KファイルNO.190:特別寄稿1996年メイクドラマの功労者からの便り

KファイルNO.190:特別寄稿1996年メイクドラマの功労者からの便り

無断転載禁止               毎月第二、第4木曜日掲載予定

注)右からMr. Oscar Suarez、長嶋茂雄監督、河田弘道(kファイル筆者)

  1996年8月16日:東京ドーム監督来客室にてバルビーノ・ガルベス投手のエイゼント(MLB選手代理人)の来日を受け、ゲーム前に監督と歓談、丁度7月5日迄首位広島と11.5ゲーム差を連戦連勝でゲーム差を少なくし始めている時期でしたので、監督は大変ご機嫌な様子が伺えるかと思います。

 

オスカー・シュワレズ氏からの便り~

親愛なる河田弘道

 大変ご無沙汰しています。今日は、米国のサンクスギビングデイの最終日です。私は、休日はいつも自宅で静かな時間を保っています。私は、間もなくウインターミーティングが始まるので、準備に忙しい時間を費やしています。今日は、あなたと長嶋氏の写真を見ながら「この時は、皆若かったな~」と色んな思い出に更けていました。私は、あなたとの出会いとご縁を大切にして参っています。あなたは、バルビーノ・ガルベス投手に東京読売ジャイアンツで仕事をする機会を与えて下さった唯一の方です。バルビーノは、今もあなたの事を思い出し感謝の念を私に託します。それは、私も同様です。本日は、感謝の念を込めてあなたに私の思い出の貴重な写真とお手紙をお送りしました。受け取って下さい。感謝をこめて。

Oscar Suarez

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目次

東京読売巨人軍に於ける「96メイクドラマ」とは

東京読売ジャイアンツの全盛期(TV地上波視聴率年平均24%)

Ⅰ.バルビーノ・ガルベス投手を獲得した根拠

序章

■長嶋監督への最初の注文

■1995年連覇を目したシーズンに人災が

■人災は更なる損失を球団に誘引

■偽りのクリスマス休暇

Ⅱ.バルビーノ・ガルベス投手に96巨人軍の運命を託す

■情報収集とそのリテラシー

■オスカー・シュアレズ氏にエイゼント魂を見た

 

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2022年12月08日 木曜日                  公開

無断転載禁止         

KファイルNO.190:特別寄稿1996年メイクドラマの功労者からの便り

東京読売巨人軍に於ける「96メイクドラマ」とは

東京読売ジャイアンツの全盛期(TV視聴率年平均24%)

当時は、今日の東京読売巨人軍とは異なり1993年に長嶋茂雄氏が長年の浪人生活にピリオドし、第二次長嶋政権(通称:長嶋ジャイアンツ)が発足した時期の生臭い真実の物語です。1993年初年度の長嶋ジャイアンツは、長年の藤田元司監督の後を受けての1年目でその結果は、ペナントレース3位でした。 

私は、長嶋ジャイアンツ発足前の1992年の晩秋に長嶋茂雄氏から、巨人軍入団のお誘いを頂きました。しかし、当時私は、プロ野球界から離れて10年の歳月が経過していましたので、お受けしても成果と結果を出す準備が出来て居なかったので、1993年度シーズンは外から拝見させて頂く事でご理解をして頂きました。小職は、1994年のシーズンより「東京読売巨人軍編成担当常務取締役兼監督」の補佐として就任させて頂いた次第です。

(詳細は、2006年10月13日発売のGファイル「長嶋茂雄と黒衣の参謀 文芸春秋社、著 武田頼政」をご笑読下されば幸いです。同書籍は、印刷部数を最初に限定した為発売間もなく完売、現在は、アマゾンでの中古本が売買されています。一般的に本書籍は、パッションの強烈な書籍とされているようです)

読者の皆様は、既にご承知の通り1994年の長嶋ジャイアンツのシーズンは「メイクミラクル」と呼ばれました。10月8日には、名古屋中日球場のリーグ最終戦はゲーム差0で迎えた決戦は当時「国民的行事」と言わしめたプロ野球界の歴史に残る大一番でした。結果は、ジャイアンツが勝利を勝ち取り、その年の日本シリーズに於いては、其れ迄日本シリーズの常勝球団の森 祇晶氏(もり まさあき)率いるパの獅子、西武ライオンズを粉砕して、長嶋茂雄氏の初めての日本シリーズ優勝を勝ち取ったのでた。10・8夜の地上波のTV視聴率は、確か60数パーセントを超えていたかのように聞き及んでいます。

