KファイルNO.196:今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

KファイルNO.196:今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

無断転載禁止              毎月第二、第四木曜日 掲載

スポーツ・アドミニストレイター

日本に初めてスポーツ・アドミニストレイション論を導入

日米で実践スポーツ・アドミニストレイターの先駆者

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目次

KファイルNO.196:今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

    Kファイルは7年前から東京五輪の結末を確信していた

      ■今日のスポーツ電通は嘗ての夜討ち朝駆けの魂の抜け殻集団

Ⅰ.電通のスポーツ・ビジネスは一人の交渉人無くしては今日のスポーツ電通は無かった

      ■P・ユベロス氏(LAOOC委員長)への攻勢と真の参謀

    電通コマンド部隊の投入

      ■ジミー・福崎氏の立ち位置

      ■服部庸一氏の人となり

      ■裏方参謀の業務と行動力(F/勇・和田氏との出会い)

      ■電通とP・ユベロス氏はここに繋がった

 

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Kファイルは7年前から東京五輪の結末を確信していた

■今日のスポーツ電通は嘗ての夜討ち朝駆けの魂の抜け殻集団

   東京五輪組織委員会、広告代理店電通は、昨年(2022年)2月から東京五輪に関わる重大な贈収賄問題が取りざたされ始めました。その後、今日迄読者の皆様の多くは、五輪組織委員会の関係者達により国民の貴重な公金が、湯水のように個人と企業の懐に入って行っていた様子が地検特捜部に寄り白日の下に晒され出している事はご承知の通りです。

詳細は、「kファイルNO.191■スポーツを食い物にする悪徳政治家と省庁の代官達」の項目で既に指摘済。2022年6月、大会組織委員会は、「大会経費は1兆4200億円だった」と発表しました。しかし、大会の直接的必要経費は、「1兆7000憶円であった」ことを会計検査院に指摘された次第です。

此処で忘れてはならないのは、東京五輪招致委員会がIOCの総会でプレゼンテイションで提示した経費は総額「約7300憶円」だったことを覚えているでしょうか。しかし、今年の会計検査院が明らかにしたのは、東京五輪に要した総経費は「3兆6800億円」と認定したのです。公益財団法人である東京五輪組織委員会は、なぜこの会計検査院が認定した総額の使途を明らかにせず、数値を極端に縮小して見せる事にしてしまったのか。それでは、差額の莫大な経費はいったい誰がどの様にして何の理由で隠しているのか。

本件ついて、東京五輪組織委員会森喜朗会長(当時)、橋本聖子(森氏セクハラ発言後の代行)、事務総長の武藤敏郎氏、副会長竹田恒和(当時招致活動買収疑惑によりJOC会長職も定年退職と嘯いて去り)、副会長の山下泰裕(竹田氏不祥事疑惑退任後)らは、本重大事件に対する説明、責任の所在すら今日も尚一切を語らないという無責任且つ非常識な対応を致している次第です。

我が国は、このような不誠実でアンフェアーな人間を何処の誰が何のために推薦し、任命してこれらの要職に着かせるのが全く持ってBLACKBOXの実態なのです。

筆者は、東京五輪招致活動から今日迄あらゆる角度のネットワークを通して情報収集を怠りなく、政治家の嘘と電通の暗躍活動、招致委員会の面々、組織委員会の面々、JOCの面々の言動、行動、等を含めた東京五輪に関わる案件をスポーツ・アドミニストレイターの立ち位置と視点で観察、洞察させて頂いて参りました。勿論、IOC(国際オリンピック委員会)及び各IF(各国際競技団体)の動向並びに人間関係も海外の友人、知人達からの情報のリテラシーを通じてウオッチングさせて頂いております。

自身の長年の本業界での経験と体験からか、その動向、思惑は、手に取る様に洞察できる次第です。僭越ながら、長年の本業界で生きて来たプラクティカルなホークアイ(Hawkeye)からインプットされる記憶脳には研ぎ澄まされた真の情報を整理、分析、それらを加味しながら蓄積して参っております。 

KファイルNO.195掲載以降、多くの読者より「Kファイルで述べられているロサンゼルス五輪が一切の公金を使わず黒字化までした、そのP/ユベロス氏(LAOOCの委員長)の手腕、そして電通が初めてスポーツに関わった経緯と今日の東京五輪の実態を比較したいので是非教えて頂きたい」との強いリクエストが届いています。

