KファイルNO.167:東京五輪無観客試合で戸惑ったアスリート達

KファイルNO.167:東京五輪無観客試合で戸惑ったアスリート達

無断転載禁止             毎月第一、第二木曜日公開予定

 

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筆者からのメッセージ

競技スポーツ大会に於ける有観客と無観客の相違は、アスリート達に有形無形のダメージを与えます。これは、競技場に入る前のサイキングアップ(アスリートが戦闘モードに入る為興奮状態を人為的に引き起こす手法)、会場に入ると視聴覚、皮膚感覚から直接的な違和感を受けると同時にサイキングアップが解け、モチベーションが急激に冷めてしまう事なのです。それにより精神的な支えを失いアンバランスなパフォーマンスを醸成する事から、競技での勝敗の要因の一つとなる事を東京五輪で数多くの選手達が証言しています。

この問題で、特に欧米のアスリート達は、彼らのスポーツ文化、教育、日常の競技スポーツの環境からも経験の無い要素に他ならないからです。それは、日常のスポーツ、競技スポーツに対する考え方の違いをもそのファクターの一つと考えられます。近年の日本のアスリート達は、段々と世代交代が進む中、欧米化して参って来ているとはいえまだまだ指導者、運営・管理者の知識と環境への対応不足から欧米に接近するには、時間がかかりそうです。

目次

井戸の中の蛙は大海を見て豹変した

独自のスポーツ文化を持たない悲しさ

観るスポーツの意識は幼い時から教育と教育機関

■観るスポーツの意識は幼い時から

はじめに

■スポーツに対する思考の相違

■専門家の知識と実践力の強化向上が先決か

■今日も脱皮できない体育と言う名の妄想

スポーツの概念

1.概念(アウトライン)とは

2.スポーツ(Sport)の語源とその歩み

3.スポーツと体育の区分

まとめ

 

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KファイルNO.167:東京五輪無観客試合で戸惑ったアスリート達

無断転載禁止

井戸の中の蛙は大海を見て豹変した

Ⅰ.独自のスポーツ文化を持たない悲しさ

■観るスポーツの意識は幼い時から

はじめに

此処で筆者が1970年代前半に米国に渡り驚嘆した言うなればカルチャーショックと言えるほどの驚きをした事をご紹介します。この事実からも読者の皆様は、競技スポーツは観客に観てもらう事が本来は自然であり、日本文化の武士道精神と異なる文化が海の向こうでは100年以上前から教育機関、教育の中で培われていたことを知って頂ければ幸いです。

■スポーツに対する思考の相違

1970年代前半に米国に渡って初めて実体験して驚かされたのは、「どうして日本の小学校、中学校、高等学校、大学の教育機関、及び公共のスポーツ施設に観客席が無いに等しかったのか、ロッカールームが無かったのか、温かいシャワー設備が無かったのか、清潔なタオルなど準備されていなかったか」とこの時に初めてスポーツ及び体育に関する健康及び衛生面への理解と配慮の相違、指導と実践の欠如を教えられることになったのでした。これは、また風呂桶とシャワー文化の違いなのかも知れないと自問自答した事が記憶から今尚消える事はありません。

★今日の米国の公立中学には、以前にも増して400メートルの全天候型トラック、天然芝のフットボールフィールド、人工芝のサッカーフィールド、野球場、バスケットボールアリーナ、等を兼ね備えている事です。そしてその施設には、近隣の住民、生徒、家族が練習、試合での応援用の観客席がその教育機関の規模に応じて設けられています。

★★高校に於きましては、これらの施設が一段階レベルアップした施設を擁して各シーズンスポーツが高校のスポーツビジネスとして運営管理がなされています。即ち、資金が無ければ資金を集める行動を「Just Do it」スタイルなのです。

★★★大学に至りましては、約100年前にNCAA(全米大学競技スポーツ協会)が設立され当時は既に全米約800校が加盟し、統一されたルールの下で運営、管理がなされ今日に至っている歴史があります。今日では、その加盟校が1275校にまで膨れ上がっています。

