K'sファイル:特別寄稿集:河田弘道教授の講義から~

特別寄稿集:河田弘道教授の講義から~

 題:卒業前の米国大学競技スポーツ観戦旅行を終えて

 この度57日という日程でアメリカ旅行を計画し終えました。

大学では、スポーツ経済学を専攻し河田ゼミに所属、アメリカで豊富な実践経験を積まれた河田教授の下学んできました。この経験から「是非自らの目で学んだことの総復習を」と計画に至った次第です。

 先生は、アメリカと日本の大学スポーツの違いを自らのご経験から語ってくれました。教育という現場においての日米の現状の違いや学生の競技スポーツの現実と現状など細部まで詳しく学ばせて頂きました。このことを踏まえた上で大学最後の実践的学習として現地で大学競技スポーツを観戦しました。

 率直な感想としまして、講義の内容全てそのままでした。今回は、先生の母校の一つでもあります『オレゴン大学』と『UCLA』の大学バスケットボールのシーズン公式戦の1試合、UCLAのホームゲームをUCLAのキャンパスにあるバスケットボール専用アリーナで観戦できました。

 手始めに観客の数、バスケットボールアリーナのクオリテイー、選手のスピード、スキルに圧倒されました。講義の中で散々聞いていました状況ですが、生で観戦した時の興奮を帰国後の現在でもはっきりと体感に残っています。

選手のユニフォームがキャンパス内のブックストア―で普通に販売されていることや、観戦している観客全員が大学のユニフォームを着用していたり、私たちが観戦した席も100ドル(約12000円)を超えていますが、周りは満席状態と初めて尽くしの光景を目の当たりにしました。

 日本の大学競技スポーツとは、いったい何なんだ、何故指導者、教員は、もっと実践に則した指導ができないのか。何か我々学生は、日本の大学教育、専門教育に疑問を抱くようになりました。

学生スポーツで日本のプロスポーツ以上の席料金になっています。アメリカでの大学競技スポーツの注目度、商品価値と日本のそれとは、余りにも格段の差があることが明らかになりました。このショックから現実に戻るのに大変な一日になりました。

 日本の大学競技スポーツを自身が経験したことを踏まえて比較してみても全てに於いて桁外れの規模と現実を確認致しました。

日本版NCAA云々の話題を此の所マスメデイアで語られるようになりましたが、関係者達は、全く大学競技スポーツの日米の現実の差を知らない人達である事が明確になりました。

 日本の大学競技スポーツは、河田教授の講義でも学びました通り、ステップバイステップ、一歩一歩出来ることを改善、改革して行く事であり、米国の大学競技スポーツやNCAAの真似など100年早く、不可能な現実をこの目で確認でき肌で感じる事が出来ました。競技以外の規則、ルールを守らない、守れない我々が、日本版NCAAとは何を考えているのでしょうか。呆れます。

スポーツビジネスとしての規模も人気も、そしてそれらの商品価値も、日本の大学競技スポーツの資質があまりにも低いので比較対象にもならない現実を目にする事が出来ました。

 此れで、河田教授の講義授業は、学内外の教員が机上での資料を集めて講義授業をされているのに対して、先生の長年の実践、実績に基づいた論理的に体系づけられた講義授業で在られた事を社会人になる前に自分で確認できました。

 此の程の両校のバスケットボールを観戦しながら、私は、先生の姿が目に浮かびました。先生は、このような環境で長年それも米国の強豪大学でスポーツ・アドミニストレーターとしてフットボール、バスケットボール、野球、その他、またNCAAに於いても活躍されて来られたので、講義授業におかれても迫力が全く他の授業と異なり、説得力があり僕らを変革して下さった方だったんだ。と帰国の飛行機の中で感謝の気持ちでいっぱいでした。

 先生との出会いは、私の生涯の貴重な宝物であり、財産でした。此処に改めて心より感謝とお礼を申し上げます。

 

文責者 鈴木 善之               2018年3月1日

K’sファイルNO.44:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅡ)無断転載禁止

K’sファイルNO.4484ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅡ.)

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      注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 

Part.Ⅱ.~電通のロス五輪プロゼクトの最終交渉~

 1.電通ロス支局は最強の最前線基地、

 ①ロス支局の人材と対応実践力、

    電通P・ユベロス氏への接近計画は、当時本プロゼクトが企画・遂行される前から現地ロサンゼルスの電通支局がその最前線基地となる事から、当時の支局幹部、他現地スタッフの方々は、戦場さながらであったに違いありません。その最大の任務は、本プロゼクトに関するあらゆる情報の収集、および整理作成、そして分析が水面下で遂行されていたと思われます。さらに分析された情報は、レポートされ築地電通本社の企画本部に打電。そこから指示待ち、再度情報収集と分析、レポートと繰り返し続く作業は、24時間(時差もあり)それはまさに戦場そのものであったと思われます。

    電通支局には、東京本社のあらゆるグループ、部署のプロデユーサーレベルから、管理職の方々からの情報取り、そしてその返信にも対応しなければならず、どの部署の誰にどのような情報を入れるかの選別も大変神経を尖らせた事と察します。しかし、このような有能なロス電通のスタッフの方々の能動的な血のにじむような業務と努力が在って、本プロゼクトが完成された事は言うまでもありません。

    まさにこの支局の有能な方々は、服部氏、ジミー氏の掛け替えのない戦場での戦友そのものであったのです。本ロス支局も現地での本プロゼクト遂行に関しては、服部氏、ジミー・福崎氏のアドバイスを真摯に受け止め、支援する事が組織のコンセンサスと成っていたので、何の疑いもなかった筈です。

    同支局のスタッフ達は、築地電通本社の社員として鍛えられていたので、ロス支局に於いても日本流の夜討ち朝駆けで情報収集、アレンジメント、コンタクト作業がなされたのです。これらの実践行動は、アメリカ人には信じられない行動力と緻密な作業プロゼクト戦略に沿った形で、遂行されたのです。支局員達は、能動的という表現を遥かに超えた、アグレッシブで攻撃的な性格の方々であったと強く印象に残っています。

 ②P・ユベロス氏と服部、ジミー氏の会談後、

    フレッド・和田氏の仲介の後、いよいよ電通プロゼクトテイームは、服部氏、ジミー氏、そしてサポーテイブなロス電通支局員と力を合わせ、現地最前線の作業部隊として戦闘を開始したのです。また、P・ユベロス氏も、その後LAOOCの立ち上げ後、組織の強化構築と非常に多忙を極めながらも、電通の作業部会との時間取り、エネルギーを費やす重要な時間帯を共有したと思われます。

    LAOOCは、全ての権限が委員長のP・ユベロス氏に集約されていて、組織の各セクションのマネージメント体制の統括管理責任者であり、全ての指揮管理系統の頂点となっているのでまさに同氏は84ロス五輪のスーパースポーツアドミニストレーターでした。

   しかし、日本人ビジネスマンと異なる点は、常にユベロス氏は、ビジネスとリラクゼーションとのバランスを取るのが大変上手く、多忙の中に置いても必ず趣味のゴルフには出かけていました。このアメリカ人のビジネススタイルと日本人の気質の違いは、日本人ビジネスマンをいら立たせ築地電通本社からの信じられない程のプレッシャーがロス電通支局に押し寄せていたに違いありません。

