・ユベロス氏と直接交渉を行い、それ以外の業務は、LAOOCから得た全ての知的財産権利を今度は築地電通本社内の各専門部門、部署の営業、企画、デザイン、企業へのプレゼンテイション、等に於いて現実的な商品化作業が行われ、各カテゴリーのスポンサー企業に対するセールスを遂行する重要な工程に入って行ったのです。

LAOOCから得た権利を最大限有効活用する為には、一業種一社に絞り込む為に各商品のカテゴリーの各業種を確定するに当たっての選考基準、一業種一社に対する分担金の割り振り、等との駆け引き交渉作業が各担当部門間に於いて開始されたのです。その結果84ロサンゼルス・オリンピック大会での一番最初に決まった一業種一社の会社・企業は、事務機器メーカーでブラザー電子タイプライターだったのです。それは、ブラザー工業が世界に市場を求めているタイミングでもあったためです。一業種一社が確定した後、我も我もと民間企業が参戦の意思を電通に表し、まさにバブル経済期に相応しいスポンサーシップの集まりでした。此処にP・ユベロス氏の狙いの矢は、的を射たのです筆者も本タイプライターを長年愛用しましたので当時のタイプライターでは、大変斬新で使いやすかったのを記憶しております。

3.新たなスポーツ・ビジネスの開拓を求めて参戦

筆者は、ジミー・福崎氏が陰の人間としての功労者で在った事をよく存じて居たので本連載の此処にご紹介させて頂きましたまた、この電通は、ロス大会プロゼクトと並行して進めていましたワールドカップサッカー(略:WCS)の権利略奪計画がもたつき前進しないため、本社司令部はロス五輪で結果を出した服部、J.福崎コンビの参戦に舵を切ったのです。これも本ロス五輪の権利獲得の成功による「人間関係の絆と信頼」の遺産が大きな原動力となり次なる大きなプロゼクトへと踏み出して行くのです。本WCサッカー権利略奪計画に付きましては、機会が在りましたら改めてご紹介させて頂きます。これから始まる電通のスポーツビジネスの世界戦略は、この84ロス五輪の成功と成果が基盤となり、ご紹介させて頂きました服部庸一氏とジミー福崎氏コンビがその礎を構築した事をお伝えさせて頂きました。

電通内部では、当時服部庸一氏の部門、部署ではなく、他の関係部署で業務をされていた方々が、今日、私が電通で「オリンピックビジネス」を「サッカービジネス」を「世界陸上ビジネス」をやったと公言されるケースが多々あるようですが、その方々は、当時業務に関係はされていてもキーマンではありませんでした。キーマンは誰であったのかは、実務の様子を木陰で見守っていたフェアーな眼差しの持ち主が必ず居た事です。それは、誰が語らずとも事実、真実は時間と共に歴史が語ってくれる事になるのではないでしょうか。漁夫の利を得たそのような方々については、ご自身の胸に手を当てると一番よくご存知ではないかと思います。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

お知らせ:次回Ksファイルは、多分読者の皆さんが何故筆者はこれほどまでに米国に於いて本件に関わる人間関係、行動範囲を持ち得ているのか、との素朴な疑問をお持ちのようですので本テーマを終了する前にインターミッション的に余談話を付け加えさせて頂く事により、その謎が解けるのではないかと思い掲載する予定です。

K'sファイルNO.97:今日のスポーツ電通の礎 84ロス五輪とは!

K'sファイルNO.97今日のスポーツ電通の礎 84ロス五輪とは!

無断転載禁止          注:K'sファイルは、毎週木曜日掲載予定

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第三弾:電通の仕事人と陰の人

1.電通84ロス五輪プロゼクトとその仕掛け

①今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

それまで縁もゆかりも無かったP・ユベロス氏(LAOOC会長)に電通は、如何にして接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。元来、電通84ロス五輪組織委員会・会長のP・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかった事に付いてKsファイルNO.96で触れました。よって、本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。服部氏は、本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、此処に至るまでの長い実践キャリアと実績がありました。

服部氏は、音楽の才能が豊かで、プロ顔負けの声量の持ち主で在ったとうかがって言います。大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動をしていた事の紹介は以前ご紹介申し上げた記憶があります。そして、この戦後間もない時代彼はジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)によってその後の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけて行って演奏活動をしていたようですが、そこで駐留兵士達のために、米国本土からタレント、歌手達を招聘するプロデユースを担当をしていた日系人と出会います。この出会いが、服部氏の将来に大きな変化と世界の扉を開ける事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、是非記憶して置いて下さい。

その後、服部氏は、縁あって電通に就職します。そこで彼はまた、趣味で在り得意の音楽で水を得た魚の如く、道を切り開いて行くのです。此処では、筆者が音楽界及びその知識には疎いため、音楽事業における功績は割愛させて頂きます。しかし、彼のキャリアの中でも筆者が輝かしいと思ったのは、大阪万博や沖縄海洋博でプロデユーサーを手掛けられ、成功を収められた事ですこのような話題になりますと、服部氏と夜が更けるのを忘れてロスのホテルで話し込んだ懐かしい記憶が蘇ります。

服部氏は、当時の一部電通社員特有な傲慢で誰に対しても上から目線の社員とは異なり、人当たりが素晴らしくよく、ソフトで、人の話に耳も傾けるタイプでした。特に彼の経験の少ないスポーツ界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でありました。私の個人的な印象では、本当に電通の方とは思えない程、物腰が低く温和な雰囲気の方でした。しかし、時々見せる鋭い眼光の奥からは、この世界で生きる人間特有の鼓動が透けて聞こえてくるのを肌で感じ取れました

大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友人のような親しみを覚えた記憶が今も色濃く残っております。多分当時、P・ユベロス氏との契約の見通しにメドが付き、あの日はホッとされた夜だったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が後ろ盾となっていた事も事実でした。

2.電通最前線部隊の存在とアグレッシブな行動力

①ジミー・福崎氏の存在と人柄

服部氏については、如何に実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であり、彼一人では、何も出来ない事を百も承知であったようです。

そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして当時は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトしたのです。そこでの服部氏の福崎氏への期待は、何とかしてLAOOC会長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性を模索し、そしてその方法、手段を探すことを頼み込んだ様です。

