Kファイル╱スポーツドクトリンNO.225:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅴ)    スポーツマーケティンの戦場

Kファイル╱スポーツドクトリンNO.225:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅴ)    スポーツマーケティンの戦場

無断転載禁止             毎月第二、第四木曜日 掲載

河田弘道

スポーツ・アドミニストレイタ-

スポーツ・アドミニストレイションの基軸は“Justice正義&Fairness公正”

日本にスポーツ・アドミニストレイション論の必要性を紹介

日米で実践してきたスポーツ・アドミニストレイターの先駆者

(プロフィールは別途ご検索下さい)

 

筆者からの便り

 現代社会では、優柔不断な情報が連日連夜溢れています。それらの情報は、どんな記事でも、TV報道でも2,3日騒がれたら紙くず同然で過去のものとなります。しかし、人は、世の中がどんなに軽薄でフェイク情報が溢れていても、真実の記事、報道は人の心の深層に沈殿しそれが真実か否かを読者視聴者は気付くものです。そして、そうできる人達は、誠実な心を持った賢い人であると思われます。筆者より

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目次

Ⅰ.スポーツマーケティングの権益をめぐる熾烈な闘い

 先ず初めに

 1.スポーツマーケテイングの開祖と言われた男

            ■ホルスト・ダスラー氏の出現

       アデイダス社の系譜と歴史

 2.アディダス社の主力商品はサッカー&陸上

           ■サッカー・ビジネスにマーケテイング権を確立

           ■スポーツに於けるマーケティングの位置付け

Ⅱ. 戦場と化したスポーツマーケティングの抗争

 1.SMPI社の設立

   ■登場人物及び関係企業の整理とリスト

 2,出遅れた電通

          ■電通の報復は凄まじかった

 3.電博戦争の終焉

まとめ

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2024年6月27日 木曜日                    公開

河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編(Ⅴ)

スポーツマーケティングの戦場             無断転載禁止

 

Ⅰ. スポーツマーケティングの権益をめぐる 熾烈な闘い

 

先ず初めに

 此れ迄Kファイルに於いて、スポーツとビジネスの関係については、機会あるごとに述べて参りました。スポーツビジネスは、マーケティングと一体化しているいわば経営の源を支える必要不可欠な部門なのです。

スポーツマーケティングは、いわば近年の競技スポーツをスポーツマスメディアと共に支えて参った重要な柱を担っているのです。KファイルNO.225に於きましては、このスポーツマーケティングがビジネスの世界で如何に過酷な環境の中で組織と組織、団体と団体、そして個人の戦いの中で熟成され、競技スポーツが如何にして商品価値を高め、マーケット(市場)を通して皆様に届けられているのか、生(なま)の実態を例に挙げてお伝えできればと思います。その為には、このスポーツマーケティングの発展に命がけで取り組んだ野心に満ちた男達のポジティブな側面の素顔をご紹介致します。

1.スポーツマーケテイングの開祖と言われた男

ホルスト・ダスラー氏の出現

   ホルスト・ダスラー氏(Horst Dassler/1936年~1987年)のマーケティング戦略に付いて述べる前に、先ずは彼のバックグラウンドを理解する事が彼を知る上で重要なファクターと考えられます。

同氏は、シューズメイカーであるアデイダス(Adidas)社の創業者であるアドルフ・ダスラー氏(AdolfDassler/1900~1978)の次男でアデイダス社の2代目の最高責任者(略:CEO=Chief Executive Officerの意味)であったことを先ず記憶して頂きたく思います。

アデイダス社の系譜と歴史

   1900年 - アディダス創始者であるアドルフ・ダスラー氏は、ドイツのニュルンベルク近郊のヘルツォーゲンアウラハで、靴職人の息子として誕生しました。

アデイダス(Adidas)社は、アドルフ・ダスラー氏のニックネームであるアデイ(adi)とダスラー(dassler)から来ていると言われてきました。アドルフの妻は、アデイダス経営に従事していたカタリーナさんです。

1924年に、アドルフ氏は、兄ルドルフ氏とダスラー兄弟製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)を設立し創業を始めたのです。

1928年のアムステルダム五輪に於いて、アドルフ氏のシューズは、多くのアスリートに提供され、これが会社の国際的名声と発展に繋がり、「アデイ―シューズ」として初めてその名を博しました。