    先ずは、ユベロス氏のスケジュールから如何にして電通タイムを確保できるかは、至難を極めた事と思われます。日本人スタイルのビジネスマンの夜討ち朝駆けは、アメリカ人には通用しません。それでは、如何にしてビジネスアワーにビジネスタイムを確保できるかが、米国に於いてはビジネスの成否の分かれ目となるのです。

  そこで電通ロス支局は、ユベロス氏の一日のスケジュールの情報を克明にリサーチ、如何にしてその隙間を確保できるかに日々神経を尖らせたことでしょう。ユベロス氏は、必ず息抜き(ファミリータイム、ソーシャルタイム、フレンドシップタイム、リラクゼーションタイム)の為に時間を確保しています。そこで彼のゴルフタイムに狙いを定めたのでした。

③ビジネス・ミーテイング会場と化したCC

    ユベロス氏は、ロサンゼルス近辺の超名門ゴルフクラブのメンバーとして、特にその中でも名門コースのロサンゼルス・カントリークラブ(Los Angeles Country Club)、ベル・エア~カントリークラブ(BelAir Country Club)は、お気に入りであったことも確認。とりわけロサンゼルスCCは、メンバー以外の出入りが非常に厳しく(元大統領のレーガン氏もメンバーと聞き及んでいました)制限されるクラブで在り、そのため、ユベロス氏が一番よく使用するベル・エアーCCに狙いを定めたのでした。ベル・エアーCCは、市内の超高級住宅街のビバリーヒルズ、ベル・エアーと代表的な超高級住宅地域の一画にあります。場所は、WEST WOODエストウッドのUCLAキャンパスの裏山がこのベル・エアー地域なのです。

   丁度、此処には、親友の家族がその山頂付近に豪邸を構えていたため、私には付近の様子が手に取るようにわかりました。この地域は大変詳しかったのです。ベル・エア―CCについても、プレシテイージの高いゴルフクラブでありますが、幸い、私は、本CCで何度も親友の米国人とプレーしていましたので、こちらも精通していたと言えると思います。

    余談になりますが、本クラブのコースは、超有名なホールが在り、それはインの10番ホール、P3200ヤード、鋭い深い谷越えが名物ホールです。いつも私もプレッシャーを受けてプレーしていました。私の親友は、このホールをいつもスキップしてプレーしないで次の11番に向かって行っていました。その理由を会食時に訊ねると「waste of ballボールが無駄」と頭からあきらめの境地でした。また、このベル・エアーCCの特徴は、勿論カート使用もできますが、一人のプレーヤーに若い男性キャデイーを付けてくれ、バックを担いでくれ、コースのガイドもやって下さるので大変記憶に残るゴルフクラブで在ります。殆どの米国の各州の名門クラブは、リクエストすれば男性の個人キャデイーが付いてくれます。また、名門クラブのメンバーは、他州の名門コースのTタイムも予約できます。双方のメンバーにはメリットがあり、大変行き届いています。

 P・ユベロス氏をベル・エア~CC待ち伏せ

    ジミー・福崎氏は、日系米国人で電通側に立ち、米国流のビジネスコンセプトと服部氏(電通)の日本流なビジネスコンセプトを十分に心得たうえで戦略を組み立てられていたのには敬意を表します。

  彼はユベロス氏に近付き、権利獲得へと電通を導き、そして今日に至るまで世界にスポーツ・ビジネス「電通」の名をとどろかせた、電通に取ってはかけがえのない人物でした。服部氏が他の日本人ビジネスマンと異なる所は、信頼するジミー氏にキーを預けて相手とのネゴシエーションを任せる所です。

   米国人と交渉事を行うに当たり、多くの日本人の最大の問題は、ジミー氏のような立場の人を雇っているにも関わらず、日本人独特のやり方を通すことで、折角のビジネスチャンスを潰してしまう、即ち幕開けから幕閉じまで自分でやらねば気が済まない性格から針で穴を突くような事をやらかす欠点があるのです。その点、服部氏は、度量の大きな人物でした。

   此の事は、全く業界においても社会においても伏せられてきた特命事項で電通内部に於いても本プロゼクトの部門及び関係部署の人間以外は知るよしもなく、服部庸一氏の名前は知っていてもジミー・福崎氏の名は何故か外部に対しては誰もが語ろうとはしませんでした。これは、日本の伝統的な社会、組織の習慣の一つなのかも知れません。日本人には、良い意味での不思議な美徳、美学がある事を初めて認識した次第です。しかし、私は、このような伝統はフェアーな評価ではないと考えます。

   服部氏とジミー氏は、ベル・エアーCCP・ユベロス氏のゴルフプレー終了を待ちかまえ、クラブハウス内に潜り込んでのミーテイングを繰り返し行ったものと想像できます。勿論、ユベロス氏のLAOOCの委員長オフィスのミーテイングルームに於いても、またある時は、ダウンタウンのホテル会議室に於いて話が積み重ねて行われていたのです。

2.契約内容の詰めから実務作業へ、

①本社での実務作業開始

    その結果、契約書に盛り込む骨子が固まって行ったのです。それは、K'sファイルNO.4284ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.」をご参照して頂ければ理解して戴けると思われます。

  此れにより契約内容の骨子は、事務的な修正、訂正、加筆等と事務的作業がメインとなり作業部門、法文部門に引き継がれて行きます。そして、服部・ジミー部隊は、その後大きな調整事項に付いてのみP・ユベロス氏との直接交渉となり、それ以後の業務は、LAOOCから得た全ての知的財産権利を今度は築地電通本社内の各専門部門、部署の営業、企画、デザイン、等に於いて現実的な商品化作業を行い、各カテゴリーのスポンサー企業に対するセールスを遂行する重要な工程に入って行ったのです。

  LAOOCから得た権利を最大限有効に活用する為には、一業種一社に絞り込む為に各複数の業種を確定するに当たっての企業間との駆け引き交渉作業が開始されたのです。

  その結果、84ロサンゼルス・オリンピック大会での一番最初に決まった一業種一社の会社・企業は、事務機器メーカーでブラザー電子タイプライターだったのです。それは、ブラザー工業が世界に市場を求めているタイミングでもあった事です。

  筆者も本タイプライターを長年愛用したので当時のタイプライターでは、大変斬新で使いやすかったのを記憶しております。

②ジミー・福崎氏の存在と新たなWCサッカービジネスの開拓、

   私は、ジミー・福崎氏が黒衣の人間として立ち回った事をよく存じて居たので此処にご紹介させて頂きました。また、このご両人は、ロス大会プロゼクトと並行して進めていました電通のワールドカップサッカー(略:WCS)の権利獲得も最終的にまとめ上げ、発展させたのでありました。これも本ロス五輪の権利獲得の成功が大きな原動力となり次なる大きなプロゼクトへと踏み出して行くのです。本WCサッカー獲得戦略に付きましては、近日公開予定。

   電通内部では、当時服部庸一氏の部門、部署ではなく、関係部署で業務をされていた方々が、今日では私が電通で「オリンピックビジネス」を「サッカービジネス」を「世界陸上ビジネス」をやったと公言されるケースが多々あるようですが、その方々は、当時関係はされていてもキーマンではありませんでした。

