K’sファイルNO.44:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅡ.)
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注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・
1.電通ロス支局は最強の最前線基地、
①ロス支局の人材と対応実践力、
電通のP・ユベロス氏への接近計画は、当時本プロゼクトが企画・遂行される前から現地ロサンゼルスの電通支局がその最前線基地となる事から、当時の支局幹部、他現地スタッフの方々は、戦場さながらであったに違いありません。その最大の任務は、本プロゼクトに関するあらゆる情報の収集、および整理作成、そして分析が水面下で遂行されていたと思われます。さらに分析された情報は、レポートされ築地電通本社の企画本部に打電。そこから指示待ち、再度情報収集と分析、レポートと繰り返し続く作業は、24時間(時差もあり)それはまさに戦場そのものであったと思われます。
電通支局には、東京本社のあらゆるグループ、部署のプロデユーサーレベルから、管理職の方々からの情報取り、そしてその返信にも対応しなければならず、どの部署の誰にどのような情報を入れるかの選別も大変神経を尖らせた事と察します。しかし、このような有能なロス電通のスタッフの方々の能動的な血のにじむような業務と努力が在って、本プロゼクトが完成された事は言うまでもありません。
まさにこの支局の有能な方々は、服部氏、ジミー氏の掛け替えのない戦場での戦友そのものであったのです。本ロス支局も現地での本プロゼクト遂行に関しては、服部氏、ジミー・福崎氏のアドバイスを真摯に受け止め、支援する事が組織のコンセンサスと成っていたので、何の疑いもなかった筈です。
同支局のスタッフ達は、築地電通本社の社員として鍛えられていたので、ロス支局に於いても日本流の夜討ち朝駆けで情報収集、アレンジメント、コンタクト作業がなされたのです。これらの実践行動は、アメリカ人には信じられない行動力と緻密な作業プロゼクト戦略に沿った形で、遂行されたのです。支局員達は、能動的という表現を遥かに超えた、アグレッシブで攻撃的な性格の方々であったと強く印象に残っています。
②P・ユベロス氏と服部、ジミー氏の会談後、
フレッド・和田氏の仲介の後、いよいよ電通プロゼクトテイームは、服部氏、ジミー氏、そしてサポーテイブなロス電通支局員と力を合わせ、現地最前線の作業部隊として戦闘を開始したのです。また、P・ユベロス氏も、その後LAOOCの立ち上げ後、組織の強化構築と非常に多忙を極めながらも、電通の作業部会との時間取り、エネルギーを費やす重要な時間帯を共有したと思われます。
LAOOCは、全ての権限が委員長のP・ユベロス氏に集約されていて、組織の各セクションのマネージメント体制の統括管理責任者であり、全ての指揮管理系統の頂点となっているのでまさに同氏は84ロス五輪のスーパースポーツ・アドミニストレーターでした。
しかし、日本人ビジネスマンと異なる点は、常にユベロス氏は、ビジネスとリラクゼーションとのバランスを取るのが大変上手く、多忙の中に置いても必ず趣味のゴルフには出かけていました。このアメリカ人のビジネススタイルと日本人の気質の違いは、日本人ビジネスマンをいら立たせ築地電通本社からの信じられない程のプレッシャーがロス電通支局に押し寄せていたに違いありません。
先ずは、ユベロス氏のスケジュールから如何にして電通タイムを確保できるかは、至難を極めた事と思われます。日本人スタイルのビジネスマンの夜討ち朝駆けは、アメリカ人には通用しません。それでは、如何にしてビジネスアワーにビジネスタイムを確保できるかが、米国に於いてはビジネスの成否の分かれ目となるのです。
そこで電通ロス支局は、ユベロス氏の一日のスケジュールの情報を克明にリサーチ、如何にしてその隙間を確保できるかに日々神経を尖らせたことでしょう。ユベロス氏は、必ず息抜き(ファミリータイム、ソーシャルタイム、フレンドシップタイム、リラクゼーションタイム)の為に時間を確保しています。そこで彼のゴルフタイムに狙いを定めたのでした。
③ビジネス・ミーテイング会場と化したCC、
ユベロス氏は、ロサンゼルス近辺の超名門ゴルフクラブのメンバーとして、特にその中でも名門コースのロサンゼルス・カントリークラブ(Los Angeles Country Club)、ベル・エア~カントリークラブ(Bel・Air Country Club)は、お気に入りであったことも確認。とりわけロサンゼルスCCは、メンバー以外の出入りが非常に厳しく(元大統領のレーガン氏もメンバーと聞き及んでいました)制限されるクラブで在り、そのため、ユベロス氏が一番よく使用するベル・エアーCCに狙いを定めたのでした。ベル・エアーCCは、市内の超高級住宅街のビバリーヒルズ、ベル・エアーと代表的な超高級住宅地域の一画にあります。場所は、WEST WOODウエストウッドのUCLAキャンパスの裏山がこのベル・エアー地域なのです。
丁度、此処には、親友の家族がその山頂付近に豪邸を構えていたため、私には付近の様子が手に取るようにわかりました。この地域は大変詳しかったのです。ベル・エア―CCについても、プレシテイージの高いゴルフクラブでありますが、幸い、私は、本CCで何度も親友の米国人とプレーしていましたので、こちらも精通していたと言えると思います。