服部氏の側でいつも同席し、物静かに含み笑いを浮かべている長身の日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーの片隅で東洋系マフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通をゆるぎない礎を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏であったのですジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏に如何にして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー氏と服部氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、如何に辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスプロゼクトをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。服部氏は、どこでこのジミー氏と出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休日にロスの私邸に招いて下さった時にお茶を頂きながら雑談の中でストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問招聘のマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

②服部庸一氏の人柄

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通人のイメージとは対極の人物であったことを確信しました。彼は、決して私に対しても見下した言動態度を取らず、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しい方でした。

このような事を十二分に理解しているジミー氏は、服部氏には全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織から外部に位置するジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動からも見て取れました。このように服部・ジミー福崎コンビは、お互いにリスペクトし合い、厚い信頼と強い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいたのだとも思います。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画でお世話になっていた時に出会った当時の西武ライオンズ監督、根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差しと大変酷似していたところもありました。しかし、根本氏の問題の処理、解決方法は、服部氏と比べると異質でした。勿論、人間として本質的な部分は、生まれも育ちも人間関係も異なりますので、あくまでも表面的な部分が似ていると申し上げます。

③ジミー・福崎氏の人となりと立ち位置

筆者は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から事前に知識を頂いていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。

それは、ロス日系社会には、古き良き親友達が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを理解していた方でした。彼は、最初は電通の本プロゼクトの責任者であった服部庸一氏の通訳として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です。即ち、服部氏のシャドーマンの存在だったのです。その証として、ジミー氏の存在は殆ど今日も本件に関して電通内に置いても、ましてや外部に置いて語られることなど耳にしたことがありませんでした。

服部氏は、米国人が同席する場所では一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちは、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を電通の本プロゼクトの仕掛け人としますとこのジミー・福崎氏は常に側に居て陰で支える参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小生の関係とは、最終的には異なっていたように思います

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、LAOOC電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、休日に美味しいお茶を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか計り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

3.日系二世の重要な後ろ盾が橋渡しを

①勝負の切り札的な人物を味方に

ジミー・福崎氏は、服部氏から依頼を受けた当時、P・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。 

しかし、彼は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在でもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです

和田氏は、2世として数々の功績をご自身の血のにじむような努力で勝ち取られて来られた方でした。筆者と同氏とは、ロス日系人社会の著名なご家族と小生が親しかった関係で、パーテイーでご紹介を受け、それ以降何度か会食の機会をいただきました。お会いする度に若輩の小生に「頑張りなさい」と声を掛けていただき、苦労話や、日本人でありながらの日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等を本当に親身になって指導下さりました。同氏に付きましては、また機会がありましたら、如何に素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。

このような事があった後に、私は、親友から「フレッドがP・ユベロス氏に電通を紹介してあげたんですよ」という話を伺ったので、服部氏、ジミー氏とその後お会いして話をお聞きする時には、何か不思議な人間関係や、ご縁の大事さを肌で感じずにはいられませんでした。勿論、服部、ジミー両氏は、小生が既に日系人から真の情報を得ていたと知る由もありませんでした。

ジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを断る事はできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みを伝え、協力が得られるかを、暫くの間、入念に思案したのでした。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からいろいろと巷の話をお聞きする事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大切な機会となりました。

ジミー氏の結論は、日系人社会で確固たる実績を持たれ、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです

 ②和田氏が電通を信頼したのはJ・福崎氏の努力の賜物

勿論、彼は、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。

ジミー氏は、既に多くの日本人が失っている義理人情を大変大事にされているようでした。特に日系二世には、当時彼のような義理堅い道徳観念を両親から教育され日本人の誇りとして受け継いでいる方々が沢山いらっしゃいました。近年の我が国の政治家、スポーツ関係者には、是非日系二世の方々が大事にされている日本人のよき道徳観念を忘れないで欲しいと願う次第です

ようやくジミー氏の準備が整いました。和田氏のロス自宅を目して服部氏と向かいます。いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)の最前線部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り、地ならしを完了していました。そのため、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクション(日本的には、根回し)は和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることと相成ったのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

お知らせ:次回K'sファイルは、和田氏を味方に付けP・ユベロス氏への橋がかかり、双方の思惑が進行する中、新たなBIGプロゼクトに参戦しなければならない事態が発生するのです。

K'sファイルNO.96:今日のスポーツ電通の礎 84ロス五輪とは!

K'sファイルNO.96:今日のスポーツ電通の礎84ロス五輪とは!

無断転載禁止    注:K'sファイルは、毎週木曜日掲載予定

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第二弾:公金を使わず 84ロス五輪成功のキーは何であったのか!

1.P.ユベロス氏の手法と決断力

①前回のあらすじ

84ロス五輪大会組織委員会(略:LAOOC)の委員長は、選考基準の公開や、選考方法の事前告知を経て、応募者600名の中から厳重な審査の基に選考されました。重要な選考委員会は、ロサンゼルス市民を代表する審査委員の選考に於いて、利害、利得を得る可能性の低い、その分野と社会、市民からリスペクトされている人物(マイノリテイを含む)がフェアネスを基に選出されました。勿論、審査委員に対する報酬は無く、日本的な第三者委員会とは異なり純粋な市民の代表が審査委員でありました。

2020年東京大会の組織委員会・会長は、どのようにして選考されたかご存知ですか。少なくとも私は、存じ上げません。

東京大会組織委員会は、会長の選考方法も情報公開も国民、都民にはなされず、いつの間にか現人物が鎮座してしまったような記憶しかありません。この事からも我が国は、グローバル化を声高に叫びながら実は伝統的な隠蔽体質と談合体質から抜け出せない悲しい現実が、21世紀の今日も尚、現存している証です。このような現状と体質は、いつまでも改善される事無く続いているという事の様です。

1984LAOOCP・ユベロス委員長の掲げた大義

P・ユベロス氏は、「このオリンピック大会開催では、アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス市の公金である税金を1セントたりとも使わず黒字化する」と委員長就任時に掲げ宣言したのです

一方2020東京五輪組織委員会・会長の森喜朗は、就任時に「現在の開催に必要な予算では十分でない」と資金投入の必要性を声高に掲げ、まさにユベロス氏と対極のリーダーであったことを皆さんはご存知でしたでしょうか?何故、レガシーの必要性を声高に唱えて、即箱物の建設をむやみやたらと推進したのか?

