KファイルNO.162: 広告電通をスポーツ電通に変革したサムライ達

KファイルNO.162: 広告電通をスポーツ電通に変革したサムライ達

無断転載禁止              毎週第二、第四木曜日掲載予定

2020東京五輪開幕

開催・中止と何れも根拠無きなだれ込み開催

2020東京五輪パラリンピック組織委員会(略:TOCOPG)は、開催都市の東京都と国際オリンピック委員会(略:IOC)、日本オリンピック委員会(略:JOC)の委託を受けた公益財団法人として2015年1月に設立発足されました公益財団法人TOCOPGは、同競技大会の準備及び運営に関する事業・業務を取り行うことをその目的としています。

JOCは、元来国際オリンピック委員会(略:IOC)の下部組織・団体であり、日本国内に於けるオリンピックに関する事業と業務をIOCから委託された団体です。またIOCは、開催都市東京都が契約の責務を履行できない場合の補償(主に財政面)として日本政府にその責任の所在を担保させるため契約書に署名させている次第です。

TOCOPGは、設立と同時に広告代理店電通と国内に於ける企業スポンサーを集める事を主たる目的で随意契約を交わしている事です。その内容については、公益財団法人であるにも関わらず情報公開が十分になされていない事です。これにより招致決定から今日迄8年間に起きている数々の事業運営、管理問題、スキャンダルは、この隠蔽された組織委員会電通間に於いて執り行われてる下請け事業に関する不透明な契約に起因しているのではないかと言わざるを得ないようです。

そこで森喜朗前会長(橋本聖子現会長)、武藤敏郎事務総長兼副会長(元大蔵省官僚)、山下泰裕副会長兼JOC会長、日本政府の前安倍首相(現菅首相)、五輪担当相、内閣五輪担当役人達は、起きる全ての問題に対する根拠ある説明が出来ないのはこの隠蔽された電通との契約にあるかにお見受けします。勿論、東京都は蚊帳の外なのかも知れません。

IOCは、広告代理店電通をオフィシャルビジネスパートナーとして契約を直接結びIOCのスポンサー契約に関するエイゼントであります。

TOCOPG、JOC、前招致委員会は、2013年の東京五輪招致決定以前から今日迄、数えきれない程の未解決のスキャンダル、問題を抱えたまま今日に至っています。その理由は、電通との共同運営・作業が裏舞台で行われている様子が伺えます。この事からも日本のTV・マスメデイアは、広告電通への忖度が強く働くので、TOCOPGに対して情報公開を求められず、海外マスメデイアの影響力に委ねるしか手段、方法が無いのがその証なのかも知れません。

読者の皆様は、ご承知の通り開会式の前日まで次から次と隠されていた問題がスキャンダルとして内外に告知し続けているのが東京五輪組織委員会の特徴でないかと思われます。これらの問題を引き起こす最大の要因は、本大会招致に関する「大義」の欠落に伴う「理念」が伴わない事に起因する組織の構造的な問題であると筆者は確信致しております

その証としては、今日迄重要な問題、スキャンダルが起きても誰もがその責任の所在を明確にしない隠蔽体質がその根拠といえるでしょう。これらの問題の根拠には、組織委員会は名ばかりで実質業務は電通とその各子会社に丸投げ状態であるところが大であるので、事件、事故が起きても詳細を把握できていないのでないかと思われます。会長、事務総長が広報役を務めても説明も出来ないのが実態でないかと思われます。

そうでないならば、組織委員会電通、及びその各子会社との間に業務委託契約書が公益財団法人として存在する筈なので情報公開すればそれで済む問題です。しかし、それが出来ないのは出せない何か陰湿な「随意契約」がなされている様子が伺えます。五輪後、これら重要書類は、長野五輪同様に焼却処分されません事を願う次第です

一例として、日本全国に疫病が蔓延しているさなか、電通の子会社が仕立てた数台の五輪スポンサーの宣伝看板を貼り付けたトレイラーが五輪の聖火リレーと称する名のもとに公道を貸し切りで行進する滑稽な様子をご覧になられたと思われます。あのような危険極まりない行為に対しても誰もNOが言えない約束事が出来上がっているからなのです。

今後は、今まで以上な問題と決定的なスキャンダルが「汚れた地下水が湧き出るが如く吹き出して来るかも知れない」と思えてならないのは筆者だけでしょうか。選手や関係者達が事故無く安全にそれぞれの故郷に帰国できる事を心より祈念致しております。