その提案する読者達の多くは、何故東京五輪を招致した方々、東京五輪組織委員会の中枢の役員達はロス五輪の成功を学ぶための議論も全くしなかったのかについても強い疑問をお持ちの様子です。そこでKファイルでは、もう一度ロス五輪での成功と東京五輪での失敗の本質的な問題を詳しく整理をしながら解説を致したいと思った次第です。

それにより賢い筈の日本人が、こんな馬鹿げた東京五輪招致とその事業に莫大な公金を何故次ぎ込んでまで東京五輪開催に突っ走ったのか、を国民・社会は見当もつかない様子です。私は、ロス五輪組織委員会(LOOC)の手法を学ぶことで東京五輪を招致に導いた人達、組織委員会の重鎮達がロス方式を好まなかったその真意と深層を理解して頂けるのではと思う次第です

既に7年前からKファイルに於いてこれらの本質的相違は、ご説明させて頂いていました。しかし、読者の皆様の多くは、当時はまだKファイルBLOGの存在をご存じでなかったのだと思われます。そこで、筆者は再度整理をしながら解りやすく皆様にご紹介致す事もKファイルの使命かとこの度掲載させて頂く事に致しました。

このことから筆者は、スポーツ事業に電通が手を出し、今日に至った経緯をご説明する事で、当時の電通がどの様な人達に寄り今日に至ったかをより興味深く理解して頂けるのではと考えた次第です。それにより初期の電通がスポーツに手を伸ばして来た当時の電通の姿勢とこの度の東京五輪に於ける電通のビジネスコンセプトに大きな異変がある事に気付かれることを期待いたします

Kファイル読者の皆様には、ロサンゼルス五輪組織委員会が契約社会である事に対して、公益財団法人東京五輪組織委員会は、談合(忖度)社会の違いを理解して頂けるのではないでしょうか。

 

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2023年3月9日                       公開

K’sファイルNO.196:今日のスポーツ電通を築いた真の侍達

無断転載禁止

Ⅰ.電通スポーツ・ビジネスは一人の交渉人のお陰

■P・ユベロス氏(LAOOC委員長)への攻勢と真の参謀

元来、電通とP・ユベロス氏との間には、何の接点も関係も持ち合わせていなかったのです。それではいかにして電通は、P・ユベロス氏に接触できたのかに付いて、読者の皆さんの興味にお応えしなければなりません。本プロゼクトの作業は、電通側に取っても白紙からのスタートで在ったと申し上げて過言でありません。

先ず電通側の本プロゼクトの最前線の責任者であり、プロデユーサーは、服部庸一氏で在りました。同氏が本企画プロゼクトの責任者に突然なった訳ではありません。同氏は、此処に至るまでの長い実践キャリアと実績をスポーツ以外で持っていたのです。

服部庸一氏は、元々音楽の才能に長け、青山学院大学時代から仲間たちとジャズバンドを結成、演奏活動していたというプロ顔負けの声量の持ち主であった事の紹介は以前申し上げました。しかし、この戦後間もない当時から彼のジャズバンド(名称:ハワイアンバンド)がその後の彼の人生と人間関係を広める大きなツールとなるのです。当時バンド時代には、座間の進駐軍(米軍キャンプ)にまで出かけての演奏をしていたようです。そして、そこで当時駐留兵士達に米国本土からタレント、歌手達を招聘して慰問活動の担当をしていた日系人との出会いが、服部氏のその後の人生に大きな転機をもたらす事になるとは、勿論当時は本人も想像もできなかった事でしょう。この出来事を読者の皆さんは、是非記憶して置いて下さい

その後、服部氏は、縁あって広告代理店電通に就職をする事になるのでした。そこでは、また彼の趣味で在り得意であった音楽の才能が水を得た魚の如く、彼を音楽の事業へと駆り立てて行くのです。此処では、私が音楽界及びその知識には疎いので割愛させて頂きます。

しかし、その後彼のキャリアの中で輝かしいと私が思ったのは、大阪万博に於いてのプロデユーサーを手掛け成功、そして次には、沖縄海洋博のプロデユーサーも手掛けて成功された事を聞かして頂いたことです。このような話、話題になりますと夜も更けるのを忘れてロサンゼルスのリトル東京にあるニューオータニホテルの部屋で話し込んだ記憶が蘇ります。