キーマンは、時間と共に歴史が語る事になるのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sport

 お知らせ:次回K’sファイル45は、本ロス五輪プロゼクトのまとめを掲載させて頂きます。このまとめは、あくまで筆者の私見です。読者の皆さんと価値観が異なるかも知れませんが悪しからず。

K’sファイルNO.43:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

K’sファイルNO.4384ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

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       注河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

      PartⅠ.~電通P・ユベロス氏への攻勢と真の参謀~

 1.電通 表の参謀と裏の参謀の存在:

 今日のスポーツ電通を築いた真の侍達、

此処で、如何にして電通は、P・ユベロス氏に接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。

元来、電通P・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかった事に付いてK’sファイルNO.42で触れました。よって、本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。同氏が本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、此処に至るまでの長い実践キャリアと実績があったのです。

服部氏は、元々音楽の才能をも持ち合わせ、大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動していたというプロ顔負けの声量の持ち主であった事の紹介は以前申し上げました。しかし、この戦後間もない当時から彼のジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)がその後の彼の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけての演奏をしていたようです。そして、そこで当時駐留兵士達に米国本土からタレント、歌手達を招聘して慰問活動の担当をしていた日系人との出会いが、服部氏の将来に大きな変化をもたらす事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、記憶して置いて下さい。

その後、服部氏は、縁あって電通に就職をする事になるのでした。そこでは、また彼の趣味で在り得意であった音楽が水を得た魚の如く、彼を音楽の事業へと駆り立てて行くのです。此処では、私が音楽界及びその知識には疎いので割愛させて頂きます。

ここで彼のキャリアの中で輝かしいと私が思ったのは、大阪万博に於いてのプロデユーサーを手掛け成功、そして次には、沖縄海洋博のプロデユーサーも手掛けて成功された事を聞かして頂いたことです。このような話、話題になりますと夜も更けるのを忘れてロスのホテルで話し込んだ記憶が蘇ります。

服部氏は、一部の電通社員特有な傲慢な態度とは異なり、人当たりが素晴らしくよく、人の話に耳を傾け、特に彼の経験の少ないスポーツの世界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でありました。私の個人的な印象では、本当に電通の人間とは思えない程、物腰が低くソフトな方でした。大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友人のような親しみを覚えた記憶が濃く今も残っております。多分当時は、P・ユベロス氏との契約の見通しもメドが付き、あの日はホッとした夜だったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が在っての事も事実です。

2.電通コマンド部隊の突撃

 ジミー・福崎氏の存在と服部庸一氏の人柄、

服部氏は、如何に実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であります。彼一人では、何も出来ないのを百も承知であったようです。

そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして今は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトをしたのです。そこでの服部氏の福崎氏への頼み事は、何とかしてLAOOCの委員長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性、方法、手段を探すことを頼み込んだのです。

服部氏の側でいつも同席し、物静かに笑みを浮かべている大きな図体をした日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーでマフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通をゆるぎない基盤を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏であったのです。

ジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏に如何にして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー・福崎氏と服部庸一氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、如何に辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。

服部氏は、どこでこのジミー氏を見つけられたのか、出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休みの日にロスの私邸に招いて下さったときにお茶を頂きながらストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問バンドのマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

服部庸一氏の人柄、

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通人のイメージとは対極の人物であったのです。

彼は、決して私に対しても見下した言動態度をすることもなく、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しいおじさんでした。

このような事を十二分に理解しているジミー氏は、服部氏には全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織からジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動からも受けて取れました。このように服部・ジミーコンビは、お互いにリスペクトし合い、強い信頼と硬い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいたのだとも思います。即ち、服部氏、ジミー氏双方が互いに尊敬と信頼に足る人物と評価していたのであったと確信致して居ます。私の経験から申し上げますと、この双方の信頼関係なくして巨大プロゼクトは成り立ちません。また、プロゼクト成功後も双方のどちらかが勝手に自身の利害で双方の信義を裏切る様な行動を致しますと、このような絆で在っていとも簡単にそれまで構築して来た尊敬と信頼の絆は破綻してしまう事を、私自ら後に経験した事もあります。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画でお世話になっていた時に出会った当時、西武ライオンズの監督でありました根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差し、気配り、配慮と、とても酷似であったことも親しみを感じていました。勿論、人間として本質的な部分は、生まれも育ちも異なりますので、あくまでも表面的、客観的な部分を指します。

私は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から彼の行動、経歴、等に付きましては事前に教えて頂いていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。それは、ロス日系社会には、私の古き良き親友が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。

ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを理解していた人物でした。この人物は、最初は電通の本プロゼクトの窓口であり、責任者であった服部庸一氏の通訳として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です。

服部氏は、私がご一緒し、米国人が居る時には一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちわ、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を表の電通の参謀としますとこのジミー・福崎氏は裏の参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小生の関係とは、最終的には異なっていたようです。

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、LAOOC電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、美味しいお茶を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか測り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

裏方参謀の業務と行動力、

服部氏から依頼を受けた当時、ジミー・福崎氏もP・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。

しかし、ジミー氏は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在の1人でもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです。

和田氏は、2世として数々の功績を自身の血のにじむようなご努力と共に勝ち取り、乗り切られて来られた事をご本人から嘗てお伺いしていましたので、私は常に尊敬の念で同氏の言葉を記憶しております。同氏とは、私のロス日系人社会の超有名なご家族との関係で、この親友の親しい関係者のパーテイーでご紹介を受け、それ以降親友とご一緒に何度か会食の機会が在るごとに、若造の小生にはよく「頑張りなさい」とお会いする度に励まされ、苦労話、日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等と本当に親身になって教えて下さった事に感謝致しております。同氏に付きましては、また機会がありましたら、如何に素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。

このような事があった後に、私は、親友から「フレッドがP・ユベロス氏に電通を紹介して挙げたんですよ」という話を伺っていたので、服部氏、ジミー氏とその後お会いして話をお聞きする時には、何か不思議な人間関係の大切さ、ご縁の大事さを肌で感じずにはいられなかったのです。

ジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを勿論断る事もできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みを伝え、協力が得られるか、暫くの間、入念に思案した様子がうかがえました。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、小生は、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からもいろいろと俗世間の話を聞かされていました事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大きな機会となりました。

ジミー氏の結論は、日系人社会で確固たる実績を持たれ、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです。

勿論、彼は、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。

1979年の春も終りを告げようとする頃、ようやくジミー氏の準備が整い、和田氏のロス自宅に服部氏と同行して、いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)のコマンド部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り地ならしを完了していましたので、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクションは和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることを快諾されたのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

お知らせ:K'sファイルNO.44は、和田氏を味方に付けP・ユベロス氏への橋がかかり、双方の思惑が進行する中、新たなBIGプロゼクトに参戦しなければならない事態が発生するのです。読者の皆さんは、興味ありますか。

K'sファイルNO.42:84ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.無断転載禁止

K'sファイルNO.4284ロス五輪の成功とそのキーワードPARTⅡ.無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 