1936年のベルリン五輪では、米国のジェシー・オーエンス選手にシューズを提供した結果、アデイ―のシューズを履いた同選手が4個の金メダルを獲得し、さらなる名声を世界にとどろかせたのです。

その後1948年、ダスラー兄弟は、袂を分かつ事に成り、弟のアドルフ氏は、アデイダス(Adidas)の創業者として、兄のルドルフ氏は、隣町にプーマ(Puma)を起業し創業者となったのですアディダス社&プーマ社は、ダスラー兄弟に寄り設立された企業なのです。一般的に、この事はあまり業界でもご存じでない方が大多数です。

アデイダス社は、当初よりつい近年まで長年スポーツ用品の最大手メーカーとして世界に君臨して参りました。しかし、近年1970年初期に米国に於いて起業したナイキ社の台頭により、今日の世界のマーケットシェアーは、ナイキ社に大きく水を開けられる事となったのです。この理由に付きましては、本シリーズでスペースがあればご紹介致したく思います。

1930年代に入るとダスラー兄弟はナチに入党。しかし、アドルフ氏より兄ルドルフ氏の方がより熱心な国家社会主義者であったと当時から評されていました。アドルフ・ヒットラーは、アドルフ・ダスラー氏の職人気質を期待してか、ドイツ国防軍のブーツを生産するために重宝された一方、ルドルフ・ダスラー氏は徴兵され、後にアメリカ軍の捕虜となったと記録されています。

兄のルドフル氏は、弟のアドルフ氏と、性格も異なり兄弟それぞれ類まれな才能を持った人物であったようです。しかし、兄弟は、第二次大戦下での軍政下に翻弄され、問題に巻き込まれ、それが原因で兄弟の袂を分かつ結果となる運命であったようです。

アドルフ氏は、職人気質を受け継ぎ、根っからの靴職人であったようです。しかし、兄ルドルフ氏は、性格も異なり経営、マネージメント力に長けていたのです。此の為か兄弟の間では、常に意見の食い違いがあった事も想像できます。

■アドルフ氏の長男として生まれたホルスト・ダスラー氏は、アデイダス社の2代目として事業を継承しました。彼は、類まれな経営、政治、ビジネス・マネージメント力に才能を持った人物であり、後に世界のスポーツ界を席巻するようになったのです。1978年にアドルフ氏はヘルツォーゲンアウラハで死去、77歳でした。(以上ダスラー家のバイオグラフィーより)

アディダス社の主力商品はサッカー&陸上

■サッカー・ビジネスにマーケテイング権を確立

1978年W杯のアルゼンチン大会までは、サッカーフィールド内のピッチ周辺に置く広告看板を試合ごと、ティームごとに切り売りをしていたのです。

そして、当時は、近年のようなスポンサーシップ形態の「1業種1社」の独占担保権もなく、1業種に複数社の広告看板が出ているというありさまだったのです。

国際サッカー連盟FIFA)は、ワールドカップ(W杯)に関わる諸権利の帰属が不明瞭であるだけでなく、大会組織委員会に帰属するものもあれば、FIFA保有しているものもありで、全く統制が取れていなかったのです。こうした混乱した状況を整理し、FIFAの持つW杯に、ビジネスマーケティングの必要性を打ち出し、マーケティング権を確立し、統合する事を実践した人物が現れたのです。その名は、ホルスト・ダスラー氏です

このホルスト・ダスラー氏こそが、世界のスポーツ界BIG3の3人目の人物です。注意:これで世界のスポーツ界のBIG3IOCサマランチ氏、84ロス五輪のユベロス氏、そしてこのダスラー氏)と出そろった次第です。

■スポーツに於けるマーケティングの位置付け

   スポーツマーケテイングとは、スポーツサービスを供給する事であり、簡単に言えば「売れる仕組みを作る」こと、と理解して戴ければわかりやすいと思います。その為には、顧客のニーズを第一と考える事です。つまり、消費者のニーズに合ったスポーツサービスを提供して、その対価を得る関係をより効率よく、より多く築く事がマーケテイングの趣旨、目的となると思われます