服部氏は、一部の電通社員特有な傲慢な態度とは異なり、人当たりが素晴らしく、大変よく人の話に耳を傾ける特徴がありました。特に彼の経験の少ないスポーツの世界の話題には、ことのほか好奇心が旺盛な方でありました

私の個人的な印象では、それまで耳にしていた電通人とは思えない程、物腰が低くソフトな方でした。大先輩に対して大変僭越ですが、私は同氏と即意気投合して何十年も昔からの信頼できる友人のような親しみを覚えた記憶が濃く今も残っております。

多分当時は、P・ユベロス氏との契約の見通しもメドが付き、あの日はホッとした夜だったのかも知れません。勿論、彼の成功には、電通という巨大な看板が在っての事も事実です。確か、この様な時期でしたか本社電通は、サッカー界にも手を出し始めていたのでした。そこで当時サッカーのプロゼクトティームに参加していた高橋正之氏なる電通社員の名を同氏の口から出たの事を私の耳に残っていました。この方が何かトラブルを起こしている、米国側からバックアップしてやらなければサッカープゼクトは破綻する。

この時、私はあまり興味を持たなかったのでした。ただ、此の高橋氏の名前は、なぜか耳の奥に残っていた次第でした。今日東京五輪組織委員会で、このような悪さをしでかして氏名が露呈しましたので、服部氏の当時の高橋氏の問題の本質及びその真意が記憶野から蘇った次第です。

電通コマンド部隊の投入

■ジミー・福崎氏の存在

服部氏が、いかに実績のある辣腕プロデユーサーと云えどもそれは日本国内での事であり、また専門分野外のスポーツプロゼクトでありましたので彼一人では、何も出来ないのを百も承知であったようです。そこで、彼は、学生時代から旧知の中であった、そして今は座間キャンプからロサンゼルスに戻っていたジミー・福崎氏にコンタクトをしたのです。服部氏の福崎氏への頼み事は、何とかしてLAOOC(ロサンゼルス五輪組織委員会)の委員長のP・ユベロス氏に服部氏自身が直接会える可能性、方法、手段を探すことを頼み込んだのです

服部氏の側で常に少し斜に構えて控え目に同席し、物静かに笑みを浮かべている大きな日本人離れをした日系人のおじさんがいつも座っていたのが先ず大変印象的でした。何も知らない観光客がその光景を見たなら、ホテルのロビーでマフィアのボスに寄り添うボデイーガードと誤解されそうな光景でした。

そのおじさんこそが、今日世界のスポーツ電通にゆるぎない基盤を構築した服部氏の陰で心血を注いだ日系二世のジミー・福崎氏その人であったのです

ジミー・福崎氏は、電通の本プロゼクトの担当責任者の服部庸一氏と一心同体で、P・ユベロス氏にいかにして服部氏を会わせる事ができるかのリサーチから始めた人物です。ここで、本論に突入する前にジミー・福崎氏と服部庸一氏(電通)の関係に付いて先ずは、整理をして置きましょう。これは、当時私がロサンゼルスでお会いしたころに彼らから教えて頂いた記憶を基にご紹介させて頂きます。

このジミー氏なくしては、辣腕の服部氏でもこのBIGスポーツ・ビジネスをまとめ上げる事は、不可能に近かったと私は、今もそう確信しています。

服部氏は、どこでこのジミー氏を見つけられたのか、出会ったのかと不思議でしたので、ある日、ジミー氏が休みの日にロスの私邸に招いて下さったときにお茶を頂きながらストレートにお聞きしました。それは、何とあの座間の進駐軍の駐留兵士への慰問バンドのマネージメントをしていた時に服部さんのジャズバンドとの出会いから始まった事が判り、漸く点が線で繋がった訳です。

■服部庸一氏の人となり

以前にも述べましたが、服部氏は、電通人とは全く異なるタイプでしたので最初の出会いから大変好感を持ちましたが、ジミー氏の話を聞くにつけて、彼の人柄と温かさ、そして責任感とまるで電通人のイメージとは対極の人物であったのです。

