K'sファイルNO.51:82W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった 無断転載禁止

K'sファイルNO.5182W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった

               無断転載禁止

注:K’sファイルのサッカーシリーズは、2018年6月開催予定の18W杯サッカー ロシア大会を記念して掲載させて頂いております。

PARTⅢ スペイン大会開催中の電通の利権強奪作戦

1.電通のサッカービジネス担当者の経験値、

①サッカービジネスとの遭遇

イベントとの関係に於いて、広告代理店電通は、主に文化・芸能・万博関係が主体であったため、スポーツ界に於ける、人間関係はそれほどなかった。

1979年秋、国立競技場で開催されたニューヨーク・コスモス対日本代表による「ゼロックス・スーパー・サッカー」は、電通によりプロデユースされた最初の競技スポーツのイベントであったと思われます。

これは、1978FIFA W杯サッカーアルゼンチン大会の翌年秋のことでした。当時米国でプロサッカーテイームとして設立されていた、N.Y.コスモスは、映画会社のワーナー・ブラザーズ(略:WB’s)が筆頭株主であった事からもアジアへのプロモーション活動を兼ねたエキジビションマッチ企画と考えられていたのです。この情報を得た電通ニューヨーク支局は、築地電通本社にこの情報を打電したのです。よって、此の情報は、当時米国の映画、音楽関係者からN.Y.コスモスのメジャースポンサーであるWB’sが日本でのエキジビションマッチを行うに当たって受け皿及びスポンサーを探しているとの情報をN.Y.電通支局がキャッチしたと言われていたのも無理からぬことでした。

電通内では、イベントプロデユースに於いて、大きな実績のあった服部庸一氏(大阪万博、沖縄海洋博、音楽イベント、等)に情報をインプット、服部氏の独特の勘で「これはいける」と判断したようです。その大きな理由の一つは、78年W杯アルゼンチン大会の企業広告に関する情報と動向から、将来のスポーツイベントの重要性を鑑み、もう一つの理由は、本コスモスのテイームがドリームテイームと言われ、選手にドイツのベッケンバウアー選手、ブラジルのペレ選手とサッカーを知らない当時の日本人にでも名前は聞いたことがある有名選手が入っていた事でした。

多分、プロデユーサーの服部氏は、当時あまりスポーツ、サッカーに興味が有り詳しいとは思えなかったと思います。

②初のサッカーイベントへの対応力

電通は、服部庸一氏(プロデユーサー)の臭覚により東京開催を決断した時点で本サッカーイベント開催に向けたプロジェクトテイームを本社に設け担当スタッフを招集したのでした。その招集されたメンバーの中にその後サッカー、等に関わるプロデユーサー達が実践経験を通してノウハウを構築していったのです。

電通に取って、サッカービジネスと最初の関わりを持ったのがこのイベントでした。当日、国立競技場は、満席となり成功裏に終えたのです。

その名もスポンサー名を冠にした「ゼロックス・スーパー・サッカー」で、1990年迄継続したのでした。

この成功と結果から、電通に於ける服部氏のスポーツイベントへの強い関心と、興味が彼の次なる高いハードルへと駆り立て、電通本社も同氏に信頼を寄せ、次なる世界最大のスポーツイベントのオリンピック大会の利権獲得へと向かうのでした。しかし、彼らは、スポーツの世界の裏舞台に暗闇する人間達が居る事にまだこの時点では半信半疑であったと考えられるのです。

電通のオリンピックビジネスと未知との遭遇

丁度当時の電通は、既にオリンピックに対しても本格的に参戦しようとする時期でした。その手始めの1980モスクワ五輪は、当時のソ連軍のアフガン侵攻作戦により自由主義国がボイコットしたにも関わらず、競技は開催されました。そして、ビジネス権利は、博報堂が獲得し放映権をテレビ朝日が獲得していたのです。

その後、本格的に参戦した、88年名古屋五輪招致活動に於いては、81年のIOC総会でソウル開催が決定しオリンピック招致活動のポリテイカルゲームの現実に煮え湯を飲まされたことになったのです。

何故、電通をもってして名古屋に持って来る事が出来なかったのか。

この時初めて、電通は、暗黒の世界を取り仕切る黒い人影の存在を認めざるを得なかったのでした。それは、この世界最大のスポーツプロモーション活動に表では計り知れない裏の力を肌で感じたからでした。そして、その影の人物は、とてつもなくダークなイメージを持ち、世界中に張り巡らされたネットワークとポリテイカルパワー及び、ネゴシエーション力をも兼ね備えている当時のスポーツ界のドンであったのでした。