③新しいスポーツ・ビジネスの理念と明快なコンセプト

P・ユベロス氏の着眼点を示すのに、分かりやすい有名な言葉があります。それは、「オリンピックに必要なのは、競技場でなく、その競技場に何台のカメラを持ち込めるかだ」と断言したのです。これは、まさにビジネス・アドミニストレイターとしてのクリエイテイブな発想の証しであります。P・ユベロス氏の新しいスポーツ・ビジネスの理念と明快なコンセプトとは、「権利=Right」を最大限生かす為の手段と方法に特徴がありました

そのコンセプトは、何かが「制限」されて初めてその「制限を制限すること」ができる。つまり「権利」の意味が生じることです。権利が与えられても、権利を持たない者との区別がなければ、やはり意味はないのです。権利の有無により区別が無いなら、なんとかして「差別化」を図って区別を作り出す事が必要であると考えたのです。権利を持たない者に対しては、制限を強くする程、その「制限を免除される権利自体の価値が高くなる」ことは明白です誰もが使えると言うのは、誰にも使えないというのと同じに、その使用自体には価値が生じないのです。

権利の重要なポイントは、「権利」という商品は物理的に存在しないのです一般の商品とは性格が異なる点に着眼したのです。

無体財産権」は、「知的財産権」とも呼ばれ、知的にしかその存在は認められないのです。その意味は、「権利=Right」の質、価値は、価格(お金)でしか評価できない」と言う事を実践して見せたのがユベロス氏なのです。

即ち、スポーツに権利ビジネスを持ち込んだのがユベロス氏のスポーツ・ビジネスアドミニストレイションの特徴なわけです。(以上、同氏のビジネスコンセプトより)

このようにP・ユベロス氏は、確りとした論理的なコンセプト基盤を持って実践された、いわゆる知的戦略、戦術家であったと思います。

2.ユベロス氏の成功の秘訣と着眼点

ユベロス氏は、「オリンピックに必要なものは、大きな競技場ではなく、問題は、その競技場に何台のテレビカメラを入れられるかだ」と断言したのです。

①一つ目の着眼点-

彼の視点は、スポーツ・ビジネスを如何にして実践し、成果を出すかの徹底したコンセプトが伺えます。それは、オリンピック自体をテレビ放送用のスポーツ・エンターテイメントとして位置付け、放送権利の売買を行うビジネスの道を開拓したのです。この大会以降、スポーツイベントの放送権料が右肩上がりを始めたのは、ユベロス氏の功罪のうちの罪の部分であるところと言えます。

②二つ目の着眼点-

スポンサーシップという形で民間資本を活用する事が、唯一の財源を確保する術であると位置づけた事です。そして、その為には、巨大な広告代理店(AdvertisingAgency)の協力とその活用方法に着目したのです。

重要項目の一つの民間企業から得るスポンサーシップに付いては、権利をより強固にするため、一業種一社制を取り入れた事です。これにより、スポンサー広告の価値はより効果的且つ、競争原理導入でより効果が高まる事を期待したのです。(例:車のスポンサーは、世界で一社のみ)

広告代理店には、ビジネス的な権利を与える代わりに、ロス大会を成功させるために必要最低限のギャランテイー(保証)方式を取り入れて、大会成功の財政的な基盤を担保させた事でした。その為には、代理店を先ず選考、指名することを最優先としたのです。

ユベロス氏は、当時日本がバブル経済を迎え、日本企業がまさに海外にマーケット(市場)を求めている事を強く認識していました。そのため、ターゲットとして日本の広告代理店「電通」を心の底では期待していたのではと推測します。しかし、誰にも心中を明かさず、彼の賢さが伺えます。そこへ、まんまと飛び込んでいったのが電通でしたP・ユベロス氏に直接、接触を求めて行ったわけです。(本件に付きましては、次回以降に予定)

3.何故広告代理店に電通を選定したか

P・ユベロス氏と広告代理店電通との関係は、元々縁もゆかりもありませんでした。よって、ユベロス氏は、最初から電通ありきで動き出したわけではなかったのです。ユベロス氏のビジネスコンセプトに米国の広告代理店制度(AE制度)は、不都合であった

AE制度とは

米国の広告代理店制度は、日本とは異なり非常に厳しい制度の下で成り立っている業界です。その最大の特徴は、米国の広告代理店は、AEAccount Executive制度が法律によって守られており、即ち一業種一社制度の事なのです。一業種一社とは、一つの広告代理店が同じ業種の代理店になれない事を意味しています。例えば、A広告代理店がフォード社との代理店契約をした場合は、同じカテゴリーのトヨタ社の代理店にはなり得ない事を意味します。

つまり、米国の広告代理店ではスポンサーセールスに於いて、ユベロス氏が考えるような競争原理を活用する事が出来なかったのです。それに比べて、日本の広告代理店制度は、AE制度がなく各広告代理店が一業種一社の枠を超えた一業種複数社制度であったため、好都合であったのです。即ち、日本の広告代理店は、例えば車の業種に於いてトヨタ、ホンダ、日産、マツダ、鈴木、等と何社でも取り扱えるという意味です。丁度、この時期のIOC規約、規則には、この種の規約、規則が無く、今日のIOCに於けるこの種の規約、規則は、84ロス五輪を参考に85年以降に出来たルールなのです。

電通内部の葛藤

電通内部に於いては、一枚岩で在った訳でなく電通組織の体制、体質から内部での競争、闘争は激しく、常に群雄割拠の中で、やるかやられるかのパワーゲームが横行していました。つまり、戦略的な内部組織構造であったわけです。

此れを称して、業界では、電通方式と呼ばれています。これは、筆者が所属していた当時の西武、国土計画の会社・企業コンセプト(企業内に於ける競争の原理原則を活用)とも酷似しています。この企業コンセプトを取り入れることは、企業内外に於いてハイ・リスクマネージメント並びに危険なモラルハザードを起こす要因になる可能性を含んでいる事を忘れてはならないのです

既に当時から米国に於いては、各競技スポーツのトップアスリートを内外からかき集めたスポーツ・エイゼンシ―(スポーツ代理店、IMG社:International Management Group)を立ち上げ活動し始めた時期であったのです。電通内部の本プロゼクトのオリジナルグループのプロデユーサーは、服部庸一氏を中心とした営業企画室グループでした。しかし、別の社内グループのリーダーは、本来のグループの機先を制するが如く、このスポーツ代理店のCEO(最高経営者)のマーク・マッコーマック氏(Mark McCormack)を対LAOOCP・ユベロス氏のネゴシエーター(交渉人)とするべく動き出したのです。