彼は、決して私に対しても見下した言動態度をすることもなく、高圧的で肩で風切る仕種もしない本当に優しいおじさんでした。

このような事を十二分に理解しているジミー氏は、服部氏には全幅の信頼を寄せ、服部氏も電通という組織からジミー氏を最後の最後まで守られている様子が服部氏の言動からも受けて取れました。このように「服部・ジミーコンビは、お互いにリスペクトし合い、強い信頼と硬い絆が在って、一大プロゼクトに挑んでいた」のだとも思います。即ち、服部氏、ジミー氏双方が互いに尊敬と信頼に足る人物と評価していたのであったと確信致して居ます。

私の経験則から申し上げますと、この双方の信頼関係なくして巨大プロゼクトは成り立ちません。また、プロゼクト成功後も双方のどちらかが勝手に自身の利害・利得で双方の信義を裏切る様な行動を致しますと、このような絆で在ってもいとも簡単にそれまで構築して来た尊敬と信頼の絆は破綻してしまう事を、私自ら後に別プロゼクトで身を持って体験した事がありますのでよく理解できます。

服部氏は、丁度私が西武・国土計画でお世話になっていた時に出会った当時西武ライオンズの監督でありました根本陸男氏に風貌、物腰、言葉使い、眼差し、気配り、配慮と、とても酷似であったことも親しみを感じていました。勿論、人として本質的な部分は、生まれも育ちも異なりますので、あくまでも表面的な部分を指します。

私は、ジミー・福崎氏の事はロスの日系人コミュニテイーのスポークスマン達から彼の行動、経歴、等に付きましては事前にリサーチをしていましたので、お会いする前にある程度のイメージは整っていたと思います。それは、ロス日系社会には、私の古き良き親友が沢山いますので、必要な情報には事欠きませんでした。

ジミー・福崎氏は、日本人気質をよく理解し、日本流のビジネスコンセプトを日本人以上に理解していた人物でした。この人物は、最初は電通の本プロゼクトの窓口であり、責任者であった服部庸一氏のトランスレイター(通訳)として、次にコーデイネーター(調整役)として、そして遂にはネゴシエーター(交渉人)として電通側の立ち位置で服部氏の分身として一心同体で活躍された重要な役割を担った中心人物の1人です

服部氏は、私がご一緒し、米国人が居る所では一度も英語での会話を聞いたことはありませんでした。同氏は、米国人との会話に於いてもジミー氏が丁重に通訳をされていました。勿論、挨拶時には、こんにちわ、有難う。またお会いしましょう。等は、英語で会話されていたのを記憶しております。

服部庸一氏を表の電通の参謀としますとこのジミー・福崎氏は裏の参謀とあえて申し上げる事に致します。この二人の関係は、後の私の東京読売巨人軍時代の長嶋茂雄氏と小職の関係とは、最終的には異なっていたようです。それは、プロとしての業務内容を異にしていたのと服部、ジミー氏双方は、互いに裏方同士の関係であったからです。

ジミー氏は、服部氏をP・ユベロス氏に会わせる為のアレンジメント、そして交渉、契約と完璧な黒子に徹した人物でした。私がこの方に初めて会ったのは、LAOOCと電通の間で略交渉、契約の見通しが付いた頃であったと記憶しています。彼のロスのご自宅に招かれ、美味しいお茶とコーヒー、菓子を頂きながら数々の世間話をして下さった事は、その後の私の人生にどれ程貴重で価値ある財産になったか測り知れませんし、今も深く感謝申し上げております。

■裏方参謀の業務と行動力(F/勇・和田氏との出会い)

    服部氏から依頼を受けた当時、ジミー・福崎氏もP・ユベロス氏とは、何の面識も関係も無くしばし努力はするが確信は持てなかったようでした。

しかし、ジミー氏は、LAOOCのメンバーの中に日系人オピニオンリーダー的存在の1人でもあり、米国西海岸に於ける日系人社会の成功者の1人として、その社会では絶大な信頼と尊敬の念を持たれていたフレッド・勇・和田氏(日系2世)がいる事に気付いたのです。

和田氏は、2世として数々の功績を自身の血のにじむようなご努力と共に勝ち取り、乗り切られて来られた事をご本人から嘗てお伺いしていましたので、私は常に尊敬の念で同氏の言葉を記憶しております。同氏とは、私のロス日系人社会の超有名なご家族との関係で、この親友の親しい関係者のパーテイーでご紹介を受け、それ以降親友とご一緒に何度か会食の機会が在るごとに、若輩の小生にはよく「頑張りなさい」とお会いする度に励まされ、苦労話、日本人との人間関係の難しさ、日本のスポーツとの関わり、等と本当に親身になって教えて下さった事に感謝致しております。