PARTⅡ.~84ロス五輪大会組織委員会・委員長の手法とその決断~

 粗筋―84ロス大会組織委員会の委員長は、選考基準の公開や、選考方法の事前告知を経て、応募者600名の中からフェアーな選考委員会(利害、利得を得る可能性の低い、その分野と社会からリスペクトされている人物)により選出されました。2020年東京大会の組織委員会・会長は、どのようにして選考されたかご存知ですか。少なくとも私は、存じ上げません。

東京大会組織委員会は、会長の選考方法も情報公開も国民、都民にはなされず、いつの間にか現人物が鎮座してしまったような記憶しかありません。

これを見ましても我が国は、グローバル化を声高に叫びながら実は伝統的な隠蔽と談合体質から抜け出せない悲しい現実が、21世紀の今日も尚、現存している事を理解して戴けたのでないかと思います。

 1984LAOOCP・ユベロス委員長の掲げた大義と勝利:

1.ユベロス氏の大義と信念とは、

P・ユベロス氏は、「このオリンピック大会開催では、アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス市の公金である税金を1セントたりとも使わず、黒字化する」と委員長就任時に掲げ宣言したのです。

一方2020年東京大会・組織委員会・会長の森喜朗氏は、就任時に何を宣言されたか皆さんご存知ですか?

P・ユベロス氏の着眼点には、有名な言葉があります。それは、「オリンピックに必要なのは、競技場でなく、その競技場に何台のカメラを持ち込めるかだ」と断言したのです。

P・ユベロス氏の強烈なコンセプトとそのビジネス手法:

2.新しいスポーツ・ビジネスの理念と明快なコンセプトとは、

P・ユベロス氏のビジネスは、「権利=Right」を最大限生かす為の手段と方法に特徴を持ったのです。

そのコンセプトは、何かが「制限」されて初めてその「制限を制限すること」ができる。つまり「権利」の意味が生じることです。

権利が与えられても、権利を持たない者との区別がなければ、やはり意味はないのです。

権利の有無により区別が無いなら、なんとかして「差別化」を図って区別を作り出す事が必要であると考えたのです。

権利を持たない者に対しては、制限を強くする程、その「制限を免除される権利」自体の価値が高くなることは明白です。

誰もが使えると言うのは、誰にも使えないというのと同じに、その使用自体には価値が生じないのです。

権利の重要なポイントは、「権利」という商品は物理的に存在しないのです。

一般の商品とは性格が異なる点に着眼したのです。

「無体財産権」は、「知的財産権」とも呼ばれ、知的にしかその存在は認められないのです。その意味は、「権利=Right」の質、価値は、価格(お金)でしか評価できい」と言う事を実践して見せたのがユベロス氏なのです。即ち、スポーツに権利ビジネスを持ち込んだわけです。(以上、同氏のビジネスコンセプトより)

このようにP・ユベロス氏は、確りとした論理的なコンセプト基盤を持って実践された、いわゆる知的戦略、戦術家であったと思います。

ユベロス氏の着眼点―:

3.成功の秘訣とキーワードとは、

ユベロス氏は、「オリンピックに必要なものは、大きな競技場ではなく、問題は、その競技場に何台のテレビカメラを入れられるかだ」と断言したのです。

一つ目の着眼点-

彼の視点は、スポーツ・ビジネスを如何にして実践し、成果を出すかの徹底したコンセプトが伺えます。それは、オリンピック自体をテレビ放送用のスポーツ・エンターテイメントとして位置付け、放送権利の売買を行うビジネスの道を開拓したのです。

この大会以降、スポーツイベントの放送権料が右肩上がりを始めたのは、ユベロス氏の功罪のうちの罪の部分であるところです。

二つ目の着眼点-

スポンサーシップという形で民間資本を活用する事が、唯一の財源を確保する術であると位置づけた事です。そして、その為には、巨大な広告代理店(AdvertisingAgency)の協力とその活用方法に着目したのです。

重要項目の一つの民間企業から得るスポンサーシップに付いては、権利をより強固にするため、一業種一社制を取り入れた事です。これにより、スポンサー広告の価値はより効果的且つ、競争原理導入でより効果が高まる事を期待したのです。(例:車のスポンサーは、世界で一社のみ)

広告代理店には、ビジネス的な権利を与える代わりに、ロス大会を成功させるために必要最低限のギャランテイー(保証)方式を取り入れて、大会成功の財政的な基盤を確保する事でした。その為には、代理店を先ず選考、指名することを最優先としたのです。

ユベロス氏は、当時日本がバブル経済を迎え、日本企業がまさに海外にマーケット(市場)を求めている事を強く認識していました。そのため、ターゲットとして日本の広告代理店「電通」を心の底では期待していたのではと推測します。しかし、誰にも心中を明かさず、彼の賢さが伺えます。

そこへ、まんまと飛び込んでいったのが電通でした。P・ユベロス氏に直接、接触を求めて行ったわけです。(本件に付きましては、次回以降に予定)

 4.何故米国の広告代理店でなかったのか、

P・ユベロス氏と広告代理店電通との関係は、元々縁もゆかりもありませんでした。よって、ユベロス氏や物事は、最初から電通ありきで動き出したわけではなかったのです。

AE制度とは、

米国の広告代理店制度は、日本とは異なり非常に厳しい制度の下で成り立っている業界です。その最大の特徴は、米国の広告代理店は、AEAccount Executive)制度が法律によって守られており、即ち一業種一社制度の事なのです。一業種一社とは、一つの広告代理店が同じ業種の代理店になれない事を意味しています。例えば、A広告代理店がフォード社との代理店契約をした場合は、同じカテゴリーのトヨタ社の代理店にはなり得ない事を意味します。

つまり、米国の広告代理店ではスポンサーセールに於いて、ユベロス氏が考えるような競争原理を活用する事が出来なかったのです。それに比べて、日本の広告代理店は、AE制度がなく各広告代理店が一業種一社の枠を超えた、複数業種一社制度の日本の広告代理店が好都合であったのです。即ち、日本の広告代理店は、一社がトヨタ、ホンダ、日産、マツダ、鈴木、等と何社でも取り扱えるという意味です。

電通内部の葛藤、

電通内部に於いては、一枚岩で在った訳でなく電通組織の体制、体質から内部での競争、闘争は激しく、常に群雄割拠のなかで、やるかやられるかのパワーゲームが横行している戦略的な組織でもあるのです。

既に当時から米国に於いては、各競技スポーツのトップアスリートをかき集めたスポーツ・エイゼンシ―(IMG社:International Management Group)を立ち上げ活動し始めた時期であったのです。内部の別グループのプロデユーサーは、服部氏、ジミー氏の機先を制するが如く、このスポーツ代理店のCEO(最高経営者)をLAOOCP・ユベロス氏のネゴシエーター(交渉人)とするべく動き出したのです。

しかし、この動きの情報を既に察知したP・ユベロス氏は、電通IMGに対して“NO”と即答したのでIMGを前面にしようと策を弄したこのプロデユーサーの企画は、実現しませんでした。(後に本プロデユサーは、電通を離れて何故か体育学部のある大学に)。これにより今迄以上にユベロス氏と服部・ジミー氏との関係は絆を深め、服部氏は、社内の闘いを制していよいよ本格的な交渉へと駒を進めたのです。