スポーツサービスの供給には、基本的にはスポーツサービス組織とスポーツ消費者との間の交換関係で成り立っています。メガ・スポーツイベント(オリンピック、サッカーWC、各メジャースポーツ世界選手権、等)は、単純な交換関係のみで成り立たず、そこにはマスメデイアや代理店(Agency)の介在、仲介が必要となるのです。代理店自身が独立したスポーツ組織として活動する時代になっているのです。

ホルスト・ダスラー氏は、スポーツマーケティングに関わる諸権利を初めて統合的に管理する必要性を見せた人物でした。1982年サッカーWC(ワールドカップの略)スペイン大会は、FIFAワールドカップにかかわるマーケテイング権を初めて総合的に束ねた大会でした

FIFA: Federation of International Football Association 国際サッカー連盟の略称)

 そのマーケテイング権とは、大会のマークの使用権、ピッチに看板を出す権利、呼称権、等をパッケージ・セール(これらを一つまとめにして販売する意味)にまとめたのですその前のアルゼンチン大会までは、ピッチ周辺に置く看板を試合ごと、テイームごとに切り売りしていたのです。

H・ダスラー氏は、スポーツという新しいメデイアが持つ力に事のほか興味を持ち神経を集中させたのです。彼は、1970年代からIOC国際オリンピック委員会や、FIFAをはじめとするIF(International Sports Federations)と呼ばれる国際スポーツ連盟に接近し、特にIOCサマランチ氏、FIFAのアベランジュ会長、UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のアルテミオ・フランキ会長、IAAF(国際陸上競技連盟)のプリオ・ネビオロ会長との仲は、血縁よりも濃い関係と囁かれていたのです。当時これをマスメディアは、スポーツマフィアと揶揄したのです。

WCサッカーの商業化権(Business Rights)を6つに分類:

1.興行権(テイケット収入)

2.ピッチ看板掲出権(大会だけの看板)

3.マークの使用権(FIFAのロゴや大会マーク、スポンサーが広告やプロモーションに使用する権利)

4.呼称権(例:SEIKOは、FIFA WCの公式スポンサーです)と名乗る

権利

5.ライセンシング権(例:大会マークをTシャツなどのマーチャンダイジング商品に使用する権利)

6.放送権(1998年まで、放送権はFIFAが放送局と直に取引していた)

Ⅱ. 戦場と化したスポーツマーケティングの抗争

1.SMPI社の設立

 ホルスト・ダスラー氏は、スポーツという新しいメディアが持つ力に事のほか注目を注いだと言われています。彼は、1970年代からIOC国際オリンピック委員会や、FIFAをはじめとするIF(International Sports Federations)と呼ばれる国際スポーツ連盟に接近し、FIFA, UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)など各団体のサッカー連盟のマーケッテイング権を獲得したのです。同氏は、政治的手腕と能力を持ち合わせていたのです。                           

 ホルストダスラー氏は、その後、パトリック・ナリー氏と共同で、マーケティング権を管理するSMPI社(スポーツマーケテイング会社)をモナコに設立したのです。SMPI社は、株式の51%をホルスト・ダスラー氏が保有、パトリック・ナリー氏が49%保有するパートナーシップであったのです。

SMPI社が設立当初保有していた権利は、FIFA, UEFAの他、4大会のマーケッテイング権であったのです。

1.FIFA WC

2.UEFA ヨーロッパ選手権(EURO)

3.UEFA ヨーロッパ・クラブ選手権(現在のチャンピオンズ・リーグ)

4.UEFA カップ・ウイナーズ・カップ(廃止。現在はUEFA CUPに統合)

この4つの大会の諸権利は、「INTERSOCCER4」としてパッケージで全世界にセールスしていたのが、ウエスト╱ナリー社(上記商品の販売代理店)だった。このパッケージには、世界のサッカーの目玉となる大会を全部集めた、価値ある内容の物件でした。将来の金のなる木と称されたのです。 

■登場人物及び関係企業の整理とリスト

1.ホルスト・ダスラー氏(アデイダス創業者の息子で長男、スポーツマーケテイングの開祖と呼ばれる人物)

2.パトリック・ナリー氏(ウエスト╱ナリー社の創設者)

3.ピーター・ウエスト氏(BBCの解説者、パトリック・ナリー氏のパートナー)