現在2020東京五輪は、COVID-19の影響のため1年延期し、2021年7月23日に開催され開会式を終え、無観客で競技がスタートしている次第です。 

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目次

84ロス五輪プロゼクトはスポーツ電通の生誕

1.電通マン魂を持った仕事人とそのお側用人

  ■今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

2.電通最前線部隊の存在と特攻精神

  ■ジミー・福崎氏の存在と人柄

  ■服部庸一氏の人柄

  ■ジミー・福崎氏の人となりと立ち位置

3.日系二世の重要な後ろ盾が橋渡しを

  ■勝負の切り札的な人物を味方に

  ■F・和田氏が電通を信頼したのはJ・福崎氏の努力の賜物

 

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KファイルNO.162: 広告電通をスポーツ電通へと導いたサムライ達

無断転載禁止

84ロス五輪プロゼクトはスポーツ電通

生誕

1.電通マン魂を持った仕事人とそのお側用人

■今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

それまで縁もゆかりも無かったP・ユベロス氏(LAOOC会長)に電通は、如何にして接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。

元来、電通と84ロス五輪組織委員会・会長のP・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかった事に付いて嘗てKファイルで触れました。よって、本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。服部氏は、本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、ここに至るまでの長い実践キャリアと実績がありました

 服部氏は、音楽の才能が豊かで、プロ顔負けの声量の持ち主で在ったとうかがって言います。大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動をしていた事は、以前ご紹介申し上げた記憶があります。そして、この戦後間もない時代彼はジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)によってその後の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけて行って演奏活動をしていたようですが、そこで駐留兵士達のために、米国本土からタレント、歌手達を招聘、プロデユース担当をしていた日系人と出会います。この出会いが、服部氏のその後に大きな変化と電通にスポーツビジネス世界の扉を開ける事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、是非記憶して置いて下さい。

大学卒業後、服部氏は、縁あって電通に就職します。そこで彼はまた、趣味で在り得意の音楽で水を得た魚の如く、道を切り開いて行くのです。此処では、筆者が音楽界及びその知識には疎いため、音楽事業における功績は割愛させて頂きます。しかし、彼のキャリアの中でも筆者が輝かしいと思ったのは、当時大阪万博や沖縄海洋博でプロデユーサーを手掛けられ、成功を収められた事です。このような話題になりますと、服部氏と夜が更けるのを忘れてロスのホテルで話し込んだ懐かしい記憶が蘇ります

服部氏は、当時の電通社員特有な傲慢で誰に対しても上から目線の社員とは異なり、人当たりがよく、ソフトで、人の話に耳も傾けるタイプでした。特に彼の経験の少ないスポーツ界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でした。私の個人的な印象では、本当に電通マンとは思えない程、物腰が低く温和な雰囲気の方でした。しかし、時々見せる鋭い眼光の奥からは、この業界世界で生きる人間特有の臭覚と鼓動をビンビンと肌で感じ取れました。

大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友のような親しみを覚えた記憶が今も色濃く残っております。彼は、決して深酒をせず興味ありと思った人に対して目線を外さず耳は鋭く開いているタイプでありました。多分当時、P・ユベロス氏との契約の見通しにメドが付き、あの日はホッとされた夜だったので舌も滑らかだったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が後ろ盾となっていた事は語るまでもありません。

2.電通最前線部隊の存在と特攻精神

ジミー・福崎氏の存在と人柄

服部氏については、如何に実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であり、彼一人では、何も出来ない事を百も承知であったようです。

そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして当時は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトしたのです。そこでの服部氏の福崎氏への期待は、何とかしてLAOOC会長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性を模索し、そしてその方法、手段を探すことを頼み込んだ様です。

服部氏の側でいつも控え目に同席し、物静かに含み笑いを浮かべている長身の日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーの片隅で東洋系マフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通の礎を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏その人であったのです。

ジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏に如何にして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー氏と服部氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、如何に辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスプロゼクトをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。服部氏は、どこでこのジミー氏と出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休日にロスの私邸に小生を招いて下さった時にお茶(アメリカンコーヒー)を頂きながら雑談の中でストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問招聘のマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