Ⅰ.バルビーノ・ガルベス投手を獲得した根拠

序章

1994年メイクミラクルを完成した後、次年度シーズン春先から不思議な出来事に見舞われ始めたのです。1995年シーズンは、球団フロントの体制が丁度新旧の過渡期の年でもあった時期でした。

特に球団編成部門に於きましては、旧態依然の体質を引きずりながら外国人選手のスカウティング、リクルート活動と非常に複雑な人間関係が利害、利権で絡み合い、選手の本質を見きわめる以前に球団OBが絡んだ内外の構造的問題が、そのまま継承されていたのです。

小職は、「長嶋監督、渡辺恒雄最高責任者の了解の元、長嶋茂雄氏を監督として東京読売巨人軍を勝たせてくれ」との合意形成が成されたのでお引き受けした次第です。その為私は、長嶋監督がいくら全権監督として渡辺氏からお墨付きを頂いていても、この矛盾した肩書から内部の反長嶋陣営に渡邊氏の死角をついて起こされるであろう陰湿な陰謀、策謀が透けて見えていたのでした。

この事は、既にその10年前に私は西武国土計画に身を置いていた時に性悪説を自ら唱える人間の思考回路とその行動規範を体験していたことが、非情に役立った次第でした。よって、河田は、そうされないようなその最低限の担保を確保する為に次の一手を打ったのでした。それは、1993年既に長嶋ジャイアンツ1年目のシーズンを終えたオフに読売新聞社の臨時株主総会長嶋茂雄監督が招かれることを事前に察知した時、間髪入れずに監督に注文した事です。

■長嶋監督への最初の注文

監督は、株式会社よみうり(当時の東京読売巨人軍は、株よみうりに所属し地方読売新聞社の一員と位置付け)の役員になって経営陣に加わって頂けませんか。そして経営者兼監督としてフロントに踏み込む権限を渡邊社長から得て下さい。そうでなければ私がどんなにアイディアを出して孤軍奮闘しても、生かす事は出来ないし、プロテクトもできないのです。理解してくれますか。此れが組織であり、ジャイアンツは長嶋商店ではないのです

この「注文」を出した2週間後、1993年12月8日、株式会社よみうりの臨時株主総会が開催されました。その総会に招かれた長嶋茂雄監督は、スピーチの機会を得た為に「東京読売巨人軍に何が必要か」に付いてのテーマに絞り込み原稿の準備を致したのが、小職の最初の仕事であったと記憶いたしています。

当時総会を終えた読売新聞社重鎮達(渡辺恒雄氏、小林與三次会長、水上健也・大阪本社社長、正力亨氏・巨人軍オーナー、等)は、皆興奮気味に顔を紅潮させていたことを出席者から私の耳に伝えられました。

その根拠は、長嶋茂雄監督が全員一致で監督兼常務取締役編成担当としてフロントと現場を統括する、読売巨人軍初の「全権監督」の誕生を承認しただけではなく、長嶋監督の就任「スピーチ」の見事さに皆驚嘆され呆気にとられたというのが真相だったそうです。

スピーチを終えた長嶋監督には、総会の全出席者から盛大な拍手があり、当の本人自身も顔面を紅潮させ興奮冷めやらない様子であったとの別の方から報告を頂いた次第でした。これにより、全権監督とは、只のお飾りではなく実質を伴った「権限」を頂いたのです

私の心中は、お題目の全権監督では意味がない。経営者に加わって頂く事で球団フロントと現場コーチングスタッフに対する監督の命令に効力を発し、河田の策が監督を通して明確に反映されることが大切と判断したからです。これは、また長嶋さんがこのような体制を準備できるか否かで、小職を使う覚悟をはかりたかったのです。この球団・ティームは、内部のポリティカルゲームに勝たなければ、シーズンはもとより日々のゲームに勝つなど非常に難しい球団体質でした事を既にリサーチさせて頂いていたので、仕事を成す前の準備の重要性を改めて確認させて頂きました。

 