しかし、この動きの情報を既に察知したP・ユベロス氏は、電通IMGに対して“NO”の警告を発したため、IMGを前面に立てようと策を弄した電通内の別のプロデユーサーの画策は、事前に潰されたのでした。後にこのプロデユサーは、電通を離れて何故か体育学部のある私大に移籍。これにより今迄以上にユベロス氏と服部氏との関係は、絆を深め、服部氏は社内の闘いを制していよいよ本格的な交渉へと駒を進めたのです。

4.LAOOC電通に与えた対価とは

ユベロス氏は、さすが一筋縄では行かないビジネス・アドミニストレイターであり一流のネゴシエーター(交渉人)でもあったのです。ビジネス交渉が具体的に動き始めたのは、確か1979年秋ではなかったかと思われます。此れは、電通側の焦りが、プロのネゴシエーターであるユベロス氏の罠に入っていくことを意味します。(本件に付いても、次回以降に予定)

此処で付け加えますと、LAOOCの唯一の総責任者は、P・ユベロス氏であり、対電通に対するネゴシエーターでもあった事がこの人物の強烈な個性とパワーを感じさせる次第です。

此処が20東京五輪大会組織委員会の会長のような神輿に鎮座して、全ての実務は、他の政治家、役人、企業人にやらせる手法とは異なり、P・ユベロス氏は、真に全ての指示、最終決断を自らの責任に於いて実行、遂行するビジネス・アドミニストレイターだったのです。

①最終的に、ユベロス氏が電通側に手渡した権利の中身

1.公式マスコット、エンブレムを使ったライセンス権

2.公式スポンサーとサプライヤー

3.アニメ化権

4.入場券取り扱い権

以上が合意事項であり、放映権、入場料収入権は、与えられませんでした。此れもユベロス氏のしたたかなプロのネゴシエーターの一面だったと思います。

大義達成の為の準備

ユベロス氏は、本大会委員長を受託した後、早速に手掛けたのが大会を成功させる為に必要な自身が掲げた大義を如何にクリアーするかでした。

それは、「公金は使わない、黒字にする」のハードルを越えなければ自身のコミットメントを解消できないことを十分に承知していたのです。そこで先ずは、予算を概算でなくアクチュアル(本当に必要)な数値を設定したのです。この数値(金額)目標を電通にコミットさせれば、その時点でユベロス氏の勝利となり、ゲームオーバーとなると試算して、対電通とのネゴシエーションに臨んだのです。

5.P・ユベロス氏のキャリアと頭脳センスの勝利

ユベロス氏は、当時バブル期を迎えていた日本経済に目を付け、広告代理店をLAOOCの公式広告代理店に指名したのです。日本の広告代理店は、電通でした。何故博報堂、その他でなかったのか。(次回以降に予定)

GIVE&TAKEの取引成立

ユベロス氏と電通の間では、双方丁々発止のネゴシエーション(交渉)が積み重ねられ、最終的に、ユベロス委員長は、電通の提示に満足し、組織委員会LAOOC)は電通側のギャランテイー(保証)を担保し、リスクマネージメントを回避、スポーツ・ビジネスとしては、ここでユベロス氏の一大勝利となったのです

即ち、P・ユベロス氏が提示した権利(1,2,3,4)を電通に渡す対価としてLAOOCの赤字の可能性は、無くなった事です。此れで、ロス大会開催前に大会予算は、電通により保証(ギャランテイー)を担保させ、後は、黒字化を考えるだけとなったのです。

最後に黒字化の最大の要因は、ユベロス氏が最後まで電通側とのネゴシエーションから切り離して渡さなかった、TV放映権、及び入場料収入(テイケット収入)が彼の最後の国民、州民、市民に公約した黒字化の要因となったのです。そして、本黒字となった財源(440億円)は、全てカリフォルニア州、ロサンゼルス市の社会厚生施設に還元されたのです。

このように三十数年前に、P・ユベロス氏に寄って公金を使わず、民間資本のみにてオリンピック大会を招致、開催したスポーツ・ビジネスアドミニストレイションの実例を完成させていたのです。

以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より抜粋~」

P・ユベロス氏は、本スポーツ・ビジネスアドミニストレイション手法により、市、州、連邦の政治家達の利権へのつけ入る隙を与えなかった事で余計な利権絡みのスキャンダル、疑惑、等からも大会組織委員会並びにロス五輪をクリーンなイメージを確保した事は隠れた最大の功績として、今も尚関係者、市民、州民から称賛されている次第です。また、此の事は、無駄な予算、意味不明な人件費、諸経費の節約に直結していたのでした

そして、同氏のアドミニストレイターとしてのセンスは、此れだけにとどまらずロサンゼルス市民に対して財務状況を定期的に情報公開する気配りを忘れなかった事です。これは、彼が組織委員会・委員長に任命された時に選考委員会、組織委員会との間で取り交わされた「契約書」を誠実に遵守した証しでもあるのです。

20東京五輪組織委員会・会長には、責任者としての所在を明確にする契約書なるものがあるのであれば、公開する義務があります。何故ならば、20東京五輪組織委員会は、公益財団法人である事から明文化された書面があってしかるべきだと筆者は思う次第です。

我が国には、残念ながら2020年東京大会開催に於けるロードマップを完成できるスポーツ・ビジネスアドミニストレイターが居なかった、という事ではないかと思われます。

 

文責:河田 弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

お知らせ:次回は、何故電通P・ユベロス氏に近づけたのか、如何にして電通は、今日の世界のスポーツ・ビジネス(オリンピック、ワールドカップ・サッカー、世界陸上、等)を一手にできたのか、そこには、黒衣の参謀の戦士が居た。華やかな舞台裏には、何かが匂い、何かがうごめき、そこには必ずひっそりとシャドーマンが寄り添っている。

 

K'sファイルNO.95:今日のスポーツ電通の礎84ロス五輪とは!無断転載禁止

K'sファイルNO.95今日のスポーツ電通の礎84ロス五輪とは!