4.SMPI社(権利保有会社):ホルスト・ダスラー氏とパトリック・ナリー氏

5.ウエルト╱ナリー社(スポンサーパッケージ販売代理店、マーケテイング会社)

6.ウエスト╱ナリー・ジャパン社は、日本での販売を博報堂(広告代理店)とタッグを組んだ。ウエスト╱ナリー・ジャパン社のジャック・坂崎氏は、日本代表としてセールスを行った。(坂崎氏:日系米国人、テニスのスポーツマーケテイングビジネスを先駆け、Davis Cup, Federations Cup、等を手がけていた。現在は、米国に戻っている)

このセールスは、当時既に世界最大の広告代理店となっていた電通でなく、NO.2の博報堂を通してであったのでした。(博報堂JFAと当時良い関係にあり、93年のJ-League設立に際しても代理店であった)

2.出遅れた電通

 4大会の看板パッケージは、当時約30億円。J・坂崎氏(ウエスト/ナリ―社の日本代表)は、最初は王手の電通にセールスをかけたが鼻にも引っ掛けられなかったのです。電通の担当者は、「30億、一桁違うんじゃないの、全然だめだよ、こんな数字では、、」と追い返してしまったと聞いています。当時この対応は、「電通側の嫌がらせ」と言われた。その根拠は、「坂崎さん、あなたがやれるような物(ブツ)じゃないだろう。全て俺らによこしなさい」が電通の本音であったのです。

電通に追い返されたジャック・坂崎氏は、博報堂に共同セールスを持ちかけたのです。博報堂は、セイコー、キャノン、日本ビクターJVの3社とFIFA WC スペイン大会のスポンサー契約を結んだのです。ワールドワイド公式スポンサー10社のうち、3割を日本企業が占めたのです。この時期の日本は、まだ大型バブルが始まる前、サッカー人気のなかった時代でした電通は、まさか坂崎の口車に博報堂が乗るなど予想外であったのです

筆者(河田)がJ・坂崎氏に直接お目にかかったのは、丁度小職が米国大学に軸足を置き西武・国土計画に足を踏み入れた時期に品川プリンスホテルに同氏が小職を訪ねて来られた時、とその後筆者がNEC本社のスポーツ・アドミニストレイターとして、在籍していた時に丁度坂崎氏と博報堂の担当部長がテニスのデイビスカップのスポンサーセールスの為にNEC本社の宣伝部を訪れた時にお会いしたのが2度目だったと記憶しております。

 当時小職は、ジャック・坂崎氏の手腕と情熱に敬服すると同時に、サッカーWCがグローバルなイベントであることを即座に評価してスポンサーとなった日本企業の見識に驚いたのです(これは、坂崎氏のセールスプロモーション力、プレゼンテーション力の賜物)。その後、米国の企業がFIFA WCに対する評価を改めたのが、1994年大会が米国で開催されてからだったと思います。

電通の報復は凄まじかった

 FIFA、サッカーWCのスポンサーセールスを全て博報堂に持って行かれた電通は、指をくわえて見ているわけではなく辛辣な次の一手にでたのです。

電通は、博報堂が日本企業のスポンサーを獲得した後、当時1984ロサンゼルス・オリンピック大会における日本企業対象のスポンサーシップとライセンス権を独占販売していたのです。此のことから電通は、ロサンゼルスオリンピックの関係者ルートからFIFA、サッカーWCの権利保有会社(SMPI)へ接近し、その屋台骨を骨抜きにして解体に追い込む手段と作業に打って出たと申し上げても過言でありませんでした。

サッカーWCビジネスで博報堂に反撃したい電通は、ウエスト╱ナリー社との連携に限界を感じていたホルスト・ダスラー氏の野心を掴むや否や、ダスラー氏とウエスト/ナリ―社の切り崩しに着手したのでした。これにより電通は、ダスラー氏との交渉に成功するや否や、1982年のWCスペイン大会開催中に「FIFA&サッカーWCのマーケティング権を強奪」に成功したのです。これがその後業界で語り継がれた「スペイン大会の悲劇」だったのです。即ち、ホルスト・ダスラー氏は、パトリック・ナリー氏達から電通に乗り換えたのでした。 