筆者が教員として、スポーツ・アドにミストレイターとして在職していました大学では、キャンパス内に当時よりバスケットボールアリーナの収容人員は、27000席、フットボール競技場は70000席、野球場は20000席、室内競技場には、400メートルトラック、フィールドを擁して夏冬の間の練習場として一年間冷暖房が完備しています。全学生、教職員は、IDカードで各施設をルールさえ守れば自由に使用でき、各施設には常時温かいシャワー、サウナ、トレーナー室、タオル、ユニフォーム、シューズ、ソックス、用具の貸し出しもしてくれます。ロッカー室は、全学生が利用できるようになっているので各学期毎に登録が必要となります。日本の某私大学のようにスポーツ施設は、一般学生には使わせない、等の馬鹿げた経営、管理者など居る事事態ナンセンスと言わざるを得ません

このような教育機関での施設の使用、責任の所在、共存、公共施設のケアー、衛生の重要性を中学生から自主管理の教育指導を受けているのが米国の生徒、学生達であります。筆者は、このような日本の将来を担う教育機関に於いて生徒、学生達の育成の改善を疎かにしてまで、何故東京五輪を開催したのか理解に苦しみます。心無い政治家達には、公金を未来の若者と教育に投資する心が欠片も無いという事の様です。

東京五輪の開催に当たっては、湯水のように使った4兆円を有効活用して頂きたかった次第です。此れも政治と政治家の貧困、及びスポーツ界にスポーツ・アドミニストレイターの必要性も掛け声ばかりで、その指導者が居ないという情けない教育機関の伝統的な構造的な問題を抱えているようです

■専門家の知識と実践力の強化向上が先決か

我が国に於いては、戦後体育から保健体育に呼び名も変わり、授業では衛生管理という必修・必須科目に指定されています。しかし、実際は、実学的、実践的とは言い難く形式的科目であった事を米国に行って初めて知ることになったのです。これは、スポーツ(Sports)、競技スポーツ(Athletic Sports)と体育(Physical Education)を専門分野、部門として学ぶ学生にとって大きなショックの1つでありました。

戦前より我が国は、軍国主義政策により全ての教育は、偏った教育に偏重しスポーツも欧州列強の精神論、指導、施設論が持ち込まれ米国型の自由な教育指導を排斥(敵国であると)してしまっていたのでした。よって、スポーツとは、「観て楽しむものでなく、戦う為の武器として精神的にも肉体的にも強靭であるべし」との指導、育成が国家権力のもとに徹底されたのです。

要するに当時は、体育(Physical Education)は軍事教練の一環であり、スポーツは観て楽しむ(自由主義的考え方)要素など受け入れられなかったのです。よって施設に観客席は必要とせず、観客席のスペースは軍事教練の場であったということです。

このような我が国の歴史は、今日のスポーツ界にも多くの影を今だに落しています。スポーツ施設に観客席がなぜないのかというごく素朴な疑問に気が付かれたでしょうか。また、そこにはどうして体育・スポーツに参加した関係者が汗を流す為の温かいシャワー、清潔なタオルの必要性に気付かなかったのか、ないのかです。

これは公衆衛生の観点からも重要であることを今日も尚文科省スポーツ庁厚労省は気付かないというスポーツ後進国の根拠が此処にあるのです。我が国の体育・スポーツの現状は、先進国と呼ぶに相応しいと言い難いのです。今日もいまだ理解、認識されず改善されないのは、スポーツが文化として認知されるには程遠い現状と環境の要因が此処にもあるようである。

筆者は、東京五輪を招致する前にこの教育、スポーツ界に於ける不衛生な施設の改善、改築が、「政治家達、関係者達が利害と利権偏重する事より」先決であったと確信する次第です。体育授業、部活の後に温かいシャワーを浴びて、次の授業に向かう、帰宅させて挙げたいとは思いませんか。

