K'sファイルNO.41:84ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

K'sファイルNO.4184ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピック・パラリンピック大会が日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 ~今日のオリンピック・ビジネスが体系づけられた実践と成果~PARTⅠ.アマチュアスポーツのビジネス化(プロへの移行)

 1.オリンピック激動の時代と変革(Change):

 ①世界のスポーツ界にカリスマ(BIG3)が出現、

1970年代のスポーツの動向は、当時の世界的な経済の動向に強い影響を受けている事です。70年代は、スポーツに関連する事業形態が、それまでとは異なるスポーツ・ビジネスが産声を上げようとしていたのです。これは、丁度私が米国に渡ってまもなく米国に於いてもスポーツの変革の時期と時を同じくしていたように肌で感じたのです。

70年代に入って、本格的にスタートしたスポーツ・ビジネスは、その後新しい可能性を求めて次世代に引き継がれ今日に至っています。

 五輪のスポーツ・ビジネスの新しい可能性は、1966年にIOC国際オリンピック委員会)委員に就任、70年に理事に昇進、そして80年には、第7代IOC会長に選出された、アントニオ・サマランチ氏(Juan Antonio Samaranch、1920~2010スペイン、バルセロナの生まれ)のリーダーシップにより勧められました。同氏は、その過程に於いて、IOC内外での政治的手腕を最大限発揮し、将来のオリンピック発展構想の推進役を担った人物です。1998年の長野オリンピックは、サマランチ氏と堤義明氏(当時西武・国土計画会長)との間の公私に渡る関係で成立した事は有名です。世界のスポーツ界の変革に貢献したBIG3の1人です。

 スポーツという概念は、元来ヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人の文化社会の流れを受け、アマチュアリズムが19世紀に英国で生まれたと言われています。このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神を「アマチュアリズム」として長年継承して来たのです。

ピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス、1863年~1937年)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者です。同氏が提唱したオリンピック憲章のアマチュア規定は、長い間オリンピック大会及び選手、競技関係者達の自由を縛って来た為に段々とオリンピック大会開催が疲弊し財政的な赤字をともない、各国の主催都市が招致に消極的になり激減し出した事がIOCにとって最大の問題の一つとなっていた時期です。

 ②アマチュアとは、

マチュアのコンセプトは、そもそも「選手は、スポーツによる金品の授受及び生活の糧として受けてはならない事、指導者、関係者は、スポーツによる一切のビジネスは認められない事、また、それによる金銭の授受及び生活の糧を受けてはならない事」がアマチュアとしての大前提であったのです。

 日本に於いては、このような世界の動向から約10年後の1986年5月に日本体育協会 (体協) が,従来の「日本体育協会マチュア規程」を廃止し,代わりに新しく制定した,加盟競技団体の登録競技者の資格規程を改めたのです。

 ③アマチュアとの決別、

そこでA・サマランチ氏は、自身がIOCの委員時代から本オリンピック憲章のアマチュア規定の問題を検討課題とし、1970年にIOC理事に昇格、憲章からアマチュア規定の削除を提案し、それ以降強力に推進した一人であったと言われる人物です。その後1974年にオリンピック憲章の五輪参加資格から「アマチュア」という文字を削除する事になったのです。

丁度この時期のIOC内部のポリテイカルな様相は、IOC国際オリンピック委員会)会長にA・サマランチ氏(スペイン)を筆頭にIGB(国際競技連盟)のメジャー競技スポーツとされるFIFA国際サッカー連盟)の会長にジョアン・アベランジェ氏(ブラジル)、IAAF(国際陸上競技連盟)の会長にプリオ・ネビオロ氏(イタリア)と白人主導からラテン系主導へと歴史が移動した事もサマランチ氏にとっては、追い風となり改革がスムーズに遂行出来たのは確かなようです。当時、国際マスメデイアは、こぞって彼らを「ラテン系マフィア」と呼んだのも納得がいく、その後の彼らの積極的且つ手荒い言動、行動であったのも事実です。

これは、オリンピックをビジネス、商品(Merchandising)として、競技選手(Athlete)を商品であり、プロとして出場を公認した出来事へと発展させたオリンピックの革命的な変革の時期であったのです。

 2.スポーツ・ビジネスの夜明け:

