Kファイル╱スポーツドクトリンNO.226:河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編  炎天下での未成年者への部活の是非

Kファイル╱スポーツドクトリンNO.226河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編  炎天下での未成年者への部活の是非

無断転載禁止               毎月第二、第四木曜日掲載

河田弘道

スポーツ・アドミニストレイタ-

スポーツ・アドミニストレイションの基軸は“Justice正義&Fairness公正”

日本にスポーツ・アドミニストレイション論の必要性を紹介

日米で実践してきたスポーツ・アドミニストレイターの先駆者

(プロフィールは別途ご検索下さい)

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目次

Kファイル╱スポーツドクトリンNO.226河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編  炎天下での未成年者への部活の是非

炎天下での未成年者への部活の是非

文科省スポーツ庁は正気の沙汰か

炎天下での部活動を何故止めない

  ■部活の定義を如何に理解と認識しているのか疑問

  ■都合の良い所だけを米国からコピーする習性

  ■未成年者を持つ父母に知識が必要不可欠

我が子を守るのは父母しかいない

まとめ

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2024年7月10日11日 木曜日  公開

Kファイル╱スポーツドクトリンNO.226河田弘道のスポーツ・アドミニストレイション実践編  炎天下での未成年者への部活の是非

無断転載禁止

炎天下での未成年者への部活の是非

Ⅰ.文科省スポーツ庁は正気の沙汰か

炎天下での部活動を何故止めない

    未来の国家の担い手であり財産である、青少年達をこの酷暑の炎天下に晒して殺す気か!! 文科省スポーツ庁自治体、中学体育連盟、高校体育連盟、高校野球連盟、他スポーツ協会は、無為無策の現実を何と心得ているのか。競技大会、トレイニング中に命の危険、怪我、障害への対応、対策もままならない、責任の所在が明確でないなど何とする。これでは、殺人者として告発されるかもしれませんよ。

 本日は、7月7日「七夕」でした。日本各地では、まだ梅雨が明けない中で連日猛暑(摂氏35度以上)が全国各地に発生、今日は酷暑(摂氏40度以上)が既にこの時期に発生している超危険な気候変動が近年人類を襲っている次第です。

 このような現実と実態の中で、日本の教育機関に於いては、連日部活動と称する競技スポーツの大会及びそれに付随するトレイニングが昔も今も変わらず、炎天下の下、屋内の体育館と劣悪な環境の中で行われています。この事を指導者、運営者、管理者、行官庁の関係者達は、何を思考しているのだろうか。これら関係者の大半は、冷房の効いた室内で冷茶をすすっているに違いないこれを称して、クレイジーなスポーツ・アドミニストレイターと呼ばれても仕方あるまい。この状態は、まさにあなた方自身が暴力による指導、運営、管理を自らされていると申し上げても過言でありません

また、日本の教育機関(中学、高校、大学)に於いては、これら部活を指導する指導者達の大半は保健・体育学の1級、或いは2級の教員資格を有する教員がこの指導と任に当たっている事を読者の皆様は御存じでしょうか。そして、この教員指導資格の認定を許可し、高所から指導、指示を与えているのは、文部科学省であり所轄のスポーツ庁から「お上の声」を発しているのです。我が国に於いては最高の教育に関する機関とされているのです。

これら最高の機関に勤務する為には、伝統的にアカデミックな偏差値の高い大学を出て国家公務員試験をパスした、要するにエリートと称する背広組の人達なのです。これらの人達は、教育機関の部活がどの様な実態の環境と高温多湿な場所で行われているかなど、自らの経験も体験も無い人達の集合体の様に思えてならないのです。これらの方々は、一度先ず現場を体験、経験したのちに省庁、機関に配属されるべきであると提案させて頂きます。但し、国会議員の裏コネクションでスポーツ長官をはじめとする要職の椅子に座れることも事実の様です。

近年マスメディアに於いて、この部活に関わる問題を取りざたしている記事、報道を目の当たりにする機会が多くあります。その殆どは、指導者による暴力事件(身体的な暴力、セクハラ、パワハラ、イジメ、強要、等々)であります。また、生徒選手、学生選手同士の暴力、或いは、指導者を含めた暴力から生徒・学生選手を死に追いやる事件も多々起きているのも事実です。この度は、この劣悪な自然現象の炎天下の下で部活を強いている現実が如何に理不尽且つ無責任なスポーツ・アドミニストレイションかを述べさせて頂きます。