■1995年連覇を目したシーズンに人災が

 丁度この年は、年明け早々厄介な知らせが球団に飛び込んで参りました。

それは、桑田真澄投手にMLBサンフランシスコ・ジャイアンツから一通の身分照会が来たのでした。それは、1995年の1月の事でした。この時期は、まだ球団フロントの体制が旧態依然の人間関係と複雑怪奇な状態が続いていましたので、情報の漏洩、錯綜が利害、利権に絡み合い、小職にこの情報が届いた時には時差があった記憶があります。

元来、桑田投手は、無類のMLBへの関心が高く独自に英語を学びMLBの情報、資料を積極的に複数の人間を介して収集していた事は存じていました。しかし、この当時のフロントの体制は、前年12月に臨時株主総会で長嶋監督兼常務取締役編成担当が承認されたばかりで、人事が全くなされていない状態でした。

 事の発端は、この身分照会の件が一部の球団内部幹部に留められ球団独自の判断で要請を断ったようでした。その後、球団内のコンセンサスも見当たらない中、本人にこの情報が漏れ聞こえて行ったのです。これは、河田の私見と視点ですが、「それを知った本人は、其れ以降94年の桑田真澄投手とは全く別人のBehavior(目に見えて分かる外なる態度)、Attitude(目に見えない内なる態度)に微妙な変化を見せ始めたのです。この問題を契機にネガティブな元来の桑田イメージが沸々と牙を出し始めたのか、どんどんと音を立てて階段を踏み外して行った事を記憶しています。

このシーズン開幕間もなくして、桑田投手は、ゲーム中に三塁へのファールボールを追いかけて捕球した際に右肘を人工芝に打ち付けたという理由(元来投手が野手まがいのフィールディングをするのは邪道)から、本人の申し出により痛みを伴い投げられないとの申し出がありました。(ティームの医師、PTは、投げられるとの判断)

この申し出以降戦力から外れて以来巨人は、低迷を余儀なくされました。しかし何とかオールスター前には、漸く3位に這い上がり、後半に連覇がかかる光が見え始めた頃でした。当時の順位は、1位広島、2位ヤクルト、3位巨人の序列。

しかし、またしても奇妙な事件が起きたのです。それは、1位を走る広島カープ球団のエース、チェコ投手(代理人団野村氏、野村克也氏の長男)が突然球団への不満をぶち上げて、球団を退団しカープが瀬戸内海を漂流し始めたのです。と同時に不思議な件がジャイアンツにも起きました。それは、94年ヤクルトでプレーしたジャック・ハウエル選手は、翌年95年に巨人に移籍。彼は、その年の巨人軍でよい仕事をしてくれていましたが、7月のオールスター戦の間にアリゾナに一時帰国した後、本人から退団を伝えて来たのです。広島カープ同様にジャイアンツも主軸を失い多大な被害を被ったのです。

私は、このような不可思議に起きる事件と事故を業務の一環として特に注視している中で、個々の選手達を「点」として取られていたのですが「線」で繋がり、その線の延長線上に何と野村克也氏(夫妻)の存在が、一人の大手ゲーム機器メーカーの会長氏の証言に寄り浮かび上がった時は個人の自己中の極め付きを目にした思いを致しました。

 

■人災は更なる損失を球団に誘引

1995年シーズンは、野村克也監督(ヤクルトスワローズ)の契約最終年だったので、このシーズンは野村ファミリーにとりましては是が非でも結果を残さなければならなかったようです。 

 対する東京読売巨人軍は、実質桑田投手を失い、ジャック・ハウエル選手を失い、先発投手陣の補強が急務で合ったのは事実でした。そこで秘密裏に韓国のエースと当時日本のマスメディアが情報を流布していた「趙 成珉投手(ちょ・そんみん)右投右打. 身長/体重, 194cm/95kg. を巨人軍が獲得と巨人軍の広報紙のスポーツ報知が告知したのでした。

残念ながら本件に付いては、当時の保科代表、倉田編成部長からは何の情報も無かったのは事実でした。しかし、新しい球団編成の構造から長嶋編成担当常務兼監督に本件が入れば、その補佐の河田はしるべきである重大な用件でした。後に本投手の報告は、監督、投手コーチに在り長嶋監督、堀内投手コーチ共に「趙 成珉投手は、来季の巨人のエースである」との過大評価のコメントがマスメディアの紙面を賑わした事を覚えています。小職は、後にこのコメントに配慮をして立ち回らなければならなくなったのです。

