K'sファイルNO.50:82W杯サッカースペイン大会は、ビジネスの戦場 無断転載禁止

K'sファイルNO.5082W杯サッカースペイン大会は、ビジネスの戦場

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     注:K’sファイルのサッカーシリーズは、20186月開催予定の18W杯サッカーロ シア大会を記念して

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PARTⅡ:ホルスト(H)・ダスラー氏の権力拡大と強引な手法~

1.新たなパートナーの選択はステップアップの為:

①人材確保と配置付け、

1974年のFIFA W杯サッカー西ドイツ大会は、西ドイツが二度目の優勝を遂げました。そしてその代表テイームのアパレル、グッズは、全て勿論ホルスト・ダスラー氏のアデイダス製で、アデイダスの知名度のみならず最高経営者の名声も世界に轟くようになったのです。

また、この74年には、それまでサポートしてきた友人のアベランジェ氏(ブラジル)が、FIFA国際サッカー連盟』の第7代会長に就任したのを機に、H・ダスラー氏のパワーゲームは一層激しさを増し、露骨化し出します。

彼の行動は、自社の利益追求のみならず権力志向への野心そのものであったように思えてなりませんでした。丁度この時期は、IOCのアントニオ・サマランチ氏(当時理事)が声高にオリンピック憲章の「アマチュア」文言の削除が現実化し、オリンピックのビジネス化、選手のプロ化容認するタイミングであったのです。

既にH・ダスラー氏は、1972年に配下であったブラッター氏(後にFIFA会長)をFIFAへ潜り込ませていました。1975年にブラッター氏がFIFAの要職につくと、日々の情報は、オンタイムでH・ダスラー氏の手元に集約されたことは容易に推測できます。既に彼は、この時期から将来のFIFAでの絶大なる権力を構築する為に人的布石を打ち始めていたのです。

1977年にアベランジェ会長が世界ユースの公約を達成すると、かねてから約束していた新しいスポンサーをウエスト・ナリー社と共に、米国のコカ・コーラ社を迎え入れたのです。

H・ダスラー氏とウエスト・ナリー社は、翌1978年のW杯サッカーアルゼンチン大会で「広告看板」の販売を始めますが、コカコーラの例が先鞭となり、世界的企業がスポンサーに連なるようになりました。

同氏は、1970年代初期からタイミングを見計らないながら、英国のスポーツマーケテイング会社の経営者であったパトリック・ナリー氏に急速に接近して行くのでした。そして、1978年のW杯サッカーアルゼンチン大会前から仕事を共にする仲になるのでした。

ナリー氏は、英国に本拠を置くウェスト・ナリー社の経営者であり既にスポーツマーケテイング・ビジネスを展開していたのです。ウエスト・ナリー社は、当時英国BBCの解説者であったピーター・ウエスト氏がナリー氏のパートナーとして経営者の一員となっていたので、社名もウエスト・ナリーの名称で知られていました。

 H・ダスラー氏は、その後英国のナリ―氏と共同で、スポーツマーケテイングの権利を管理するSMPI社をモナコに設立します。SMPI社は、株式の51%をH・ダスラー氏が保有し、パトリック・ナリー氏が49%を保有するパートナーシップ社でありました。

これは、H・ダスラー氏に取っては、ウエスト・ナリー社の最高経営者ナリー氏とパートナーシップを組み、SMPI社の最高経営権(CEO)を手にした事により、事実上、ウエスト・ナリー社を翼下に持つホールデイング(HD)会社を作り上げたことを意味します。此れに伴い、その後のエスト・ナリー社は、SMPI社の権利を販売する販売代理店(Sales Agency)が主たる業務内容となったのです。

SMPI社の保有商品:

このSMPI社が設立当初保有していたマーケテイング・ビジネス権利は、FIFAUEFAの他、4大会のマーケテイング権でした。

1.FIFA W杯サッカー

2.ヨーロッパ選手権EURO

3.ヨーロッパ・クラブ選手権(現在のチャンピオンズ・リーグ)

4.カップ・ウイナーズ・カップ(廃止、現在はUEFA CUPに統合)

この4大会の諸権利は、「INTERSOCCER4」と呼ばれ、ウエスト・ナリー社(上記商品の独占販売代理店=Exclusive Sales Agency)がパッケージとして全世界にセールス。世界のサッカービジネスの目玉となる大会を全部集めた、価値ある商品内容であったのです。

③ウエスト・ナリーJAPAN社の設立(1978年):

エスト・ナリー社は、INTERSOCCER4を主力商品としたスポーツビジネス・マーケテイング及びその販売を目的にウエスト・ナリーJAPAN社を設立、対日本企業への販売拠点を目的として立ち上げたのです。そして、同社の代表として米国日系3世のジャック・坂崎氏が就任したのです。

J・坂崎氏は、米国の大学を卒業後、1974年日本法人のIMG社(International Management Group=米国に本社を持つ当時は、非常にユニークなトップアスリートのマネージメントをビジネスの主体とした代理店)に就職し、テニス選手のマーケテイングを担当していました。その後テレプラニング社に移り、1978年にはウエスト・ナリーJAPAN社を設立し、代表としてINTERSOCCER4のセールスに携わるようになりました。1987年のJ・坂崎マーケテイング会社設立以降もサッカー界、テニス界、そして世界陸上のマーケテイングに於いて多大なる功績を残されました。