■部活の定義を如何に理解と認識しているのか疑問

   先ず、部活の定義を文科省スポーツ庁は、どの様に位置づけているのでしょうか。担当者自身がよく理解されて指導されているとは思えないのが実態です。ここに於いては、時事の話題として間もなく始まります夏の高校野球を事例に上げて説明させて頂くと判りやすいかと思われます。読者の皆様は、既に理解、認識されていると思われますが、高校野球はあくまでも「教育の一環」です。それは高校野球連盟が準ずる「日本学生野球憲章」にも明確に謳われています。

第1第2条(学生野球の基本原理)

学生野球における基本原理は次のとおりとする。

[1]学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする

[2]学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする。

[3]学生野球は、学生野球、野球部または部員を政治的あるいは商業的に利用しない

[4]学生野球は、一切の暴力を排除し、いかなる形の差別をも認めない

[5]学生野球は、アンチ・ドーピングの教育、啓発、対策への取り組みを推進する。

[6]学生野球は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する

[7]学生野球は、国、地方自治体または営利団体から独立した組織による管理・運営を理念とする。

出典:日本学生野球憲章

以上は、学生野球憲章に謳われています基本原理とされている項目です。これらは、学生野球に関わらず、教育機関に於いて行われているスポーツ部活の基本原理と思われます。読者の皆様は、上記項目に目を通されてどのように感じられましたでしょうか。この基本原理は、遵守されているとは思えませんが如何でしょうか。遵守されているなら、こんな馬鹿げた40度の炎天下で未成年者たちに競技スポーツを強いるでしょうか

筆者は、本項目を拝読し先ず最初に感じたのは、現場に於ける実態との乖離が甚だしい事、即ち絵に描いた餅で「実態とは異なる」と感じた次第です。本日論じています問題の基本原理は、[6]に明記されています。これは、まさに基本原理と真逆な運営、指導、管理が夏の高校野球大会で行われている事です

高校野球は、教育の一環であらねばなりません。その根拠は、部員の健康を維持・増進させる施策を奨励・支援し、スポーツ障害予防への取り組みを推進する。と明記されています。 これらは、まさに保健・体育に於ける基本理念であり、重要なコンセプトなのです。

現在の運営、指導、管理は、本基本原理に相反する行為を中体連、高体連高野連文科省スポーツ庁は行わせていると理解しますが、如何でしょうか。責任ある関係者達は、見て見ぬふりをしているのが現実の様です。確かに、小手先だけの改善が成されては居るようですが、改革とは言い難く基本原理には抜本的な修正箇所及び罰則規約、規定が必要不可欠である事を提言致します

これだけ教育に反する運営、指導、管理が高いリスクと共になされている事に対して、生徒に不慮の事故が起きた場合の補償の有無、障害保険の有無が何処にも明記され担保されていないのは、非常に野蛮な組織団体で教育の一環とは言い難いのですが、如何でしょうか

日本の教育機関の指導・管理の下部活は、年中同一部活の同一種目を行わせている事にもこの様な自然の気候変動に対処できない根本的な問題を抱えているのだと思います。

■都合の良い所だけを米国からコピーする習性

   マスメディアに掲載される記事、報道には、正しく、正直に掲載されていない事に常々素朴な疑問を持っています。それは、何かこのような日本の教育機関のスポーツ部活に於いて、都合が宜しくない事件、事故が生じると報道するのみで、解決策は述べていないのです。米国では、どうなのかと米国の中学、高校、大学の部活を日本を擁護できる個所のみをピックアップされ、他の重要で知って欲しい個所は都合よく湾曲されている記事を目に致します

例えば、米国には、文科省スポーツ庁なる省庁は存在しません。それは、必要とされていないからです。スポーツ省庁及び関係機関、マスメディアでは、「NCAA=National Collegiate Athletic Association、全米大学競技スポーツ協会」の事を全米大学体育協会と平気で誤訳し、嘘を押し通しているのは、上記説明の一部です。Athletic(競技)を体育(Physical Education)だと言い通す愚かな専門家と称するフェイク民が蔓延しているという事なのです。

本来教育機関は、何故夏休みが何の目的のためにあるのか、を文科省スポーツ庁の背広組さん方自身理解できていないのではないのでしょうか

米国の教育機関に於ける部活(競技スポーツ)は、基本的にシーズン制を敷いています。よって、教育機関に寄り認定を受けているスポーツ部活は、それぞれのシーズン(秋、冬、春、夏)に指導者、運営、管理者の下で行われます。それ以外は、指導者による指導、施設の使用、等々は、認められていないという事なのです。