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第一弾:五輪の革命とその変革(Change

1.アマチュアスポーツをビジネス化

①スポーツがビジネスCORE

1970年代の世界のスポーツ界は、当時の世界的な経済の動向に強い影響を受けていました。70年代は、スポーツに関連する事業形態が、それまでとは異なるその名も「スポーツ・ビジネス」として産声を上げようとしていたのです。これは、丁度私が米国の大学に渡ってまもなく米国に於いてもスポーツの変革の時期と時代を同じくしていたように肌で感じました。

70年代に入って、本格的にスタートしたスポーツ・ビジネスは、その後新しい可能性を求めて次世代に引き継がれ今日に至っています。

②カリスマBIG3が世界のスポーツ界を席巻

オリンピック大会(略:五輪)のスポーツ・ビジネスの新しい可能性は、1966年に国際オリンピック委員会(略:IOC)委員に就任、70年に理事に昇進、そして80年には、第7IOC会長に選出された、アントニオ・サマランチ氏(Juan Antonio Samaranch19202010スペイン、バルセロナの生まれ)のリーダーシップにより変革されて行きました

同氏は、その過程に於いて、IOC内外での政治的手腕を最大限発揮し、将来のオリンピック発展構想の推進役を担った人物です。1998年の長野オリンピックは、サマランチ氏と堤義明氏(当時西武・国土計画会長)との間の公私に渡る関係で成立した事は有名です。そして、長野五輪開催によりモナコに黄金の御殿が建てられたとまで揶揄された人物でも有りました。世界のスポーツ界の変革に貢献したBIG3の1人です

③アマチュアリズムの功罪

スポーツという概念は、元来ヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人の文化社会の流れを受け、アマチュアリズムが19世紀に英国で生まれたと言われています。このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神を「アマチュアリズム」として長年継承して来たのです。

ピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス、1863年~1937年)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者です。同氏が提唱した「オリンピック憲章」の「アマチュア規定」は、オリンピック大会及び選手、競技関係者達の自由をアマチュアという枠組みで縛って来た為に段々とオリンピック大会の開催自体を疲弊させていきます。財政的な赤字を伴う事で各国の主催都市は招致に消極的になり激減します。この事がIOCにとって最大の問題の一つとなっていくのです。

④アマチュアとの決別

マチュアのコンセプトは、そもそも「選手は、スポーツによる金品の授受及び生活の糧として受けてはならない事、指導者、関係者は、スポーツによる一切のビジネスは認められない事、また、それによる金銭の授受及び生活の糧を受けてはならない事」でした

このアマチュア精神が形骸的に名残りしているのは、我が国に於けるスポーツ競技団体の役員、関係者の無給でバランテイアと言わしめている所以が此処にあるのです。よって、この競技団体の役員達は、無休でバランテイアーなので責任は無いのだと言いたいのです2020東京五輪組織委員会の理事及び役員、スタッフは、高額な有給者です。

そこでAサマランチ氏は、自身がIOCの委員時代から本オリンピック憲章のアマチュア規定の問題を検討課題とし、1970年のIOC理事昇格後には憲章からアマチュア規定の削除を提案し、それ以降強力に推進して行きます。

その結果、1974年にオリンピック憲章の五輪参加資格から「アマチュア」という文字を削除する事になったのです。

丁度この時期のスポーツ界のポリテイカルな様相は、IOC会長のAサマランチ氏(スペイン)を筆頭に国際競技連盟(略:IGB)のメジャー競技スポーツとされる国際サッカー連盟(略:FIFA)の会長にジョアン・アベランジェ氏(ブラジル)、国際陸上競技連盟(略:IAAF)の会長にプリオ・ネビオロ氏(イタリア)と白人主導からラテン系主導へと歴史が移行した事もサマランチ氏にとっては追い風となり、改革がスムーズに遂行出来た要因でした。当時、国際マスメデイアは、こぞって彼らを「ラテン系スポーツマフィア」と呼び、また彼らの言動、行動が積極的且つ手荒かったのも事実でした。

これは、オリンピックをビジネス、商品(Merchandising)として捉え、また競技選手(Athlete)も商品であり、プロフェッショナルとしての出場を公認する出来事へと発展させた、オリンピック革命と言われるスポーツ界最大の変革の時期であったのです

日本に於いては、このような世界の動向から約10年後の19865月に、日本体育協会 (略:JSA、現日本スポーツ協会)が従来の「日本体育協会マチュア規程」を廃止し、代わりに「スポーツ憲章」制定し,加盟競技団体の登録競技者の資格規程を改めます。しかし、今日に於いては、この新しく制定した資格規定も中途半端な規定であり、プロ競技者、企業スポーツ競技者、大学教育機関に所属する学生選手、高校教育機関に所属する生徒選手、及びそれらの指導者、運営、管理者に於いて、規定内容は明文化されておらず、また罰則規約が皆無に等しく、ただ単に混乱を来している状態であると思われますそして、このような状態が今日、我が国のスポーツ界、競技スポーツ界の不祥事を色濃くしている最大の要因の一つであると考えられます

 

 2.スポーツ・ビジネスの夜明け

~今日のオリンピック・ビジネスが体系づけられた実践と成果~

①五輪にスポーツ・ビジネスアドミニストレーターが出現

このようなオリンピックの歴史を背景に、1980年にロサンゼルス・オリンピック大会組織委員会(略:LAOOC)の委員長に任命されたP・ユベロス氏は、IOC会長のサマランチ氏の掲げたオリンピックのビジネス化を自らの手で実践され、確立されたカリスマ的人物と申し上げても過言でありません。

今日のスポーツ・ビジネスの源は、この時代にこのような人達によって体系付けられたのです1980年よりP・ユベロス氏がロス五輪で実践したスポーツ・ビジネスは、オリンピックだけでなく世界のスポーツ界のビジネスコンセプトを根底から変革するに十分な実績を残したのです世界のスポーツ界のBIG3のもう1人です

84ロス五輪はオリンピック・ビジネス元年

1984年ロサンゼルス・オリンピック大会は、オリンピックのビジネス元年と称される所以なのです。それまでのオリンピックは、常に開催国の赤字負担によるもので、段々と五輪大会が開催国、主催都市の重荷になり、IOCでは、大幅な縮小が声高に叫ばれるようになっていた時代です。しかし、サマランチ会長のリーダーシップにともない、それまで定説となっていました「アマチュアと呼ばれていたコンセプト」を五輪憲章から削除した事によりスポーツ界のあらゆる面に於いて一大変革を起こしたのです。

これにともない1980年にロサンゼルス・オリンピック組織委員会LAOOC)の委員長に就任したP・ユベロス氏は、サマランチ会長のIOC改革の急先鋒としてスポーツ・ビジネスを実践し偉大なる成果と結果を残したのです。