余談として、

筆者は、J・坂崎氏に最初にお目にかかったのは私の記憶が正しければ、197778年頃、丁度米国の大学の専任職であり、西武国土計画の堤義明社長の野球担当秘書を兼務していた時代の事でした、当時は日米間を年間24、5回往復していた時代で、同氏は、野球ビジネスに関しての用件で品川プリンスホテル、高輪プリンスホテルに訪ねて来られたのが昨日の事の様に思い出されます。

小職が米国大学の代表として、NCAA(全米大学競技スポーツ協会)のフットボール公式戦(BYUネバダ大学ラスベガス校)を初めて日本(国立競技場)に紹介した時にホテルに訪ねて来られました。その後は、小生がNEC SPORTSのスポーツ・アドミニストレーター時代に、J・坂崎氏がテニスの冠スポンサー販売で確か本社宣伝部を訪問された際にお会いし、最後にお目にかかったのは、1991年の世界陸上東京大会の日本テレビ主催のご苦労さんパーテイーで、今ではとても懐かしい思い出です。

J・坂崎氏に初めてお会いした時の印象は、日系米国人として米国とは異なるビジネス環境に大変戸惑われている様子でした。しかし、彼は、米国人若者特有のバイタリテイーに溢れた、何事にも全く物おじしない積極的な行動力と日本人にはない話術という特別な能力を兼ね備えており、スポーツビジネス、マーケテイング、セールスの分野で如何なく能力を発揮され、この日本の表舞台のビジネス社会で成功されたのです。彼の功績には、心より敬意を表する次第です。

彼の言葉の端々からは、日系人として日本で日本人相手にそれは人には言えない苦い思いと味わいをされたのだろうと肌で感じる事が多々ありました。しかし、彼が本当に粘り強く耐え忍んで今日を築かれたことに対して敬意を表すると共に、彼の素晴らしい人間力をご紹介させて頂きます。

同氏は、現在確か日本を引き上げてカリフォルニアに戻られたと伺っています。

 

2.ウエスト・ナリーJAPAN社の功績と電通との因果~

①インターサッカー4のパッケージ販売:

本パッケージセールは、当時既に世界最大の広告代理店となっていた電通ではなく、博報堂が確立し、博報堂によって日本を代表する大手企業に販売されていたことは、ごく限られた業界関係者の間でしか知られていませんでした。

 何故電通でなかったのか?

4大会の広告パッケージ販売は、J・坂崎氏により最初は最大手の電通にセールスがかけられたもようです。しかし、電通は、内容を吟味するどころか傲慢な態度で鼻にも引っ掛けなかったようです。此の事が後に明らかになったのは、その後電通W杯サッカー界のマーケテイングの権利獲得に苦難を強いられた時に初めて内部の心ある関係者から、当時の担当者がチャンスを追い払ったことがその後最大の苦境に立たされた要因であったことが分かったようです。

 電通との交渉がうまく行かなかったJ・坂崎氏は、関係者が居たルートを通じて電通のライバル企業の博報堂に共同セールスを持ちかけたのです。

②ウエスト・ナリーJAPANを救った博報堂

博報堂は、電通とは異なりJ・坂崎氏の巧みなセールス・プレゼンテイションを真摯に受け止め、準備されていたセールスシート及び、細部に渡る資料を丁重に吟味し、結論に至ったのです。

その結果として、博報堂は、1業種1社の販売権を確認してセイコーキヤノン、日本ビクターJVの3社とFIFA W杯スペイン大会の公式スポンサー契約を結ぶ事になったのです。その後、この事実を評価した他社、確か富士フィルムFUJIFILM)が4番目のスポンサーに加わったのでした。これにより、ワールドワイド公式スポンサー10社のうちの4割を、日本を代表する企業4社が占めたことでFIFA W杯サッカーのイベント並びに商品価値はとてつもなく跳ね上がる事になったわけです。

この時期の日本は、まだ大型バブルが始まる前で、サッカー人気の薄かった時代でした。日本では、J・坂崎氏の手腕と情熱に敬服すると同時に、W杯サッカーがグローバルなイベントであることを即座に評価し、公式スポンサーとなった日本企業の見識に世界は皆驚いたのです。これは、J・坂崎氏のセールス力、プレゼンテーション力、スピーチ力、プロモーション力の賜物でした

このようにして、82W杯サッカースペイン大会は、ホルスト・ダスラー氏をビジネスマーケテイングのリーダーとして、SMPI社、ウエスト・ナリー社、ウエスト・ナリーJAPAN社のサポートにより、大会スポンサーからは、約100億円余りの収入を得たとされています。

この成果と結果は、H・ダスラー氏をサッカー界における一層の野望に拍車をかけ彼を次なる権力の高みに駆立てて行くのです。

怪物電通は、一人の社員の対応ミスからW杯サッカースペイン大会の利権を逃してしまったのでした。読者の皆さんの身近にも、よく似たケースが起きているかも知れません。今日の世界のスポーツ電通は、自社の理念と経営、事業コンセプトに伴った下準備を整えた上で、電通の切り札的コマンド部隊を戦場に投入する決断をし、この逆風(Against Wind)に挑むのです。

さあ、電通は、どのような勝負に挑むのか!

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイルNO.51では、H・ダスラー氏、パトリック・ナリー氏、ウエスト・ナリー社、ウエスト・ナリーJapan社、博報堂にやられた、電通は、どのような報復に打って出たかのテーマを予定しています。ご期待下さい。