本当の先進国の生活を知らなかったがために我々国民はきわめて不衛生な生活を習慣付けられてきたが為にスポーツに関与する指導、運営、管理者達は、今日も皆同じように今尚気が付かないのです。スポーツ、体育の専門家達は、何を研究し、指導、実践に活かされているのか理解しがたいのが現実です。

■今日も脱皮できない体育と言う名の妄想

このような伝統的な体育、スポーツ指導者達が今日も尚指導、教育に対して体罰と称する暴力指導行為、パワハラ、セクハラの行為を改めようとしない原因の最大の要因は、我が国に於ける戦前、戦中に於ける指導、教育体制が根強く長く居座り、間違った行政指導がマスメディアの美化した報道(例:ラグビーの暴力指導を熱血指導者と称え、バレーボールのスポコン指導者を神格化し、野球指導のケツバット、等の根性論)が大きな障壁となり、暴力は子供達からプロ選手に至るまで止まる事を知らない現実がある事を忘れてはなりません。

この現実からもスポーツは、観る要素も大切であり観るスポーツの大切さと観方、楽しみ方、そしてそのマナーの必要性を教育の一環として指導、育成する必要性を求められていると思いますが、読者の皆様はいかが思考されますでしょうか。しかし、今尚このスポーツ観戦の重要性を気付かず軽視されているのも現実です。このような問題を1つ提起しても国の行政、教育機関及び関係者達は、その必要性にも気付いていないのです。その証として、観るスポーツが学問として日本では議論もされない事により知識の必要性すら感じてられない様子です。

その大きな原因の一つとして、戦前、戦中、戦後まもない時代の体育、スポーツに関わる関係者達は、今日も我が国の体育、スポーツ行政の中枢に今なお深く関係し組織、団体の運営・管理に携わっていることです。その一例が2020年東京五輪組織員会の運営、管理者達であった事でした

スポーツ組織、団体、教育機関の指導者、管理者は、スポーツをリスペクトする先ず心と社会常識を身に付けたリーダーの育成が急務であると思われます。そうすれば、グローバルな世界と社会での非常識な暴言、失言も少なくなるのではと思われる次第です。

現代のニーズにあったスポーツ・アドミニストレイションの本質を学び、実践経験のある真の専門家達を多く育成し我が国のスポーツ行政を再構築してこそスポーツの文化が我が国にも根付くと思われる。現実を直視すると日本のスポーツが欧米のスポーツと比べて文化として浸透していない、できない要因がこのような歴史に少し触れるだけでも理解されるのでないでしょうか。

スポーツは競技だけでは決してなく健康・科学とリクリエイション・レジャーとしてまた観るスポーツ共々バランスのとれたアドミニストレイションでなければならないと思います。(河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション論より引用)

そしてその事を理解して戴く為には、元来スポーツ、競技スポーツの基本的な概念を読者の皆様に理解して戴き、認識を新たに知識の礎として頂けます事を願って述べさせて頂いています。読者の皆様の中には、そのような事はよく知っているとの方々も多い事も承知していますが、知っていても行動が伴わないのでは理解していないのと同じなのです。大多数の読者の方々は基礎知識をお持ちでないという事を大前提で述べますので気を悪くなされないで感覚、記憶脳の片隅に知識だけでも持っていただく事によりスポーツ、競技スポーツを理解して戴くための一助にお役立てくだされば幸いです。

スポーツの概念

1.概念(アウトライン)とは

スポーツは、楽しみ、健康の維持、増進を求めたり勝敗を競ったり、またそれを仕事の目的で行われる身体活動(運動)の総称です。

スポーツが遊びであれ、競技、仕事であれスポーツに共通するものは、身体をその目的の為に動かすことです。人は、身体を動かすことによりそれぞれの身体能力の違いを表現、競い合うのが自然です。この競い合いこそがスポーツを競技性へと導き発展させた根源なのです。この源は、その後いろいろな競技へと分化し、改善されて発展して行ったのです。また競技スポーツの精神的な基盤は、フェアネス(Fairness)であり同じ環境と規則・ルールの下で行われることにより発展してきたのです。このように競技スポーツは、決められた約束事の中で誰が一番優れた能力を持っているかを知らしめる装置ともいわれている。また、スポーツは、競技だけがスポーツでない事をわすれてはならないのです