5.LAOOC電通に与えた対価としての権利とは、

ユベロス氏は、さすが一筋縄では行かないビジネス・アドミニストレーターであり一流のネゴシエーター(交渉人)でもあったのです。ビジネス交渉が具体的に動き始めたのは、確か1979年秋ではなかったかと思われます。此れは、電通側の焦りが、プロのネゴシエーターであるユベロス氏の罠に入ってゆくことを意味します。(本件に付いても、次回以降に予定)

此処で付け加えますと、LAOOCの総責任者は、P・ユベロス氏であり、唯一の対電通に対するネゴシエーターでもあった事がこの人物の強烈な個性とパワーを感じさせる次第です。(此処が20年東京大会組織委員会の責任者とは、全く異なり、非常にアクテイブな政治家的実業家でした)

最終的に、ユベロス氏が電通側に権利の中身を手渡し、同意した内容は、以下の通りです。

1.公式マスコット、エンブレムを使ったライセンス権

2.公式スポンサーとサプライヤー

3.アニメ化権

4.入場券取り扱い権

以上が合意事項であり、放映権、入場料収入権は、与えられませんでした。此れもユベロス氏のしたたかなプロのネゴシエーターの一面だったと思います。

アクチュアル予算化の重要性、

ユベロス氏は、本大会委員長を受託した後、早速に手掛けたのが大会を成功させる為に必要な自身が掲げた大義を如何にクリアーするかでした。

それは、「公金は使わない、黒字にする」のハードルを越えなければ自身のコミットメントを解消できないことを十分に承知していたのです。そこで先ずは、予算を概算でなくアクチュアル(本当に必要)な数値を設定したのです。この数値(金額)目標を電通にコミットさせれば、その時点でユベロス氏の勝利となり、ゲームオーバーとなると試算して、対電通とのネゴシエーションに臨んだのです。

6.P・ユベロス氏のビジネスキャリアと頭脳センスの勝利、

ユベロス氏は、当時バブル期を迎えていた日本経済に目を付け、広告代理店をLAOOCの公式広告代理店に指名したのです。日本の広告代理店は、電通でした。何故博報堂、その他でなかったのか。(次回以降に予定)

GIVE&TAKEの結末

ユベロス氏と電通の間では、双方丁々発止のネゴシエーション(交渉)が積み重ねられ、最終的に、ユベロス委員長は、電通の提示に満足し、組織委員会LAOOC)は電通側のギャランテイー(保証)を担保し、リスクマネージメントを回避、スポーツ・ビジネスとしては、ここでユベロス氏の一大勝利となったのです。即ち、P・ユベロス氏が提示した権利(1,2,3,4)を電通に渡す対価としてLAOOCの赤字の可能性は、無くなった事です。

此れで、ロス大会開催前に大会予算は、電通により保証され、後は、黒字化を考えるだけとなったのです。

最後に黒字化の最大の要因は、ユベロス氏が最後まで電通側とのネゴシエーションから切り離して渡さなかった、TV放映権、及び入場料収入(テイケット収入)が彼の最後の国民、州民、市民に公約した黒字化の要因となったのです。

そして、本黒字となった財源(440億円)は、全てカリフォルニア州、ロサンゼルス市の社会厚生施設に還元されたのです。

以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より~」

我が国には、残念ながら2020年東京大会開催に於けるロードマップを完成できるスポーツ・アドミニストレーターが居なかった、という事ではないのでしょうか。

 文責:河田 弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 お知らせ次回NO.43は、何故電通P・ユベロス氏に近づけたのか、如何にして電通は、今日の世界のスポーツ・ビジネス(オリンピック、ワールドカップ・サッカー、世界陸上、等)を一手にできたのか、そこには、表の参謀と黒衣の参謀の戦士が居た。華やかな舞台裏には、何かが匂い、何かがうごめき、そこには必ずキーマンが居る。

 

K'sファイルNO.41:84ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

K'sファイルNO.4184ロス五輪の成果とそのキーワード(PARTⅠ)無断転載禁止

注:河田弘道は、オリンピック・パラリンピック大会が日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 ~今日のオリンピック・ビジネスが体系づけられた実践と成果~PARTⅠ.アマチュアスポーツのビジネス化(プロへの移行)

 1.オリンピック激動の時代と変革(Change):

 ①世界のスポーツ界にカリスマ(BIG3)が出現、

1970年代のスポーツの動向は、当時の世界的な経済の動向に強い影響を受けている事です。70年代は、スポーツに関連する事業形態が、それまでとは異なるスポーツ・ビジネスが産声を上げようとしていたのです。これは、丁度私が米国に渡ってまもなく米国に於いてもスポーツの変革の時期と時を同じくしていたように肌で感じたのです。

70年代に入って、本格的にスタートしたスポーツ・ビジネスは、その後新しい可能性を求めて次世代に引き継がれ今日に至っています。

 五輪のスポーツ・ビジネスの新しい可能性は、1966年にIOC国際オリンピック委員会)委員に就任、70年に理事に昇進、そして80年には、第7代IOC会長に選出された、アントニオ・サマランチ氏(Juan Antonio Samaranch、1920~2010スペイン、バルセロナの生まれ)のリーダーシップにより勧められました。同氏は、その過程に於いて、IOC内外での政治的手腕を最大限発揮し、将来のオリンピック発展構想の推進役を担った人物です。1998年の長野オリンピックは、サマランチ氏と堤義明氏(当時西武・国土計画会長)との間の公私に渡る関係で成立した事は有名です。世界のスポーツ界の変革に貢献したBIG3の1人です。

 スポーツという概念は、元来ヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人の文化社会の流れを受け、アマチュアリズムが19世紀に英国で生まれたと言われています。このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神を「アマチュアリズム」として長年継承して来たのです。

ピエール・ド・クーベルタン男爵(フランス、1863年~1937年)は、フランスの教育者であり、古代オリンピックを復興させ近代オリンピックの基礎を築いた創立者です。同氏が提唱したオリンピック憲章のアマチュア規定は、長い間オリンピック大会及び選手、競技関係者達の自由を縛って来た為に段々とオリンピック大会開催が疲弊し財政的な赤字をともない、各国の主催都市が招致に消極的になり激減し出した事がIOCにとって最大の問題の一つとなっていた時期です。

 ②アマチュアとは、

マチュアのコンセプトは、そもそも「選手は、スポーツによる金品の授受及び生活の糧として受けてはならない事、指導者、関係者は、スポーツによる一切のビジネスは認められない事、また、それによる金銭の授受及び生活の糧を受けてはならない事」がアマチュアとしての大前提であったのです。

 日本に於いては、このような世界の動向から約10年後の1986年5月に日本体育協会 (体協) が,従来の「日本体育協会マチュア規程」を廃止し,代わりに新しく制定した,加盟競技団体の登録競技者の資格規程を改めたのです。

 ③アマチュアとの決別、

そこでA・サマランチ氏は、自身がIOCの委員時代から本オリンピック憲章のアマチュア規定の問題を検討課題とし、1970年にIOC理事に昇格、憲章からアマチュア規定の削除を提案し、それ以降強力に推進した一人であったと言われる人物です。その後1974年にオリンピック憲章の五輪参加資格から「アマチュア」という文字を削除する事になったのです。