服部庸一氏の人柄

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通マンのイメージとは対極の人物であったことを確信しました。彼は、決して私に対しても見下した言動態度を取らず、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しい方でした。

このような事を十二分に理解しているジミーさんは、服部さんには全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織から外部に位置するジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動と物腰からも見て取れました。このように服部・ジミー福崎コンビは、お互いにリスペクトし合い、厚い信頼と強い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいたのだとも思います。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画で堤義明社長秘書としてお世話になっていた時に出会った当時の西武ライオンズ監督、根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差しと大変酷似していたところもありました。しかし、根本氏の問題の処理、解決方法は、服部氏と比べると異質でした。勿論、人間として本質的な部分は、生まれも育ちも人間関係も異なりますので、あくまでも表面的な物腰の部分が似ていると申し上げます。

ジミー・福崎氏の人となりと立ち位置

筆者は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から事前に知識を頂いていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。

それは、ロス日系社会には、古き良き親友達が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを理解していた方でした。彼は、最初は電通の本プロゼクトの責任者であった服部庸一氏の通訳として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です。即ち、服部氏のシャドーマン【影の人】の存在だったのです。その証として、ジミー氏の存在は殆ど今日も本件に関して電通内に置いても、ましてや外部に置いて語られることなど耳にしたことがありませんでした。

服部氏は、米国人が同席する場所では一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちは、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を電通の本プロゼクトの仕掛け人としますとこのジミー・福崎氏は常に側に居て陰で支える参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小生の関係とは、最終的には異なっていたように思います

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、小職が丁度堤義明社長(西武・国土計画)の野球担当秘書としてロスの日系人スポークスマン達を訪問していた時期でした。それは、また時を同じくLAOOCと電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、休日に美味しいお茶を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか計り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

3.日系二世の重要な後ろ盾が橋渡しを

勝負の切り札的な人物を味方に

ジミー・福崎氏は、服部氏から依頼を受けた当時、P・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。 しかし、彼は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在のでもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです。

和田氏は、2世として数々の功績をご自身の血のにじむような努力で勝ち取られて来られた方でした。筆者と同氏とはロス日系人社会の著名なご家族と小生が親しかった関係で、パーテイーでご紹介を受け、それ以降何度か会食の機会をいただきました。お会いする度に若輩の小生に「頑張りなさい」と声を掛けていただき、苦労話や、日本人でありながらの日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等を本当に親身になって指導下さりました。この会話の中には、森喜朗氏がご迷惑をお掛けしたことのお話がいまだ記憶に残っていますが、私自身当時より森氏とはご縁がありませんので気にもしていませんでした同氏に付きましては、また機会がありましたら、如何に素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。

このような事があった後に、私は、親友日系人の一人から「フレッドがP・ユベロス氏に電通を紹介してあげたんですよ」という話を伺ったので、服部氏、ジミー氏とその後お会いして話をお聞きする時には、何か不思議な人間関係や、ご縁の大事さを肌で感じずにはいられませんでした。勿論、服部、ジミー両氏は、小生が既に日系人から真の情報を得ていたと知る由もありませんでした。

ジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを断る事はできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みを伝え、協力が得られるかを、暫くの間、入念に思案したとのことでした。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からいろいろと巷の話をお聞きする事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大切な機会となりました。

ジミー氏の結論は、日系人社会で確固たる実績を持たれ、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです。

■F・和田氏が電通を信頼したのはJ・福崎氏の努力の賜物

勿論、ジミー・福崎氏は、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。ジミー氏は、既に多くの日本人が失っている義理人情を大変大事にされているようでした。特に日系二世には、当時彼のような義理堅い道徳観念を両親から教育され日本人の誇りとして受け継いでいる方々が沢山いらっしゃいました。近年の我が国の政治家、スポーツ関係者には、是非日系二世の方々が大事にされている日本人のよき道徳観念を忘れないで欲しいと願う次第です。

ようやくジミー氏の準備が整いました。和田氏のロス自宅を目して服部氏と向かいます。いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)の最前線部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り、地ならしを完了していました。そのため、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクション(日本的には、根回し)は和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることと相成ったのです。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:G file「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文芸春秋社 著武田頼政

 お知らせ:次回Kファイルは、和田氏を味方に付けP・ユベロス氏への橋がかかり、双方の思惑が進行する中、新たなBIGプロゼクトに参戦しなければならない事態が発生するのです。