本スポーツ・アドミニストレイション(通称:SAD)に於いては、スポーツの中の競技スポーツを参考に述べて行くことがより理解しやすいと思います。

2.スポーツ(Sport)の語源とその歩み

語源は紀元前五世紀、ローマ人の言葉で”気晴らし、遊ぶ“と理解されたラテン語で“deportare(デイポールターレ)”と呼ばれていた。その後、フランス語で”desport(スポール)“と呼ばれ、後十一世紀以降イギリスに渡り十六世紀に”Sport(スポーツ)”となり十九世紀に国際語として発信されたとされている。

このような歴史的経過と共にスポーツという概念は、もともとヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人文化社会の流れを受けてアマチュリズムが19世紀に英国で生まれたといわれている。このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神をアマチュアリズムとして継承してきたのです。

3.スポーツと体育の区分

体育学は、体育に関する諸科学を組織・体系づけたものを意味する場合と、体育教育学を意味する場合があります。これらを総称して体育と呼んでいるのです。体育は、英語表記のphysical education(身体教育)の訳語として戦後の教育改革において新しく導入された科目です。保健体育は、physical and health educationの訳語であり、我が国に於いては第二次大戦後、名称も保健体育と呼ばれるようになったのです。        

即ち、体育とは、心体の健康を維持、向上させる為の教育学の分野なのです体育の授業では、体育理論や保健体育などの教室での授業を除いて 基本的に体操着に着替えて実技が中心なのです。大まかな教育目標は、各学校ごと学習指導要領に沿った指導を基本としているのです。―教育指導要領より、

予備知識として~

日本体育学会:

学問において、体育研究者の集まりである日本体育学会では、人文系、自然科学系を含めた体育学の研究分野を、体育原理、歴史、心理、社会、経営管理、運動生理学、キネシオロジー(運動力学)、測定・評価、体育方法学などの諸科学の総合したものとしてとらえている。より実践的立場からみれば、歴史的には、わが国では一般に、体育は学校における体育授業を中心とする教育活動としての方法論的立場が強かった。しかし第二次世界大戦後は、それまでの体操中心の教材にかわって、運動文化としてのスポーツ教材が取り入れられるようになり、生活におけるスポーツへの橋渡しや意識・態度の形成、スポーツ技術の習得などを重視するスポーツ教育学ということばが生まれている。最近では、この種の教育活動を単に学校に限定せず、人間の生涯にわたっての学習の場や機会の提供と関連して、社会体育または生涯スポーツということばも生まれてきている。諸外国、とくにヨーロッパでは、社会の生活文化への橋渡しとしての学校の位置づけ論から、体育も生活文化としての運動文化の内面化をめぐる指導過程に重点を置くスポーツ教育論が支配的である。体育学を基礎科学の立場からみるか、教育学的立場からみるか、いずれにしても体育学の考え方、領域が人々のスポーツ欲求の増大と関連して、時代の進展とともに大きく変わりつつある。(大百科事典より)

まとめ

観戦スポーツに関する概論を日米の環境、歴史に触れながらその違いと遅れを主に述べさせて頂きました。東京五輪は、前代未聞の無観客開催となりました。

この貴重な体験は、観戦する側、競技する側双方にとって、双方が存在して初めて競技会もスポーツビジネスも成立する事を学んだのでないかと思います。これにより双方リスペクトと信頼の念を持つ事により共存共栄の原理原則の必要性をこの度の東京五輪を生きた教材として未来に活かして欲しい事を祈念して本編のまとめとさせて頂きます。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:Gfile「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文芸春秋社 著 武田頼政

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