但し、個々の生徒選手、学生選手がオフシーズン中の自主トレイニング(個人練習、等)は、自己責任(保護者)の下で自由に行われています。ここ(米国)でいう夏休み(約3カ月間)は、教育機関の施設の利用と指導者による指導は基本的にご法度なのです。教育機関の教員、職員、指導者達は、全てが契約雇用制度が適用されています。この夏休み期間は、契約雇用期間ではありませんので、個々の教職員、指導者達は、自由な時間で管理職以外は殆ど他の仕事をしていると理解して下さい。よって部活指導に付き合ったり、奉仕する時間の必要も無いという事です。これらは、非常にシンプル且つフェアーなスポーツ・アドミニストレイションなのです。

高校生の夏休みは、新学期スポーツをする為の資金の調達、ポケットマニー(おこづかい)の調達、新学期に備えての資金の調達の為のアルバイトと主に社会貢献活動の為の時間に当てています。

大学生達の約70%以上は、親からの援助、支援を受けないのでこの夏休みは新学期からの生活費、授業料、教科参考書代、医療費、等々の蓄えをする為の学生生活の死活を掛けた3カ月となっているのです。

高校生、大学生達の多くの仕事場は、社会人があまり仕事場として好まない生産業の労働を好んで選ぶのは賃金が高い事が全てであります。短期間の重労働ではあるが、賃金が良いので選ぶのです。炎天下での仕事も厭いません。このことは、新学期から単位取得に集中できるための貯蓄が最大の目的なのです。即ち、彼らは炎天下の下で泥まみれ、汗まみれになって稼いでいるという事です。これは、米国の平均的な学生達の伝統的夏季休暇の過ごし方なのです。

日本の若者達との違いは、部活で大変な夏休みを過ごす生徒、学生達と夏季休暇を活用してやがて訪れる社会人としての自立、自己管理への経験と新学期への準備をしなければならない現実的な立ち位置の違いなのかも知れません。この違いの要因は、社会、文化の違いもあるようですがが、伝統的な家庭の子供の育て方の違いが大きいのも確かなようです。よって、日本のように1年中同種のスポーツ競技を酷暑であろうが、厳寒であろうが競技、練習を行うなどありえない理由を理解して頂けたら幸いです。

筆者は、両国に於いて指導者としてのキャリアとスポーツ・アドミニストレイターの専門職から実践経験者の視点で申し上げています。日本では、私も幼いころから一つの事を始めたら最後までやり抜け、やり抜けないような奴は、何をやっても一人前にはなれない。これは、即ち「職人」を養成する為の金言として敬われて来たのでした。しかし、これを教育、スポーツには、当てはまる言葉ではなく、迷信にしか過ぎませんでした

■未成年者を持つ父母に知識が必要不可欠

我が子を守るのは父母しかいない

     炎天下の下であなたの子供が練習、試合の名の下で連日競技スポーツに取り組んでいます。父母として毎日何の心配もなく送り出されていますか。生命の危険を背負い、障害、怪我をしたら、大切な子供の行く末に対しての準備はどうされていますか。

例えば、幼いころから甲子園を目指して、そしてプロ野球を夢見て年中野球に没頭する子供達は、今日も昔も同じであります。読者の皆様は、幼い頃に保護者、或いは、本人が野球で遊ぶのが好きで野球に取り組んでいく姿を見て、何か気付きませんでしたか。日本の子供達には、一度野球を始めると他のスポーツへの移籍が出来ない環境が伝統的に仕組まれているのです。幼いころから野球に打ち込む姿、父母のサポートと素晴らしい取り組みである事に同意、賛同致します。

しかし、人は、個々に異なる身体能力或いは頭脳能力が備わっている事から野球には不向き、適合しない子供達が現れてくるのです。それらは、中学から高校2年生頃迄の間ではないでしょうか。これらの変化と認識は、本人が一番肌で感じる時期であります。しかし、この時期に本人、父母が目覚めても他の部活(競技スポーツ)への移籍は、難しいと申し上げて過言でありません。

日本の大学教育機関に於いても同様で、本人の希望の有無を問わず、良しと思った大学、学部に入学できても、入学後にその大学、学部に馴染めず他大学の他の学部に転学をと考えても、それを阻む色んな障害がある事に身を持って直面して、最後に諦めざるを得なくなるのです。勿論、各大学の規約、規則には、転学は自由と明記されています。しかし、転出する側、転入を受け入れる側の協力体制は、無に等しいのです。これは、競技スポーツに於いても日本の教育機関は非合理的な構造とシステムにより、アンフェアーな環境であることを付け加えさせていただきます。

米国の教育機関の構造とシステムからは、日本で起きている様な夏の高校野球大会の問題、他大学、他高校への転校・転学不可など起きるわけもないのです。夏季休暇に於いては、社会に出て自立心を養い自己管理が出来よう懸命にアルバイトを通して学んでる時期です。残念ながら、このような事実を日本のマスメディアは、報道しませんのでいつまで経っても米国のスポーツの在り方、ポジティブな思考、実態を日本の青少年達、関係者達、社会に情報が届いていないので理解も浸透もされない理由がここにあったのです。