丁度この時期のIOC内部のポリテイカルな様相は、IOC国際オリンピック委員会)会長にA・サマランチ氏(スペイン)を筆頭にIGB(国際競技連盟)のメジャー競技スポーツとされるFIFA国際サッカー連盟)の会長にジョアン・アベランジェ氏(ブラジル)、IAAF(国際陸上競技連盟)の会長にプリオ・ネビオロ氏(イタリア)と白人主導からラテン系主導へと歴史が移動した事もサマランチ氏にとっては、追い風となり改革がスムーズに遂行出来たのは確かなようです。当時、国際マスメデイアは、こぞって彼らを「ラテン系マフィア」と呼んだのも納得がいく、その後の彼らの積極的且つ手荒い言動、行動であったのも事実です。

これは、オリンピックをビジネス、商品(Merchandising)として、競技選手(Athlete)を商品であり、プロとして出場を公認した出来事へと発展させたオリンピックの革命的な変革の時期であったのです。

 2.スポーツ・ビジネスの夜明け:

 ①オリンピックにスポーツ・ビジネスアドミニストレーターが出現、

このようなオリンピックの歴史を背景に、1980年にロサンゼルス・オリンピック大会組織委員会(略:LAOOC)の委員長に任命されたP・ユベロス氏は、IOC会長のサマランチ氏の掲げたオリンピックのビジネス化を自らの手で実践され、確立されたカリスマ的人物と申し上げても過言でありません。今日のスポーツ・ビジネスの源は、この時代にこのような人達によって体系付けられたのです。1980年よりP・ユベロス氏がロス五輪で実践したスポーツ・ビジネスは、オリンピックだけでなく世界のスポーツ界のビジネスコンセプトを根底から変革するに十分な実績を残したのです。世界のスポーツ界のBIG3のもう1人です。

 84年ロス大会はオリンピックの商業化元年、

1984年ロサンゼルス・オリンピック大会は、オリンピックの商業化(ビジネス)元年と称される所以なのです。それまでのオリンピックは、常に開催国の赤字負担によるもので、段々と五輪大会が開催国、主催都市の重荷になり、IOCでは、大規模な縮小が声高に叫ばれるようになっていた時代です。しかし、サマランチ会長のリーダーシップにともない、それまで定説となっていました「アマチュアと呼ばれていたコンセプト」を五輪憲章から削除した事によりスポーツ界のあらゆる面に於いて一大変革を起こしたのです。

 これにともない1980年にロサンゼルス・オリンピック組織委員会LAOOC)の委員長に就任したP・ユベロス氏は、サマランチ会長のIOC改革の急先鋒としてスポーツ・ビジネスを実践し偉大なる成果と結果を残したのです。

 4.P・ユベロス氏はオリンピックの救世主:

 ピーター・ヴィクター・ユベロス(Peter Victor Ueberroth)は、1937年9月2日生まれ、米国実業家、1984年ロサンゼルス・オリンピッ大会組織委員長、赤字続きのオリンピックを黒字に転換した人物、その後第6代MLBメジャーリーグコミッショナー、等々を歴任。

 ①略歴:

オリンピック創設者のPクーベルタン氏が死去した1937年9月2日に米国イリノイ州で生まれる。ピーターは、長じてフランス人貴族のピエールが産み、育てたオリンピックの救世主となる。この奇妙な因縁を人は語り継いでいる。

 IOCは、78年5月、アテネで開く総会で84年開催都市を決める予定でいたのです。しかし、立候補は、ロサンゼルス市のみ、しかも、申請書によればロサンゼルス市は、財政を保証せず、一切の責任を負わない。民間の任意団体、南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)が民間資本を導入、運営する予定になっていた。IOCは、困惑した。長い歴史で考えてもみなかった事態が起きたのです。その理由は、76モントリオール大会の巨額赤字、加えて冬季大会開催予定の米国デンバー市の大会返上でした。

*カリフォルニアで育ち、高校時代はフットボール、野球、水泳で活躍。大学は、サンノゼ州立大に進み、水球で活躍、1956メルボルン・オリンピックの代表候補、代表にはなれなかった。卒業後、トランス・インターナショナル航空に就職、63年に自ら旅行会社設立、その後北米NO.2の旅行会社に成長させた。1980年、その手腕を評価されロサンゼルス・オリンピック大会組織委員長に就任した。(以上~PV・ユベロス氏バイオグラフィーより~)

 ロスオリンピック大会組織委員会、委員長選考基準項目:

1.40歳から55歳 

2.南カリフォルニア在住

3.企業経験を有す

4.スポーツ好き

5.経済的に独立

6.国際情勢に通じる

上記条件で全米600人もの候補者から絞り込まれたP・ユベロス氏でした。ユベロス氏は、当時42歳。ロス郊外に住み、従業員1人から始めた旅行代理店を北米2位に育てた実業家。

 *同氏の信条は、伝統を破壊せず。革新的であっても伝統を破壊してはならない。無駄を省き経費をかけないが、親しみやすさのなかにも威厳も必要だ。産経新聞特別記者 佐野慎輔氏取材資料より)

 以上「河田弘道のスポーツ・アドミニストレーション論:現代のスポーツ・ビジネスの巨大化原因とその歩み編より~」

上記P・ユベロス氏と2020年東京大会組織委員会・会長のプロフィール(既に皆様はご存知の通り)と比較して下されば、その違いがよく理解できるのではないでしょうか。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

お知らせNO.41を是非ご記憶して頂き、次週NO.42に入って戴ければ「なるほど」と理解、確信して下さると思います。次回NO.42PARTⅡは、1984年ロサンゼルス大会が公金を一切使用せず、440億円の黒字にしたビジネスコンセプト、その手法をご紹介致します。少し難しくなるかも知れませんので出来うる限り咀嚼させて頂ければと考えています。此れこそが知的戦略、戦術。アッと驚かれますよ。

 

K'sファイルNO.40:2020東京五輪の不可解なおもてなしPARTⅢ 無断転載禁止

K'sファイルNO.402020東京五輪の不可解なおもてなしPARTⅢ 無断転載禁止

PARTⅢ.~政治家による政治家の為の東京オリンピック大会~

     注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

 

3.スポーツ・アドミニストレーションは、国民・社会の為に:

 ①わが国のマスメデイアとグローバル社会のマスメデイアとの本質的な違い、

   誤解を恐れず申し上げますと、問題は、この状況下で我が国のマスメデイアが、この利害と利権の構図の中に組み込まれているケースが多く、真の情報が国民、社会に届けられていないと思われることです。つまり、お上にすり寄るマスメデイアでは、真に国民、社会、スポーツ界の正常化に寄与するのは難しいという事です。スポーツを話題にした番組では、日々長時間面白おかしく、商品化して視聴率を稼ぐ事を目的とする事のみならず、マスメデイアには、真に国民のオピニオンリーダーとして、志を高く持って頂きたいと心より願う次第です。

   我が国のマスメデイアの基本的な体質は、企業に雇用された1記者と表現した方が理解しやすいと思われます。その記者は、1レポーターとしての職責、責務しか所属企業から与えられておらず、ジャーナリストとしての言論の自由は与えられていないと思われます。ジャーナリストとレポーターは、本質的に異なる職域だと私は理解しています。この事を我々は、理解できていないのではないかと思うのです。よって、記者は、自身の理念、感情、倫理感をジャーナリストとして報道させてもらえない事が、大きな問題だと思います。