その名は、ホルスト・ダスラー氏(既にK’sファイルNO.4950PARTⅠ、PARTⅡ、でご紹介済みをご参照下さい)であったのです。

これは、時を同じくして1982W杯サッカースペイン大会で電通がビジネスマーケテイング権を獲得できなかった理由の最大の要因と、まさに共通したキーパーソンでもあったのです。

88ソウル五輪大会招致活動に於いて、ホルスト・ダスラー氏はIOCAサマランチ会長、FIFAアベランジェ会長、IAAFのネビオロ会長、等メジャー組織・団体の会長と通じたIOC理事達に対して、IOC総会が開催されるホテルでロビイストとして自ら直接、間接的に、短期間でロビー活動を通してソウルへの投票をまとめたとされる有名な話が今日まで語り継がれている人物です。

 (注意:ロビー活動とは、その昔米国の議員が賛成票を取りまとめる為に、ホテルのロビーを活用して会談を繰り返した事に由来する。ロビイストとは、その行った本人の総称です)

これにより、電通は、82W杯スペイン大会、88年名古屋五輪招致活動と屈辱の敗北を経験し、その起因となった人物がホルスト・ダスラー氏その人だったのです。

この苦汁を舐めた電通は、電通本社が最高の信頼を寄せるプロデユーサーの服部庸一氏を84年ロス五輪のビジネス権獲得に向かわせる事になったのです。

本ロス五輪と電通服部氏のストーリーは、既にK’sファイルNO.4146に掲載済みですのでご参照ください

2020年五輪東京大会を含む今日の世界の大型スポーツイベントの招致活動は、このような歴史を経てIOCの理事達、各主要国際競技団体(FIFAIAAF、等)の会長等の権益構造が新たに構築されているのです。これにより莫大な行き先不明の諸経費(公金)は、大きく国民の負担となっている事を我々日本国民も既に気付いて戴けたのでないでしょうか。此処まで国民の犠牲を払ってまでも、どうして政治家達は、オリンピック、W杯の招致活動に夢中になるのでしょうか。読者の皆さんの「ため息」が聞こえてきています。

電通特殊部隊の戦闘準備

FIFA W杯サッカーのスポンサーセールスを全てホルスト・ダスラー氏SMPI社、ウエスト・ナリ―社、ウエスト・ナリーJAPAN社、博報堂に持って行かれた電通は、満を持して次の一手に出たのです。

電通は、ホルスト・ダスラー氏率いるマーケテイングビジネス集団が82W杯サッカースペイン大会の権利を獲得していた時、84年ロサンゼルス五輪における独占販売権を電通が手中に収めた時であったのです。既にKsファイルで解説しましたように、ロス五輪大会組織委員長のピーター・ユベロス氏は、電通の本プロジェクトの代表責任者であった服部庸一氏、その通訳、コーデイネーター、ネゴシエイターであったジミー・福崎氏とは、ビジネス以上な信頼関係が構築されていた時期でもあったのです。

電通本社は、FIFA及び82W杯サッカースペイン大会で敗北し、既存のサッカープロジェクトテイームではサッカー界の利権の扉は開かない事を十二分に味わったのでした。

そこで社運を賭け大ナタを振るわなければとの思いから、既に84年ロス五輪大会プロジェクトでの成果と結果を確認していたので本件の新たなるサッカープロジェクトの交渉人に服部庸一氏を指名したのです。一大プロジェクトを既に取りまとめているプロデユーサーの服部庸一氏に直接の指示を出したのは、最後のカードを切ったと申し上げても過言でありませんでした。

服部氏は、社内のサッカープロジェクトテイームが動いている作業、業務に自ら手を出すようなことをしなかったのは、まさにプロのプロデユーサーのモラルと配慮からでもあります。しかし、本社からの密命を受け指名、指示に対して、服部氏は、会社の苦境を十分に理解しこの苦境を乗り切る為に逃げるわけにいかず、男服部庸一氏は、会社の意向を受けざるを得なかったのだと思います。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイルNO.52は、電通の最高の交渉人(ネゴシエイター)としての密命を受けた服部庸一氏(腹心のJ・福崎氏)が、綿密な諜報活動とそれまでの電通内部で得た情報を精査し、決断と実行の最終シリーズに挑みます。

ご期待ください。