筆者は、米国がよくて日本が駄目だと評しているのではありません。日本の子供達には、もっと選択の予知とそれをサポートして挙げられる環境と人材が必要であると申し上げているのです

まとめ

最期に筆者が不思議に思う疑問点をお伝えして終わりにしましょう。

日本の部活指導者を何故「顧問」と呼ぶのか。顧問と呼ばれている人は、その特化した部活を指導しているし、監督とも呼んでいます。何故顧問と呼ぶのでしょうか。どうもこの呼び方一つにしても、不思議な事情が教育機関にあるようです。それは、この顧問(スポーツには縁遠い教員を含む)はその部活の指導者であり管理者であり、お巡りさんの役目を任じられ教育機関からのお目付け役をさせられているのが、真意なのです。このお目付け役が子供達に暴力を振るってはいけません。

大学の部活は、学生達の自治活動であると明治後期以降今日迄約1世紀にも渡り矛盾した看板を掲げて来ていますこの活動の概念は、サークル活動レベルを前提にしてのものだと思われます。これは、大学側に都合がよいからで、学生、生徒の都合ではありません。学生の自治活動であれば、部活の部長に何故大学の正教授職の人間を付けるのか。此れも、中学、高校の部活の顧問と同じ役目をさせているようです。表は、部活は教育の一環であるとの見せかけから来ているようです。基本的に学生の自治活動なら大学は、指導管理責任も財政における負担も基本的には軽減できるという意味の様です。

中・高校の部活の指導者を教育機関、管理者達は、何故コーチと呼ばせないのか。大多数は、保健・体育の専門教員、指導者ではないのか。この保健・体育の指導者は、何を学んで教員資格を得たのか。未成年者の心身の健康と維持増進を趣旨・目的とした学問を学び資格を得て、職務、職責に付いているのではないのか。或いは、指導者、教員は、真夏の炎天下の下で生命のリスクを最大限負わせながら、生徒選手を鍛える事が保健・体育の趣旨・目的であると指導され教員・指導者資格を授与したのか。日本の最高学府の大学は、保健・体育の教職課程でこの様な教育活動に反するような指導を何故肯定するのか。

保健・体育の専門家と称される省庁の大臣、高官、お役人、大学機関で専門家と称して講義授業、研究に励んでいる教授達は、何故炎天下で子供達を指導、運営、管理している実態と関係者に対して、声を大にして「NO」を通達しないのか。

少なくとも筆者は一度もこの声を耳にした事が無いのは何故なのか。この専門家と称する教員、指導者は、せっせと紀要論文、学会発表論文、学位論文を年中書き続けています。このような紙に何を書こうが、生徒、学生、社会に還元、役立つ学問・研究でなければ、無意味であり己の昇進と職の確保の為の物であると言われても仕方あるまい。

保健・体育の学問は、果して実践の場でどれ程の成果と結果を示しているか。今一度見直すべき時が、日本にも漸く訪れたように思われますが、如何でしょうか。米国に於いては、確か1980年代後半ごろから漸く、各大学に於いて体育学部なる看板を下ろし始めた時期であった事を記憶しています。それは、また米国で生まれた「エアロビクス運動」が日本に渡って来た時期に重なる様です。筆者は、この生みの親である、運動生理学者のDr.ケニス・クーパー氏とMrs.クーパー氏に直接運動の科学的な根拠を学んだ頃が懐かしい。

文責:河田弘道 

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emmissary of the Sports)

紹介:G-File「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社 著 武田頼政

本著は、2006年10月発売、翌年完売の為現在はAmazonで中古オークションで入手可能。河田弘道の西武・国土計画、東京読売巨人軍での激闘の日々のドキュメントです。登場人物は、全て実名です。

Kファイル/スポーツドクトリン、News Comment by Hiromichi Kawada

お知らせ:本編は、急遽時事の重大問題として取り上げました次第です。読者の皆様の読後感は、如何でしたでしょうか。パリ五輪を目前にして、日本国内では、この様にして若者達を危険にさらして迄五輪、五輪と何を考えているのでしょうか。代表選手のアスリート達は、東京五輪でこれ程まで利権まみれで不正政治家まみれにも関わらず、一言も意見も“NO”も言えない、言わないのです。やはりアスリートは、只の筋肉の塊に過ぎないと揶揄されても仕方のないマシーンなのでしょうか。もっともっと文武両道を声高に出来る人間として成長する事を切に願う次第です。