   我が国に於いては、国民の表現、言論の自由が法律により保証されている筈ですが、マスメデイア組織では企業の利権、利害を最優先するが為に、ジャーナリストとしての使命までもが奪い取られているようです。その為に生じている現象の一例として、紙面の記事原稿が何処の新聞社、TV、等も代り映えしない、即ちマスメデイアの紙面、TV情報、記者の特徴、個性が無くなってしまっているように感じてなりません。本来の記者、ジャーナリストは、芸能タレントさんではない筈ですが・・・。

   記者を雇用している企業は、事業(ビジネス)を最優先するが為に真実を報道できない仕組みになっていると理解した方が判りやすいかと思います。私は、権力に立ち向かい“NO” が言える真の勇気あるマスメデイア、記者で在って欲しいと切に願います。そうでなければ日本国民は、常に真の情報、知識を得られず正しい判断ができなくなります。その為には、マスメデイアが本来のジャーナリストとしての使命を堅持し、ぶれない日本のマスメデイアで在って欲しいのです。読者の皆さんは、どう思われますか。勿論、マスメデイア企業にも、記者にもジャーナリズムを堅守し素晴らしいプロフェッショナリテイーを持って、日夜活躍、活動されている企業、記者も沢山いらっしゃる事も付け加えさせて頂きます。

   此れがNYタイムズ社、ワシントンポスト社、ロサンゼルスタイムズ社、ABCCBSNBCFOX、等の先進国のマスメデイア、及びそこに所属する報道、ライター達と日本の報道企業、機関、記者達との根本的な違いではないかと思われます。よって、嘗てのワシントンポスト社の記者がジャーナリストとしての真価を発揮し「大統領の関与した事件(ウオーターゲート事件)」を告発して歴史の変革に寄与したのと、わが国の企業マスメデイアのレポーターとの違いのように思えてなりません。この国のJustice(正義)は、もう死に体なのでしょうか。K'sファイルの読者の皆さんなら理解して戴けるのではないでしょうか。

   このような、組織、構造の企業としてのマスメデイアでは、真の情報提供を期待しても難しく、このために莫大な金銭が東京大会組織委員会内部で消滅して行っていても不思議では在りません。問題は、本プロゼクトの中枢となる運営、管理者達の大多数が、競技スポーツの経営、運営、管理経験の無い人達であり、その方々が権力の中枢に居る事だと思います。莫大な公金を使用しながら、これらをチェックする第三者機関のインフラクションコミテイー(特捜部門)も設置していないのは、ワイルド過ぎませんでしょうか。

 ②オリンピックレガシー(遺産)に対する意識的誤認、

    本プロゼクトで最も気がかりな一つは、本大会組織委員会・会長氏が、事あるごとに「オリンピック・レガシーを残すのが大事」と口にして来た事です。この会長のレガシー(遺産)に対する理解と認識は、インフラ(Infrastructureの意味)、建物(箱物)を新たに建設する事がイメージの大部分ではなかろうかと思えてならない点です。

  1964年の東京大会のシンボルとしてのレガシーであった国立競技場をいとも簡単に、莫大な資金(税)を投入して壊し、不必要な新たな国立競技場、及び各競技種目の箱物を建設する事が彼らの最大の目的であったような気がしてならないのです。そうであるならば、招致活動から今日までの莫大な公金浪費の目的が大変よく理解出来、透けて見えてくる次第です。政府機関の見識ある方々は、何故ブレーキを掛けようとされなかったのでしょうか

   この目的を遂行する事により、何処の誰にどの様な恩恵とメリットがあるのか、出るのかを冷静に精査検証する必要があります。私は、公金の使用に関しては、責任の所在と責務を明確にする意味でも、1円たりとも国民、社会が理解しやすい方法で情報公開を定期的に行う義務と使命があると思います。

   祭典の後には、必ずと言ってよい程大きな財務、経理疑惑が発生するのも世の常です。後世に於いて現責任者達は、不名誉な事件を起こさない為にも手のひらがクリーンである事を口頭でなく、書き物で重要書類は少なくとも20年間破棄せず残す事を老婆心ながらご注意申し上げます。長野五輪の後、全ての重要書類が何故か破棄されていて、疑念、疑惑を証明できませんでした。

  貴重な公金は、1円たりとも無駄をして欲しくないのが真のスポーツ・アドミニストレーターの職責であり責務なのです。読者の皆さんは、後世の為にも無関心を装うことなく、勇気を持って若者たちに負のレガシーの負担を背負わせないよう能動的な日本国民で在って欲しいと切に願う次第です。

 ③真のレガシーとしてのロサンゼルス・メモリアル コロシアム、

    米国ロサンゼルスにある、ロサンゼルス・メモリアル コロシアム(Los Angeles Memorial Coliseum)は、1932年、1984年と2回のオリンピック大会を見事に開催し、2028年オリンピックでは、3度目の開閉会式を迎える予定です。此れこそがオリンピック大会招致の価値あるレガシーとしてのシンボルなのではないのでしょうか。(集客能力:約100000人、起工:1921年、開場:1923年)

  東京大会は、何故五輪招致を思考し始めた時点で「ロス方式」を検討しなかったのか、話題にも出なかった事、出さなかった事が、今後大きな禍根を残す事は必至で、既にその階段を一歩また一歩と上がっていっているのです。ロス方式は、公金を1セントも使うことなく、440億円の黒字化を遂げた素晴らしいプロゼクトモデルなのです。

注:オリンピック・レガシーとは何か。レガシーとは、近年国際オリンピック委員会IOC)が最も力を入れているテーマの一つです。IOC憲法ともいえるオリンピック憲章には記されている。「オリンピック競技大会のよい遺産(レガシー)を、開催都市並びに開催国に残す事を推進する」(第一章「オリンピック・ムーブメントとその活動」第2項「IOCの使命と役割」)。より・・・

   K'sファイルの読者の皆さんは、本件を今日までどの様に理解、評価されていましたか。此のままでは、2020年以降この負のレガシーを若い世代の皆さんが生涯かけても清算できない、また毎年莫大なレガシーの維持、運営、管理費の赤字を背負い込まなければならない事を考えた事がありますか。本来ならば、今既に大会後のレガシーの使用、活用、運営、管理のビジョンが計画書を持って明確にされ、国民、社会の理解を得ているべき重要なプロゼクトであるべきです。これがあって初めて本大会のプロゼクトの評価がなされ、スポーツ・アドミニストレーションの真価が問われるのです。

   私は、招致活動を今日まで推進して来た人達が、本プロゼクトを建設的なビジョンの下に取り行ってきたとは信じがたいです。異なる理念と野心を持った政治家及びその集団とその関係者は、国民と社会をミスリードして行く可能性が限りなく高く、これらは、本質的にリスクマネージメントとは異なるのです。