 

3.P・ユベロス氏はオリンピックの救世主

P.V.ユベロス氏の略歴

ピーター・ヴィクター・ユベロス(Peter Victor Ueberroth)は、1937年9月2日生まれ、米国実業家、1984年ロサンゼルス・オリンピッ大会組織委員長、赤字続きのオリンピックを黒字に転換した人物、その後第6代MLBメジャーリーグコミッショナー、等々を歴任。

彼は、オリンピック創設者のPクーベルタン氏が死去した1937年9月2日に米国イリノイ州で生まれる。この事からも人は、彼を長じてフランス人貴族のピエールが産み、育てたオリンピックの救世主と呼ぶようになったのです。この奇妙な因縁を人は語り継いでいるのです。

IOCは、78年5月、アテネで開く総会で84年開催都市を決める予定でいたのです。しかし、立候補は、ロサンゼルス市のみ、しかも、申請書によればロサンゼルス市は、財政を保証せず、一切の責任を負わない。民間の任意団体、南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)が民間資本を導入、運営する予定になっていたIOCは、困惑しました。長い歴史で考えてもみなかった事態が起きたのです。その理由は、76モントリオール大会の巨額赤字、加えて冬季大会開催予定の米国デンバー市の大会返上でした。

ユベロス氏は、カリフォルニアで育ち、高校時代はフットボール、野球、水泳で活躍。大学は、サンノゼ州立大に進み、水球で活躍、1956メルボルン・オリンピックの代表候補、代表にはなれなかった。卒業後、トランス・インターナショナル航空に就職、63年に自ら旅行会社設立、その後北米NO.2の旅行会社に成長させた。1980年、その手腕を評価されロサンゼルス・オリンピック大会組織委員長に就任した。(以上~PV・ユベロス氏バイオグラフィーより~)

84ロス五輪大会組織委員会、委員長選考基準項目

 1.40歳から55歳 

 2.南カリフォルニア在住

 3.企業経営経験を有す

 4.スポーツ好き

 5.経済的に独立

    6.国際情勢に通じる

上記選考基準を基に全米600人もの候補者から厳正な審査により選ばれたのがP・ユベロス氏でした。ユベロス氏は、当時42歳。ロス郊外に住み、従業員1人から始めた旅行代理店を北米2位に育てた実業家。

我が国の五輪組織委員会は、何故このような民主的なフェアーで透明化した組織委員会、会長の人選を行わなかったのか(実質は、密室で決められた)また、P・ユベロス氏と20東京五輪組織委員会・会長を選考基準から比較して、どのような人物が適任者であるかは、一目瞭然であると筆者は、スポーツ・アドミニストレイターとして確信致す次第です。

同氏の信条は、伝統を破壊せず。革新的であっても伝統を破壊してはならない。無駄を省き経費をかけないが、親しみやすさのなかにも威厳も必要だ産経新聞特別記者 佐野慎輔氏より)

 筆者の私見

上記LAOOC会長のP・ユベロス氏と2020年東京大会組織委員会・会長とのプロフィール(既に皆様はご存知の通り)を比較して下されば、その違いは、歴然と理解できるのではないでしょうか。

この様な透明で国民、社会に開かれたLAOOCのような組織・団体は、日本の公益財団法人2020五輪東京組織委員会に必要不可欠な構造とシステムだと思います

国民、社会から選ばれたクリーンで一流のスポーツ・ビジネスアドミニストレイターが率いる組織では、我が国で起きる様な「諸般の疑惑並びにアンフェアーな所業」は起きにくい事を読者の皆様に理解して頂ければ幸いです。

我が国のスポーツ組織・団体にこのような構造とシステムを兼ね備えた組織・団体が出来ない主因の一つは、国民、社会が無関心を装う事にあるのではないのでしょうか。「JusticeFairness」は、我々国民、社会に「共存共栄」をもたらす根幹を成していることへの理解と認識が薄いのでないか、また理解、認識していても如何改善、改革するかのスポーツ・アドミニストレイション力と行動する勇気が欠落していると筆者は思わずにはいられません

これらは、やはり人が組織を作る事から、関係する人の資質がどのような組織、団体を構築するかの手本となった例ではないかと筆者は、考える次第です。

しかし、20東京五輪招致委員会、組織委員会は、この民主的で国民、社会の為になるロス五輪方式に目もくれず、今日の利害、利権構造の組織委員会、団体へと強引に推進した責任者達の罪は計り知れないと思われます。そしてこの莫大な負担を今後国民、社会に強いることを我々は認識すべきなのです。

此れも我々国民、社会が強引な委員会関係者に対して“NO”を突き付けられなかった事は、今後負の遺産と化すと思われます。その為にも国民、社会の皆様方の民意を先ず向上して頂く為にも、スポーツ・アドミニストレイションに興味を持って頂き必要で最小限度の知識及び情報提供が必要であると考えK’sファイルを発信させて頂いております。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

お知らせ:

KsファイルNO.95を是非ご記憶して頂き、次回は、1984年ロサンゼルス大会が公金を一切使用せず黒字にした、その手法をご紹介致します。少し難しくなるかも知れませんので出来うる限り咀嚼させて頂ければと考えています。此れこそが知的戦略、戦術。アッと驚かれますよ。それも日本の民間資本により支えられた事です何故この手法を20東京五輪組織委員会は、取り入れなかったのでしょうか。その理由は、このKsファイルにより明らかにされるでしょう。

K'sファイルNO.94:2020東京五輪招致の暗黒の霧はいつ晴れる

K'sファイルNO.942020東京五輪招致の暗黒の霧はいつ晴れる

無断転載禁止 注:Ksファイルは、毎週木曜日掲載予定

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読者からの便り:

河田先生、K'sファイルNO.93、拝読致しました。五輪協賛スポンサーの選出にミズノ社とアシックス社をめぐって一般に情報公開されない内情が色々あった様子が理解できます。そう言えば、お話に出て来た武藤敏郎事務総長については今回の東京五輪を復興支援に繋げる論調でメディアも好意的に取り上げておりますが読者のコメント投稿欄を読む限りは笛吹けど踊らずで、世間的には余り評価されていない様ですところで先生の文章にあった「賑やかに飛鳴していた海鳥(シーガル)が巣に戻ったが如く鳴き声一つしなくなった」と言う表現は独特ですね。先生は論理的な文章を書かれていて余り文学的な表現をなさらないイメージが御座いましたので新鮮な感じが致しました。それでは失礼致します。K’sファイル読書より、