余談になりますが、本クラブのコースは、超有名なホールが在り、それはインの10番ホール、P3、200ヤード、鋭い深い谷越えが名物ホールです。いつも私もプレッシャーを受けてプレーしていました。私の親友は、このホールをいつもスキップしてプレーしないで次の11番に向かって行っていました。その理由を会食時に訊ねると「waste of ballボールが無駄」と頭からあきらめの境地でした。また、このベル・エアーCCの特徴は、勿論カート使用もできますが、一人のプレーヤーに若い男性キャデイーを付けてくれ、バックを担いでくれ、コースのガイドもやって下さるので大変記憶に残るゴルフクラブで在ります。殆どの米国の各州の名門クラブは、リクエストすれば男性の個人キャデイーが付いてくれます。また、名門クラブのメンバーは、他州の名門コースのTタイムも予約できます。双方のメンバーにはメリットがあり、大変行き届いています。
④P・ユベロス氏をベル・エア~CCで待ち伏せ、
ジミー・福崎氏は、日系米国人で電通側に立ち、米国流のビジネスコンセプトと服部氏(電通)の日本流なビジネスコンセプトを十分に心得たうえで戦略を組み立てられていたのには敬意を表します。
彼はユベロス氏に近付き、権利獲得へと電通を導き、そして今日に至るまで世界にスポーツ・ビジネス「電通」の名をとどろかせた、電通に取ってはかけがえのない人物でした。服部氏が他の日本人ビジネスマンと異なる所は、信頼するジミー氏にキーを預けて相手とのネゴシエーションを任せる所です。
米国人と交渉事を行うに当たり、多くの日本人の最大の問題は、ジミー氏のような立場の人を雇っているにも関わらず、日本人独特のやり方を通すことで、折角のビジネスチャンスを潰してしまう、即ち幕開けから幕閉じまで自分でやらねば気が済まない性格から針で穴を突くような事をやらかす欠点があるのです。その点、服部氏は、度量の大きな人物でした。
此の事は、全く業界においても社会においても伏せられてきた特命事項で電通内部に於いても本プロゼクトの部門及び関係部署の人間以外は知るよしもなく、服部庸一氏の名前は知っていてもジミー・福崎氏の名は何故か外部に対しては誰もが語ろうとはしませんでした。これは、日本の伝統的な社会、組織の習慣の一つなのかも知れません。日本人には、良い意味での不思議な美徳、美学がある事を初めて認識した次第です。しかし、私は、このような伝統はフェアーな評価ではないと考えます。
服部氏とジミー氏は、ベル・エアーCCでP・ユベロス氏のゴルフプレー終了を待ちかまえ、クラブハウス内に潜り込んでのミーテイングを繰り返し行ったものと想像できます。勿論、ユベロス氏のLAOOCの委員長オフィスのミーテイングルームに於いても、またある時は、ダウンタウンのホテル会議室に於いて話が積み重ねて行われていたのです。
2.契約内容の詰めから実務作業へ、
①本社での実務作業開始
その結果、契約書に盛り込む骨子が固まって行ったのです。それは、「K'sファイルNO.42:84ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.」をご参照して頂ければ理解して戴けると思われます。
此れにより契約内容の骨子は、事務的な修正、訂正、加筆等と事務的作業がメインとなり作業部門、法文部門に引き継がれて行きます。そして、服部・ジミー部隊は、その後大きな調整事項に付いてのみP・ユベロス氏との直接交渉となり、それ以後の業務は、LAOOCから得た全ての知的財産権利を今度は築地電通本社内の各専門部門、部署の営業、企画、デザイン、等に於いて現実的な商品化作業を行い、各カテゴリーのスポンサー企業に対するセールスを遂行する重要な工程に入って行ったのです。
LAOOCから得た権利を最大限有効に活用する為には、一業種一社に絞り込む為に各複数の業種を確定するに当たっての企業間との駆け引き交渉作業が開始されたのです。
その結果、84ロサンゼルス・オリンピック大会での一番最初に決まった一業種一社の会社・企業は、事務機器メーカーでブラザー電子タイプライターだったのです。それは、ブラザー工業が世界に市場を求めているタイミングでもあった事です。
筆者も本タイプライターを長年愛用したので当時のタイプライターでは、大変斬新で使いやすかったのを記憶しております。
②ジミー・福崎氏の存在と新たなWCサッカービジネスの開拓、
私は、ジミー・福崎氏が黒衣の人間として立ち回った事をよく存じて居たので此処にご紹介させて頂きました。また、このご両人は、ロス大会プロゼクトと並行して進めていました電通のワールドカップサッカー(略:WCS)の権利獲得も最終的にまとめ上げ、発展させたのでありました。これも本ロス五輪の権利獲得の成功が大きな原動力となり次なる大きなプロゼクトへと踏み出して行くのです。本WCサッカー獲得戦略に付きましては、近日公開予定。
電通内部では、当時服部庸一氏の部門、部署ではなく、関係部署で業務をされていた方々が、今日では私が電通で「オリンピックビジネス」を「サッカービジネス」を「世界陸上ビジネス」をやったと公言されるケースが多々あるようですが、その方々は、当時関係はされていてもキーマンではありませんでした。
キーマンは、時間と共に歴史が語る事になるのです。
文責:河田弘道
スポーツ・アドミニストレーター
スポーツ特使(Emissary of the Sport)
お知らせ:次回K’sファイル45は、本ロス五輪プロゼクトのまとめを掲載させて頂きます。このまとめは、あくまで筆者の私見です。読者の皆さんと価値観が異なるかも知れませんが悪しからず。