 文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 お知らせ:次回K’sファイルNO.41は、「84ロス五輪の成果とそのキーワードPARTⅠ」世界のスポーツ界の歴史的BIG3と呼ばれる人物達の出現とその時代に付いてお届けいたします。此処では、スポーツ・アドミニストレーターの資質が如何に大事で大切かを是非再考して頂ければ幸いです。

K'sファイルNO.39:2020東京五輪の不可解なおもてなし PARTⅡ 無断転載禁止

K'sファイルNO.392020東京五輪の不可解なおもてなし 無断転載禁止

PARTⅡ.~政治家による政治家の為の東京オリンピック大会~

                注:河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。

                       しかし・・・

 

2.政治家たちの真の思惑:

①招致活動成功後の利権代表達の抗争、

   招致活動の進展と共に、利権を巡る抗争は激化していきます。最終的には、都知事を中心とした都議与党と、もう一方は国会議員の利権代表である元文部大臣で自民党総裁、総理大臣経験者の森喜朗氏を雛壇に祭り上げた国会議員連盟団という構図です。この2大勢力グループの本プロゼクトに於ける最終目的は、いったい何だったのでしょうか。両グループがけん制し合い、潰し合い、激突したのは、多分本プロゼクトの目的が両陣営共に酷似していたからだと思われます。また、どちらが最終的な権力、利権を握ってもよいように最初から両陣営に二股掛けていた政治家、関係者もおり、彼らには、双方の思惑がよく透けて見えていたと思われます。

   このような優柔不断な節操の無い政治家及びその関係者の態度と行動は、事の次第をより複雑化し、長期化し、国民、社会に対しての信頼を失った結果ではないかと思われます。社会、国民の目は、そんなに節穴ではないと思いますが如何でしょうか。

   彼らは、双方美味しい利権に肖りたい、強奪したいが為に政治家の理念も道徳観念もかなぐり捨て権力・利権闘争に飽きもせず明け暮れています。誠実で正直な政治家、関係者は、ほんのわずかながらいる事も確かですが、正論は届かなかったようです。

  勝ち組は、既に彼らの目標を達成しているのかも知れません。また、負け組は、新たな利権を求めて2020年後を見据えた、大学競技スポーツ利権の構築の為に「日本版NCAA」というキャッチコピーを掲げて、文科省スポーツ庁を焚きつけて現在進行させているようです。次は、教育機関の利権狙いか。

注:本件に付きましては、長年筆者が米国大学、NCAAでの実践経験者でありましたので、タイミングをみてスポーツ・アドミニストレーターの視点で、NCAAは何たるかを述べさせていただきますのでご期待下さい。これもまた無から有を生む新たな利権開発に教育者と言う名の方々も参戦し、学生達が巻き込まれて行っています。

  さらに、当時の大義「震災復興」が、いつの間にか消えて無くなり、現在はオリンピック・パラリンピック大会を我が国、東京都に持って来た意義もコンセプトもいつの間にか見えてこないようになったのが現実ではないでしょうか。よって、元々招致活動を推進するには、大義となり得る「震災復興」がIOC理事達、海外・国内へのアピールに必要であったのだと思われます。

    しかし、推進者達は、この大義に対するプロゼクトマニュアルも持たず、ただの「キャッチコピー(目を引く餌)」程度にしか考えていなかった事が、今日の状況を物語っているように思えてなりません。これらの関係者は、国民が選挙で選んだ国民の代表、都民が選んだ都議、都知事の発想、見識、モラルかと思うと、私は、我が国の将来を憂えていますが、私だけなのでしょうか。此れも国の今日の平和が逆に起因しているのかも知れません。

   招致活動でのプレゼンテイションでIOC理事達のみならず、国際社会、国民に告知し、約束致した「お金の掛からないコンパクトなオリンピック・パラリンピック東京大会にする」約束事は、いったい何だったのか、どうしてこのよう手段を取ってまで突き進んでしまったのでしょうか。国民、社会は、マスメデイアの報道にただ浮かれている場合でないように思えてなりませんが・・・残念です。

 ②利権代表達の抗争の終焉、

    此のところ日本の新聞各社は、2020年東京大会の費用に付いて、昨年暮れに総額1兆3500億円(うち都は6000億円負担)と報じました。しかし、先日は、都が新たに8100億円追加の必要性を発表しました。勿論これらの追加資金投入も都民の税金から投入するという意味です。此れでは、小池都知事の力強かった選挙前後の公約、勢いが空手形同然でそれまでの知事と何ら代わり映えしません。現在は都知事の存在感すら薄れてしまったと感じられるのは、如何なものでしょうか。現都知事が、嘗ての都知事と異なる点は、女性でオリンピック利権に手を染めさせてもらえていないところでしょうか。

    此処でスポーツ・アドミニストレーターとしての視点で申し上げますと、スポーツ・アドミニストレーションに於きましては、このような国際的なイベントに国を代表、都民を代表する政治家がむやみやたらに絡んで参りますとスポーツ大会及び競技スポーツの本質が変質し、見失われてしまう事です。この東京大会の実例は、それを証明していると思われます。

    今まさに開催されています、2018年平昌(ピョンチャン)冬季五輪は、北朝鮮平壌ピョンヤン)五輪と揶揄されていますが、国際政治に翻弄された大会と化してしまいました。本来は、IOCの統括責任者であるバッハ会長が前面にでて、行き過ぎた五輪大会の政治家、政治利用に歯止めをかける勇気と技量が必要不可欠でした。今後に禍根を残した大会となった事は、五輪の歴史に新たな汚点を残した事になりました。これで、公金を利用した五輪大会は、政治、政治家に利用、活用される大きなリスクが伴う事が証明されました。東京大会も同じ運命を背負っている事を忘れてはなりません。

    今日の2020年東京大会のアドミニストレーションは、まさに真のスポーツ・アドミニストレーターが不在で政治家集団の利権争奪ゲームが現在最終局面を展開していると申し上げても過言でありません。彼らの目的、目標は、本大会に関する利権闘争という政争ゲームでメダルを獲得する事であり、震災復興、競技スポーツはそのためのツール(道具)としてしか見えていないのでしょう。

   勿論、このような世界最大の競技スポーツのイベント招致、開催には、国を代表する政治家が関わる事も「ある部分」では確かに必要です。しかし、東京大会は、最初から政治家及びその官僚関係者、OB在りのために、本スポーツ・アドミニストレーションをより複雑化し、真のスポーツ界のリーダー(求心力、仕切る人間)を不在にし、談合がよりやりやすい手法を形成していると思われます。

  これは、起きるべきして起きている我が国の伝統的な手法の一つです。何事もバランス感覚を失い、何方かに極端に偏重すると本質を失い国家と国民に被害が増幅する事を、考えもしない人達なのかも知れません。

   この手法を用いる事で競技スポーツのアドミニストレーションは棚上げされ、まさにJustice(正義)もFairness(公正・公平)も無き、負のレガシーが構築されようとしているのです。

 文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the SPORTS

 お知らせ:次回K’sファイルNO.40では、本課題とテーマのまとめPARTⅢ.をお届け する予定です。主な項目:③わが国のマスメデイと先進国のマスメデイアの 本質的な相違、④オリンピックレガシー(遺産)に対する意識的誤認、⑤84ロサンゼルス大会の大義と結果、を予定致しております。段々と興味深い展開が待っていそうです。