これにより、ウエスト╱ナリー社は、FIFAに切り捨てられたことによりジャック・坂崎氏も廃除され、博報堂はビジネスゲームに敗退したのでした。広告代理店博報堂は、1982年のWCスペイン大会でのホルスト・ダスラー会長(アディダス社)の裏切りに寄り、FIFA国際サッカー連盟)の保有するサッカーのマーケティング権を失い1984年のロス五輪のマーケティング権を含め以降のメジャーの国際大会全て電通に持っていかれ、今日に至っている次第です。

3.電博戦争の終焉

 その後博報堂は、ひ弱なJFA日本サッカー協会)に狙いを定め、当時JFAがプロリーグ(J-リーグ)の設立を目論んでいたのでJFAのJ-リーグのオフィシャル広告代理店として参入したのでした。しかし、1993年にJ-リーグ機構として開幕した後、数年後には、博報堂は静かに姿を消し、JFA、J-リーグ機構のマーケティング権利を電通に奪いとられたのでした。

この後、電通は、ホルスト・ダスラー氏と組んでISL社をスイスに設立したのです。FIFAの関わる重要なイベント全ての広告、マーケティング権を手中にしたのです。しかし、ホルスト・ダスラー氏亡き後、また、ISL社が財政難に陥ったこともあり、電通は、ISL社を解体し独自にFIFAとの間で新組織を設立し、ホルスト・ダスラー氏らを排除して全権を確保、今日に至っているのです。

これで電通は、世界最大のスポーツイベント・ビジネスのオリンピックIOC国際オリンピック委員会)と世界最大のサッカービジネスのFIFA国際サッカー連盟)、IAAF(国際陸上競技連盟)、その他とビッグスポーツ大会の全ての独占販売権を獲得して現在世界のスポーツビジネスを席巻しているのです。

まとめ

  このようにスポーツマーケティング界は、マーケティング本来のコンセプトからは程遠い世界に足を踏み入れている事を読者の皆さんは気付かれたのではないでしょうか。マーケティング理論を語る教育機関での机上とは異なり、生き馬の目を抉り出さんばかりの修羅場に於いては、個人、弱小組織がクリエイト(創作)した英知の商品を巨大な組織団体が理不尽な戦略を駆使して、強奪して行くスポーツマーケティングの世界を垣間見て頂けたでしょうか

このような事は、読者の皆様の足元手元で大小は異なれど日夜行われ、起きていると申し上げて過言ではありません。

この様な戦略は、間違った方向に利用、活用されているのが国家間の利権争いであり、領地の分捕り争いとして他国に手を掛け我がものにしようとする侵略戦争の原形となっている事を忘れてはなりません。

我が国に於いてもつい先だって、東京五輪を我が物にしたかったがために、招致活動に於いて裏金をばら撒きIOC委員達を強奪、組織委員会は、森喜朗氏を筆頭に電通を実行部隊に従えて利権、権益を我が物にしている姿はまさにスポーツマーケティング電通スタイルを引用した盗賊集団であったのです。しかし、これを取り締まる機関、組織、団体が同類では、ワールドカップスペイン大会での出来事同様に正論者は抹殺され生き残れないという現実を見せられた気がしてならないのです。読者の皆様は、どう受け止められたでしょうか。

本編では、ネガティブな裏の暗部に付いては適切でないと判断して表現するのを控えました。しかし、恐ろしい闇の世界があるのも事実です。

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文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:G-File「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社 著 武田頼政

本著は、2006年10月発売、翌年完売の為現在はAmazonで中古オークションで入手可能。河田弘道の西武・国土計画、東京読売巨人軍での激闘の日々のドキュメントです。登場人物は、全て実名です。

Kファイル/スポーツドクトリン、News Comment by Hiromichi Kawada

お知らせ:

Kファイルの読者に皆様は、スポーツマーケティングの国際舞台でのほんの一部を覗かれ多分驚かれたのではないでしょうか。TVの視聴者として映像を楽しんでいる皆様は、まさかこの様な裏舞台が在るとは夢にも思われなかったことでしょう。

これも競技スポーツ外でのビジネス競争であり、ビジネスアスリートと呼ぶに相応しい企業戦士達なのです。