同氏に付きましては、また機会がありましたら、いかに素晴らしい人間味溢れる方であったかのエピソードをご紹介出来たらと思います。丁度この時期でしたか、同氏から日本の政治家「森喜朗氏」に付いて初めてどのような人間性、人となりかも教えて頂きましたので、その後森氏には幸いにも興味を抱く様な事もありませんでした

このような事があった後に、私は、親友から「フレッド(和田氏)がP・ユベロス氏に電通を紹介して挙げたんですよ」という話を伺っていたので、服部氏、ジミー氏とその後お会いする時には、何か不思議な人間関係の大切さ、ご縁の大事さと世間の狭さを肌で感じずにはいられなかったのですジミー氏は、服部氏からのたってのお願いを勿論断る事もできず、どのようにして先ず自身がP・ユベロス氏に関する情報を収集するか、どうしたらフレッド・和田氏に近づき、親友服部氏の望みをかなえ、協力が得られるか、暫くの間、入念に思案した様子がうかがえました。

また、当時本件に関わる情報収集に現地で心血を注いでいたのは、電通ロス支局でありそこでは築地電通本社からの膨大な他の用件の業務に当たるスタッフ達の中でも、本プロゼクトの情報収集とそのリテラシーに明け暮れていたのは、支局長次席のM氏でした。彼の24時間体制の献身的なサポートは、今日のスポーツ電通を語る上で欠く事の出来ない人材であったと確信致します

彼は、休日の日も電通支局に出勤して本社からの無理難題な要求であっても愚痴をこぼしながらも処理して行く姿を見るにつけ、これが日本の企業戦士かと唯々私は感心するのみであった事を思い出します。

ロサンゼルスの日系人コミュニテイーは、広域で当時は確かリトル東京日本文化会館を建設する話題と資金集めにコミュニテイーのリーダー達が心血を注ぎ活動し、着工していた時期であったと記憶しております。本コミュニテイーも日本の社会同様に幾つもの勢力、派閥が融合する社会を形成していますので、小生は、リーダーの1人の和田氏、親友ご家族からもいろいろと俗世間の話を聞かされていました事は、自身の見聞を広め、人間関係の難しさを学ぶ大きな機会となりました。

ジミー氏は、日系人社会ではリスペクトされ超有名人で、日本のスポーツ界にも深く通じ、そして何よりもP・ユベロス氏の委員会の重鎮としても迎えられ、日系人である事から電通(服部庸一)を紹介してもらうのにフレッド・和田氏がうってつけの人物だと結論に至ったようです。勿論、ジミーは、電通の為に一肌二肌脱ぐのでなく、自分に声を掛けてきた親友の服部庸一氏の為に、服部氏にクレデイットを得て欲しいがために引き受けたのだろうと、その後服部氏との強固な信頼の絆を目の当たりにしながら、肌で感じた次第です。

電通とP・ユベロス氏は繋がった

     1979年の春も終りを告げようとする頃、ようやくジミー氏の準備が整い、和田氏のロス自宅に服部氏と同行して、いよいよ戦略に沿った手順で電通ロス五輪プロゼクト(ロス電通支局)のコマンド部隊が突入を敢行するのです。ジミー氏は、部隊の工作員として相手方の懐に入り地ならしを完了していましたので、表の参謀が仁義を切りに訪問した時には、既にジミー氏から本件のイントロダクションは和田氏に伝わっており、当日は服部氏の挨拶、本論を確認した後、快くP・ユベロス氏にご紹介して下さることを快諾されたのです。

 

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:G-File「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社 著 武田頼政

   Kファイル、KファイルNews Comment by Hiromichi Kawada

お知らせ:

この度は、広告代理店電通が何故スポーツ電通に様変わりできたのかの原点の第一弾をご紹介させて頂きました。ご興味あられましたでしょうか。筆者は、電通がオリンピックに関わる最初の原点から今日迄観察、洞察をさせて頂いていますので、どの様にして東京五輪に関して、IOCJOC組織委員会、各IFとの立ち回りを行ったかを手に取るように肌で感じる次第です。次回をお楽しみに。