私は、趙 成珉投手なる選手のパフォーマンスも確認した事が無かったので非常に不安を感じていました。そこで担当者に直接確認すると何と契約年数が8年契約で巨人軍は、10年を持ちかけたが相手が拒否したとの呆れた契約であった事が判明。更に私を激怒させたのは、同選手との契約前に必要なフィジカルイグザム(身体検査)を行っていなかった事でした。そこで私は、僭越ながら当時球団幹部達には「あなた方ド素人もいい加減にしなさいよ」、この投手に莫大な契約金を手渡し、これから8年間いくら支払えばよいと考えるか。同投手が活躍できなかった場合の被害は、誰が責任を取りますか、と。

このような事態から、外国人選手に関する重要懸案も人任せに出来ず、私に対する負担が常務兼監督補佐以外にも大きく圧し掛かって来たのです。

95年シーズンも慌ただしく終えようとする時期でした。趙 成珉投手を秋の宮崎キャンプに招集する旨を担当者に半ば強制的に伝えたのを今も尚鮮明に覚えています。

私が即行動に移したのは、宮崎キャンプに参加している同投手を宮崎病院で球団が指定する検診を受け、担当医の所見を受ける事。そしてもう1つは、球団が宮崎に向かわせる市川繁之氏(PT、PNF)を立ち会わせて問診、触診に寄る検診を受け、医師とPTの報告書を提出するよう求めたのでした。

案の定、その夜の宮崎からの市川氏からの報告では、「趙 成珉投手は、とても良い選手ですが、来期96年に成果を期待できる投手ではありません。河田さんが、この投手に来シーズン期待されるのでしたら、河田さんがシーズン泣きを見ます。無理です。MRI、レントゲン、問診、触診によるエビデンス(証拠)もあります。肩肘には韓国針も埋め込まれています」との速報が宮崎から深夜に一報が入った次第でした。

 

■偽りのクリスマス休暇

事態は、一刻の猶予も無く趙 成珉投手の検診報告書の整理を行い、報告書は、新球団常務編成担当兼監督宛に手配し、長嶋氏から渡辺社長へ、そしてそのコピーが球団代表に回されて今後の責任の所在を明らかにするよう報告書の末尾に述べさせていただきました。

同投手には、シーズン開幕前のオープン戦3月10日、オリックスを相手に先発させましたが2回で6安打9失点とアウトが取れず、投手コーチはマウンドから降ろさざるを得なかった。そしてシーズンにチャンスを与えましたが、市川PT、PNFの最終報告通り「イニングのアウトカウントも取れず、マウンドを降板の繰り返しでした」の結果でした。私は、この現実を球団幹部担当者、期待していた監督、投手コーチに見て頂き、本人には、フェアネスの原則にのっとり与えられる全てのチャンスを与えた次第です。この事は、本人が退団の意思を示さない限り、8年間の契約を履行せざるを得なかった当時の球団の契約内容であったのです。

1995年12月第二週に小職は、監督にクリスマス休暇願を出して静かに米国に移動したのでした。多分読者の皆様は、既に想像されていると思います。そうです、私は、96年シーズンの長嶋ジャイアンツの生死を託す桑田真澄投手と趙 成珉投手に代わる投手を見つけ出さない限り、春のキャンプに顔が出せないDestinyを背負わされたのです。

クリスマス休暇と称した米国での滞在は、地獄の渡米の日々であった事を初めて読者の皆様にはお伝えいたします。

 

Ⅱ.バルビーノ・ガルベス投手に96巨人軍の運命を託す

■情報収集とそのリテラシー

米国滞在中の私のリストの中で目を引いたのは、95年に台湾でシーズンを過ごした時の成績のみならず、同投手の球種と彼は独特の投球フォームから投げるボールの重さに注目したのです。大多数の日本の打者は、非力が多く重いスピードボールと逆回転のスライダー(日本ではシュートボールと呼ぶ)が武器であったのが大変魅力を持ったのです。そして、最終的に決め手となったのは、ガルベス投手の真骨頂である打者に向かって行くあの闘争心に惚れ込みました。

そこで私は、中南米を担当しているMLBのスカウトマン、ドミニカ出身のコーチ達、嘗てガルベスを指導したLAドジャースのファームコーチ、等々とあらゆる人間関係のネットワークを駆使してガルベスを獲得する為の根拠になるソースを短期間で収集したのを思い出します。