 

第七弾:震災復興五輪は政治家の有言不実行

1.輝く太陽の唐突な変心と変身

先ず初めに

読者の皆さんは、「室伏広治」という名前を申し上げますとどの様なイメージが浮かびますでしょうか。陸上競技ハンマー投げ選手、鉄人、五輪、世界陸上大会でのメダリスト、日本人離れした体幹、等とイメージされるのではないでしょうか。筆者には、ハンマー投げの顔、ミズノMIZUNO室伏広治の強烈なイメージが焼き付いています。そして、オリンピックで金メダルに輝いた時には、確か上位選手が薬物違反行為により繰り上げ1位となった時に室伏選手はクリーンなアスリートとしてのイメージを内外に強く印象付けました。

室伏広治氏の紹介

室伏広治氏(Koji Alexander Murofushi)は、1974108日に静岡県沼津市で生まれ、幼少期を愛知県豊田市や米国で過ごし、千葉県成田高校に入学してハンマー投げを始めました。父親は、室伏重信氏で「アジアの鉄人」の異名を持つハンマー投げの名選手でした。母親は、ルーマニアやり投げ選手で欧州ジュニア選手権で優勝経験のあるセラフィナ・モリツさんです。広治氏は、父親の影響を受けて父の職場である中京大学1993年に入学。父がコーチを務めての二人三脚でハンマー投げに打ち込んだ姿は人々に感動を与えました。まさに両親の優秀なアスリートとしての遺伝子を受け継いだ、サラブレッドが日本に誕生したのでした。そしてそれを裏から、多くの方々が支え、今日の室伏広治氏があると確信します。

その後、室伏選手は、輝かしい太陽の如く国内競技大会は元より、オリンピック、世界陸上大会と破竹の勢いでメダルに輝き、日の丸を競技会場に掲げてきたのは、皆さんもご承知の通りです。しかし、彼にもアスリートとしての終演が訪れ、20166月の日本選手権大会を最後に競技者引退の意向を表明したのでした。お疲れ様でした。

この頃から彼の人生には、大きな転機が訪れていたのでしょうか。アスリートとしてより、名誉職的な肩書を次から次へと背負い込む事が多く成りだしたようです。16東京五輪招致委員会の理事として、日本陸上競技連盟の理事として、そしてそれに伴うJOCの陸連代表としての理事に就任するのです。

また、20東京五輪組織委員会の発足と同時に委員会の中枢を担うチャートに於いて、スポーツ局長としての職責が与えられ、現在のスポーツ・デイレクターという要職を、補佐を付けて業務を遂行されているようです。本来、スポーツ局長、デイレクターには、どのような職責、責務と組織委員会では位置付けているかは不明確。

選手生活以外、殆ど学ぶ機会を持てなかった為に専門分野以外の重責は、大変なことと推測されます。しかし、彼は、全て引き受けてしまったのでした。この事は、メダリストがオールマイテイーで何でもできると安易な思考から来るのかも知れません。何故ならば、昨日までアスリートとしての競技生活のみに従事して来た選手に対して、今日からトップマネージメント能力が要求される肩書を渡すのですから、渡す組織委員会側も心配であったのでしょう。その証として室伏氏の補佐としてスポーツ局長時には、スポーツ用品メーカー(ASICS社)のベテラン重鎮を付けられ、スポーツ・デレクター就任後は、省庁からの役人を補佐としている事からも理解出来ます。

 

室伏広治氏の不可解な行動と決断

 特に、中京大学時代から物心両面でサポートしてもらっていたのはまぎれもない「ミズノスポーツ」でした。大学卒業後は大学院に通いながらの選手生活に於いても株式会社ミズノの社員として長く役員待遇まで受けて来られたようです。

ミズノスポーツは、たぶん商品価値の高いアスリートとしてのみならず、社員として将来の幹部候補生として長期に渡り育てられてきたのかも知れません。社内に於いては、「輝く太陽」のような扱いを受け、特別扱いをされて来られた様子が目に浮かびます。

室伏氏は、長くお世話になった中京大学に別れを告げて東京医科歯科大学の教授に就任されました。日本の大学教育機関においては、教授職に課せられる業務は通常週最低7コマの授業とゼミ演習が課せられています。本来大学の業務を遂行するだけでも教授職は、時間が足りない筈です。現在の大学での約束された職責、責務は存じ上げませんが、筆者は、広告塔としての室伏広治氏であって欲しくないと願う次第です。

東京五輪に於いては16東京五輪招致委員会の理事に就任し、IOCに於いてはアスリート委員選挙に3度立候補しましたが、当選を逃しました。選挙活動違反で当選が無効になった時には、自身によるマネージメント力が欠けている事に気付かなかったのでしょうか。その後、20東京五輪招致委員会では理事を外され、日本陸上競技連盟の理事として、また陸連の代表理事としてJOCの理事として在籍して来ています。

20東京五輪組織委会が設立された時には、組織委員会のチャートのスポーツ局長(実質の職責、責務は不明)としての位置付けで迎えられたのでした。丁度このような時期を前後して彼の身辺に異変が起きたのでしょうか。

思えば、中京大学時代から今日までの長きに渡り、株式会社ミズノの役員待遇社員として物心ともに支えてもらった会社、そして水野正人氏に別れを告げる日がやってくるとは、誰が予期、想像したでしょうか。多分ミズノ社員達は、驚嘆した事でしょう。

 

2.筆者の私見と素朴な疑問

K'sファイルNO.9394のキーワーズは、二つだと思われます。その一つは20東京五輪のスポーツ用品カテゴリーのオフィシャルサプライアー権が、株式会社アシックスに決定した事。二つ目は、あれほど長きに渡り物心ともにお世話になった株式会社ミズノに室伏広治氏が突然、それもいとも簡単に自らの手で会社に辞表を提出した事です。

読者の皆さんは、驚かれたのではないでしょうか。この件に付きましては、当時小さく報道されていたような記憶があります。マスメデイアは、何故か報道する興味を持たれなかったようであります。まさか、組織委員会への忖度があったとは考えすぎでしょうか。

筆者の視点は、本二つのキーワーズが互いにリンクしていたのは疑う余地がありません。即ち、オフィシャルサプライアー権の判断・決断権を持っているのは、組織委の最高責任者の森喜朗氏であり、株式会社ミズノに辞表を出す判断・決断をしたのは、室伏氏です。