 ①オリンピックにスポーツ・ビジネスアドミニストレーターが出現、

このようなオリンピックの歴史を背景に、1980年にロサンゼルス・オリンピック大会組織委員会(略:LAOOC)の委員長に任命されたP・ユベロス氏は、IOC会長のサマランチ氏の掲げたオリンピックのビジネス化を自らの手で実践され、確立されたカリスマ的人物と申し上げても過言でありません。今日のスポーツ・ビジネスの源は、この時代にこのような人達によって体系付けられたのです。1980年よりP・ユベロス氏がロス五輪で実践したスポーツ・ビジネスは、オリンピックだけでなく世界のスポーツ界のビジネスコンセプトを根底から変革するに十分な実績を残したのです。世界のスポーツ界のBIG3のもう1人です。

 84年ロス大会はオリンピックの商業化元年、

1984年ロサンゼルス・オリンピック大会は、オリンピックの商業化(ビジネス)元年と称される所以なのです。それまでのオリンピックは、常に開催国の赤字負担によるもので、段々と五輪大会が開催国、主催都市の重荷になり、IOCでは、大規模な縮小が声高に叫ばれるようになっていた時代です。しかし、サマランチ会長のリーダーシップにともない、それまで定説となっていました「アマチュアと呼ばれていたコンセプト」を五輪憲章から削除した事によりスポーツ界のあらゆる面に於いて一大変革を起こしたのです。

 これにともない1980年にロサンゼルス・オリンピック組織委員会LAOOC)の委員長に就任したP・ユベロス氏は、サマランチ会長のIOC改革の急先鋒としてスポーツ・ビジネスを実践し偉大なる成果と結果を残したのです。

 4.P・ユベロス氏はオリンピックの救世主:

 ピーター・ヴィクター・ユベロス(Peter Victor Ueberroth)は、1937年9月2日生まれ、米国実業家、1984年ロサンゼルス・オリンピッ大会組織委員長、赤字続きのオリンピックを黒字に転換した人物、その後第6代MLBメジャーリーグコミッショナー、等々を歴任。

 ①略歴:

オリンピック創設者のPクーベルタン氏が死去した1937年9月2日に米国イリノイ州で生まれる。ピーターは、長じてフランス人貴族のピエールが産み、育てたオリンピックの救世主となる。この奇妙な因縁を人は語り継いでいる。

 IOCは、78年5月、アテネで開く総会で84年開催都市を決める予定でいたのです。しかし、立候補は、ロサンゼルス市のみ、しかも、申請書によればロサンゼルス市は、財政を保証せず、一切の責任を負わない。民間の任意団体、南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)が民間資本を導入、運営する予定になっていた。IOCは、困惑した。長い歴史で考えてもみなかった事態が起きたのです。その理由は、76モントリオール大会の巨額赤字、加えて冬季大会開催予定の米国デンバー市の大会返上でした。

*カリフォルニアで育ち、高校時代はフットボール、野球、水泳で活躍。大学は、サンノゼ州立大に進み、水球で活躍、1956メルボルン・オリンピックの代表候補、代表にはなれなかった。卒業後、トランス・インターナショナル航空に就職、63年に自ら旅行会社設立、その後北米NO.2の旅行会社に成長させた。1980年、その手腕を評価されロサンゼルス・オリンピック大会組織委員長に就任した。(以上~PV・ユベロス氏バイオグラフィーより~)

 ロスオリンピック大会組織委員会、委員長選考基準項目:

1.40歳から55歳 

2.南カリフォルニア在住

3.企業経験を有す

4.スポーツ好き

5.経済的に独立

6.国際情勢に通じる

上記条件で全米600人もの候補者から絞り込まれたP・ユベロス氏でした。ユベロス氏は、当時42歳。ロス郊外に住み、従業員1人から始めた旅行代理店を北米2位に育てた実業家。

 *同氏の信条は、伝統を破壊せず。革新的であっても伝統を破壊してはならない。無駄を省き経費をかけないが、親しみやすさのなかにも威厳も必要だ。産経新聞特別記者 佐野慎輔氏取材資料より)

 以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より~」

上記P・ユベロス氏と2020年東京大会組織委員会・会長のプロフィール(既に皆様はご存知の通り)と比較して下されば、その違いがよく理解できるのではないでしょうか。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

お知らせNO.41を是非ご記憶して頂き、次週NO.42に入って戴ければ「なるほど」と理解、確信して下さると思います。次回NO.42PARTⅡは、1984年ロサンゼルス大会が公金を一切使用せず、440億円の黒字にしたビジネスコンセプト、その手法をご紹介致します。少し難しくなるかも知れませんので出来うる限り咀嚼させて頂ければと考えています。此れこそが知的戦略、戦術。アッと驚かれますよ。