当時バルビーノ・ガルベス投手は、MLBのTEXAS・レンジャーズの所有物であったので、友人の紹介でガルベスの所有権を持つレンジャーズ球団のファーム担当ディレクターとコミュニケイションラインに入ったので、此処からはしばらくレンジャーズでのガルベス投手のステイタスの確認及び、契約書を買い取れるか否かの交渉に入って行きました。このディレクターは、キュウバ系の移民で大変強かな人物でした。同投手がレンジャーズの財産であるにも関わらず、ディレクターは、テーブルの下で手を伸ばして来る人間であった事も承知していたので、既にガルベスの代理人であるオスカー・シュワレズ氏(Oscar Suarez)とは、TEXAS・レンジャーズ球団の高位経営者から紹介を受けていた関係で信頼関係にあったので、此のファームディレクターは形式的な窓口として作業を遂行致した次第です。

 

■オスカー・シュアレズ氏にエイゼント魂を見た

 先ずTEXAS・レンジャーズ球団からは、ファーム所属のガルベス投手を一週間巨人軍の宮崎キャンプにレンタル料を支払い、同投手には、日当を日払いで払う約束で、略着の身着のままで宮崎に送り出しました。そして、その趣旨、目的は、8年契約でメディカルチェックもせず契約した球団幹部、それを来シーズンの巨人のエースとマスメディアに公言した長嶋監督と堀内恒夫投手コーチへの配慮の為に、ガルベス投手の宮崎入りは、二軍用のテスト生という大義名分でカムフラージュして、使い物にならない趙 成珉投手に対しても傷を付けまいとする配慮が必要であった事を読者の皆様は是非ご理解して下さい。

この出来事は、宮崎キャンプの春の珍事となるのも時間の問題でした。この珍事の模様は、米国にいる河田の所に毎晩深夜に電話報告をしてこられる長嶋監督の声のトーンで察しがついていました。

私は、そのような騒ぎになるのは当然であり趙 成珉投手とそれに関係した球団幹部には申し訳なかったが、長嶋ジャイアンツを活かすためには背に腹は代えられない緊急事態であったのです。

宮崎が11球団のスカウト達とマスメディアの注目の的となっていたころ、米国では、ガルベス投手のTEXAS・レンジャーズ球団からの譲渡問題、同投手と東京読売ジャイアンツとの契約問題と日夜詰めの作業を行う日々を送っていました。

この時、いつもガルベス側の代理人であるオスカー氏の協力なしには、獲得しえなかった真実をご紹介させて頂きます。オスカー氏は、96年メイクドラマの陰の功労者の一人と呼ばせて頂きます。また、その後快進撃を続けるジャイアンツ投手陣に於いて、唯一心配の火種となった抑えの石毛投手の故障から急遽、お化けフォークの持ち主でしたマリオ・ブリトー投手の代理人は、これまたオスカー・シュワレズ氏でした。これに伴う同投手の所属球団のフロリダ・マーリンズGMには、シーズン中にも関わらず無理を申し上げ譲渡に協力して頂いたことに感謝致します。

このような皆様のご協力とご理解を得て、1996年度の東京読売巨人軍は、無事メイクドラマを完結させて頂きました。このシーズン、バルビーノ・ガルベス投手は、16勝を挙げ最多勝を獲得、初年度契約はわずか2000万円でしたので、インセンティブ(成功報酬)で少しは彼の努力に報えたと思います。

このシーズンは、まさに桑田真澄投手のネガティブ思考に始まり、バルビーノ・ガルベス投手によりメイクドラマは終演を迎える事ができました。

河田弘道の修羅場は、これから読売劇場開演を迎えるのです。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:Gファイル「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社 著 武田頼政

お知らせ:読者の皆様には、メイクドラマの裏舞台の生臭い魑魅魍魎の日本社会の縮図を見る様だったのではないでしょうか。国民が熱狂、関心を寄せるスポーツ程、TV画面の裏側はヘドロの沼地である事をご認識ください。TV、マスメディアを通して大きな声で「スポーツマン・シップだとか、アスリート・ファースト」等と宣うご人達は、得てしてその正反対か、対極に位置する人物が多い事をお忘れなく。