室伏氏がミズノに辞表を提出したのは、組織委のオフィシャルサプライアーが決まった後でした。よって、同氏の判断・決断は、本件に深く関わりがあったと思うのが妥当だと思います。

その証しは、その後の室伏氏の行動により明確になるのでした。それは、室伏氏が何と株式会社ミズノに辞表を提出し、受理された後、同氏は、返す刀で株式会社アシックスと契約をして自らの看板を掛け代えた事実でした。これに対する自らの説明もなく、ミズノ社に対する感謝の謝辞も見当たらなかったと記憶しています。

筆者の本件の素朴な疑問は、何故このような行為が簡単に彼には出来たのかという疑問です。筆者は、誤解を恐れず幾つかの疑問を項目別に挙げてみました。

1.所属先のミズノスポーツ及び総大将の水野正人氏は、負け組になったからか。

2.現在の20組織委のスポーツ・デイレクター(当時はスポーツ局長)の要職に居たい 

  のならば、看板を掛け代えろと強い圧力が掛かって追い込まれたので決断したか。

3.自身の周りの環境は急変し、自分は、何があっても目先の東京五輪のスポーツ局長

  のポジションは失いたくないとの思いが優先してしまったのかしかし、このポジ

  ションは失い、デイレクターのみの肩書となった。

筆者は、以上が素朴に頭に浮かんだ室伏氏の心中ではなかったかと推測する次第です。これらは、どれも当を得た疑問ではないでしょうか。

ここで見逃してはならない重要なポイントは、若しも筆者の素朴な疑問の23.項目がミズノ退社の要因であったならば、これはまさしく現在我が国のスポーツ界に於いて社会問題となっている「パワハラ行為」が組織委員会の内部で起きた由々しい出来事なのではないかと思う次第です。残念ながら室伏氏が長年物心共にお世話になったミズノスポーツに突然辞表を出し、ミズノスポーツの室伏広治氏として社会にファンにも何の説明も無いのは、誠に筋の通らない行いと思われます。室伏選手は、アスリートとしてクリーンであったので、是非社会人としてのクリーンな室伏氏を貫いて欲しいと願う次第です。近い将来、JOCの会長の玉座に対外的にも鎮座して欲しい1人なので、社会に於いても信頼できる人物である事を切に願う次第です。

判断・決断の今後

これは、筆者の私見としてお聞き頂ければ幸いです。

それは、室伏広治氏は自身の中で、現在の自分の本業は何かという本質的なスケルトン(背骨)を明確にして欲しいという事です。室伏氏の心の中には、何時までも自分は、輝く太陽で在り続けたいとする過去の栄光から抜け出せないでいるのかも知れません。これらの現象は、嘗てのプロ野球のスター選手にもよく見受けられます。

筆者の私見は、室伏氏がミズノスポーツと縁を切り、ライバル企業のアシックスと契約する事の重大さを十分熟知し、思慮あっての行動とは思えませんでした。なぜならば、彼自身には、その判断をするに十分な社会的な知識と経験がなかったと思うからです。ミズノスポーツを去って彼に残ったのは、組織委員会の理事、評議委員ではなく大会の1広報担当者のように思えてならないのは私だけでしょうか。

朝日新聞朝刊(2019313掲載)の記事には、某トーク・セッションで、室伏氏は、「スポーツの裏にこそ大切なものがある」と講演されているようです。彼には、何が本当に大切なものに見えたのでしょうか。

室伏氏は、これからの長い人生の中でこの度の判断と決断がどうだったのかの答えを得る時が来ると思います。彼は、政治家ではありませんので誠実にそして正直な人生を歩んで行って欲しいと願う次第です。筆者は、いつも個人的に応援しています。

3.水野正人氏に送る

貴殿は、2020東京五輪招致委員会に於いて自らの信念と情熱を持ち、勝利に向かって全力を注がれました。そのあなたが組織委員会JOCに居ないのはさぞや無念な事でしょう。また手塩に掛けて自ら優秀なアスリートをサポートされましたが、本人の意思で去って行きました。しかし、信念がぶれることなく、日本のスポーツ界のために私利私欲にまみれることなく、全力で戦われたその姿に対し、日本のアスリート達は2020東京五輪で自国開催の誇りを胸に戦ってくれる事と確信します。お疲れ様でした。

4.震災復興と20東京五輪招致は何処に消えたか

東京五輪招致プロゼクトを掲げるに当たっては、震災復興の為の招致として声高らかに御旗を掲げたはずでした。読者の皆様は、まだ鮮明に記憶されている事と思われます。今日の本プロゼクトは、震災復興を唱える関係者も居なくなりました。本Ksファイルに於いて色んな出来事を述べて参りましたが、筆者が事あるごとに述べさせて頂いて来ていますのは、20東京五輪のプロゼクト及び経営、運営、管理方式が1984年のロス五輪方式であったなら、今尚震災、災害で苦しまれている多くの先が見えない人々に対して、オリンピックで得た資金及びチャリテイーイベントでどれ程の被災者達の苦しみ、苦痛に手を差し伸べることができるかはかり知ません

既にKsファイルで述べさせて頂きましたように、国内スポンサーに於いては、1業種2社の特例をIOCから受け最終的には、約3200億円の収入を民間企業から組織委員会は確保する予定です。莫大な公金(血税)を投入した揚げ句に、さらにこの特例を活用しての資金集めをしている事からも、今からでも間に合うので、この民間企業から得た収入を現在、今尚苦しんでいる震災者達に何故還元する声を誰も挙げようとしないのか。

此れこそが政治家達の使命であり評議会、理事会関係者達の義務ではないのでしょうか。筆者にはそのことがとても嘆かわしく感じられ、組織委員会の委員の方達には、人としてすべき共存共栄の精神に立ち返って欲しいと強く願う次第です。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

 お知らせ:

本シリーズは、NO.88の第一弾からNO.94第七弾まで掲載させて頂きました。読者の皆様には、何も知らなかった方が良かった、と呟かれている方も居らっしゃる事でしょう。次回、K’sファイルは、クリーンな招致活動でフェアーな五輪開催に成功した例を「リマインド」として再公開させて頂く予定です。これは、また、広告代理店「電通がスポーツ電通」として世界にパワーを轟かせる「礎」となった五輪ビジネスであります。