K’sファイルNO.43:84ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

K’sファイルNO.4384ロス五輪は世界のスポーツ電通の基盤(PartⅠ.)

                                      無断転載禁止

       注河田弘道は、オリンピックが日本で開催される事に大賛成です。しかし・・・

      PartⅠ.~電通P・ユベロス氏への攻勢と真の参謀~

 1.電通 表の参謀と裏の参謀の存在:

 今日のスポーツ電通を築いた真の侍達、

此処で、如何にして電通は、P・ユベロス氏に接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。

元来、電通P・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかった事に付いてK’sファイルNO.42で触れました。よって、本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。同氏が本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、此処に至るまでの長い実践キャリアと実績があったのです。

服部氏は、元々音楽の才能をも持ち合わせ、大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動していたというプロ顔負けの声量の持ち主であった事の紹介は以前申し上げました。しかし、この戦後間もない当時から彼のジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)がその後の彼の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけての演奏をしていたようです。そして、そこで当時駐留兵士達に米国本土からタレント、歌手達を招聘して慰問活動の担当をしていた日系人との出会いが、服部氏の将来に大きな変化をもたらす事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、記憶して置いて下さい。

その後、服部氏は、縁あって電通に就職をする事になるのでした。そこでは、また彼の趣味で在り得意であった音楽が水を得た魚の如く、彼を音楽の事業へと駆り立てて行くのです。此処では、私が音楽界及びその知識には疎いので割愛させて頂きます。

ここで彼のキャリアの中で輝かしいと私が思ったのは、大阪万博に於いてのプロデユーサーを手掛け成功、そして次には、沖縄海洋博のプロデユーサーも手掛けて成功された事を聞かして頂いたことです。このような話、話題になりますと夜も更けるのを忘れてロスのホテルで話し込んだ記憶が蘇ります。

服部氏は、一部の電通社員特有な傲慢な態度とは異なり、人当たりが素晴らしくよく、人の話に耳を傾け、特に彼の経験の少ないスポーツの世界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でありました。私の個人的な印象では、本当に電通の人間とは思えない程、物腰が低くソフトな方でした。大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友人のような親しみを覚えた記憶が濃く今も残っております。多分当時は、P・ユベロス氏との契約の見通しもメドが付き、あの日はホッとした夜だったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が在っての事も事実です。

2.電通コマンド部隊の突撃

 ジミー・福崎氏の存在と服部庸一氏の人柄、

服部氏は、如何に実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であります。彼一人では、何も出来ないのを百も承知であったようです。

そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして今は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトをしたのです。そこでの服部氏の福崎氏への頼み事は、何とかしてLAOOCの委員長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性、方法、手段を探すことを頼み込んだのです。

服部氏の側でいつも同席し、物静かに笑みを浮かべている大きな図体をした日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーでマフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通をゆるぎない基盤を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏であったのです。

ジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏に如何にして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー・福崎氏と服部庸一氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、如何に辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。

服部氏は、どこでこのジミー氏を見つけられたのか、出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休みの日にロスの私邸に招いて下さったときにお茶を頂きながらストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問バンドのマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

服部庸一氏の人柄、

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通人のイメージとは対極の人物であったのです。

彼は、決して私に対しても見下した言動態度をすることもなく、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しいおじさんでした。

このような事を十二分に理解しているジミー氏は、服部氏には全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織からジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動からも受けて取れました。このように服部・ジミーコンビは、お互いにリスペクトし合い、強い信頼と硬い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいたのだとも思います。即ち、服部氏、ジミー氏双方が互いに尊敬と信頼に足る人物と評価していたのであったと確信致して居ます。私の経験から申し上げますと、この双方の信頼関係なくして巨大プロゼクトは成り立ちません。また、プロゼクト成功後も双方のどちらかが勝手に自身の利害で双方の信義を裏切る様な行動を致しますと、このような絆で在っていとも簡単にそれまで構築して来た尊敬と信頼の絆は破綻してしまう事を、私自ら後に経験した事もあります。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画でお世話になっていた時に出会った当時、西武ライオンズの監督でありました根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差し、気配り、配慮と、とても酷似であったことも親しみを感じていました。勿論、人間として本質的な部分は、生まれも育ちも異なりますので、あくまでも表面的、客観的な部分を指します。

私は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から彼の行動、経歴、等に付きましては事前に教えて頂いていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。それは、ロス日系社会には、私の古き良き親友が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。

ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを理解していた人物でした。この人物は、最初は電通の本プロゼクトの窓口であり、責任者であった服部庸一氏の通訳として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です。

服部氏は、私がご一緒し、米国人が居る時には一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちわ、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を表の電通の参謀としますとこのジミー・福崎氏は裏の参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小生の関係とは、最終的には異なっていたようです。

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、LAOOC電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、美味しいお茶を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか測り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

裏方参謀の業務と行動力、

服部氏から依頼を受けた当時、ジミー・福崎氏もP・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。

しかし、ジミー氏は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在の1人でもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです。

和田氏は、2世として数々の功績を自身の血のにじむようなご努力と共に勝ち取り、乗り切られて来られた事をご本人から嘗てお伺いしていましたので、私は常に尊敬の念で同氏の言葉を記憶しております。同氏とは、私のロス日系人社会の超有名なご家族との関係で、この親友の親しい関係者のパーテイーでご紹介を受け、それ以降親友とご一緒に何度か会食の機会が在るごとに、若造の小生にはよく「頑張りなさい」とお会いする度に励まされ、苦労話、日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等と本当に親身になって教えて下さった事に感謝致しております。同氏に付きましては、また機会がありましたら、如何に素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。

このような事があった後に、私は、親友から「フレッドがP・ユベロス氏に電通を紹介して挙げたんですよ」という話を伺っていたので、服部氏、ジミー氏とその後お会いして話をお聞きする時には、何か不思議な人間関係の大切さ、ご縁の大事さを肌で感じずにはいられなかったのです。

ジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを勿論断る事もできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みを伝え、協力が得られるか、暫くの間、入念に思案した様子がうかがえました。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、小生は、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からもいろいろと俗世間の話を聞かされていました事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大きな機会となりました。

ジミー氏の結論は、日系人社会で確固たる実績を持たれ、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです。

勿論、彼は、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。

1979年の春も終りを告げようとする頃、ようやくジミー氏の準備が整い、和田氏のロス自宅に服部氏と同行して、いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)のコマンド部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り地ならしを完了していましたので、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクションは和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることを快諾されたのです。

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレーター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

お知らせ:K'sファイルNO.44は、和田氏を味方に付けP・ユベロス氏への橋がかかり、双方の思惑が進行する中、新たなBIGプロゼクトに参戦しなければならない事態が発生するのです。読者の皆さんは、興味ありますか。