K’sファイルNO.121:②日本文化に「観るスポーツ」が定着する日は訪れるか

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K’s
ファイルNO.121:②日本文化に「観るスポーツ」が定着する日は訪れるか

無断転載禁止             毎月第二、第四木曜日公開予定

筆者からのお知らせ

NO.121は、前回のNO.120に引き続きまして「観るスポーツ」を理解して頂くためのファンダメンタルな要素をご紹介させて頂きます。経済先進国に於ける人口の約60%の人達は、何らかの方法で競技スポーツに興味を持ち、観て楽しんだり、自ら遊びの領域でスポーツを楽しんでいます。これらの人達がスポーツのよき理解者であり、ビジネスのCOREとなっていますK’sファイルは、皆様の知識として活用して頂ければより一層スポーツを身近で感じて頂けるのでないかと思います。

目次:

   Ⅱ.観戦はスポーツ!ご存知でしたか

     1.観るスポーツの発祥と歩み

       概念とは

     2.観るスポーツの概念と歩み

                         ①スポーツ(Sport)の歩み

       ②現代のスポーツ観戦

       ③直接的観戦と間接的観戦の違い

       ④スポーツ観戦の副産物

  Ⅲ.国民・社会は「体育とスポーツ」を混同

                  1.スポーツって何、体育って何

                         ①スポーツの概念

       ②体育の概念

      1)スポーツと体育を混同しない事が賢明

       ①我が国の伝統的な体育とスポーツの認識と固定観念

       ご参考までに:

       予備知識として

 

Ⅱ.観戦はスポーツ!ご存知でしたか

1.観るスポーツの発祥と歩み

元来スポーツは、身体を動かすことがその定義の基本とされています。

しかし、長年このスポーツ及び競技スポーツには常にその一喜一憂したパフォーマンスに視線を向けていた観衆、視聴者がいたのは紛れもない事実である事が認められました。その観衆、視聴者もまたスポーツを楽しんでいるだけでなく、それ自身がスポーツと位置付けたのは、米国のRaider(1980)だと言われています。

まさにスポーツには、するという実践と観るという二つのスポーツを楽しむ両面構造が出来上っているのです。今日では、スポーツを実践する人達より観戦する人達が遥かに多くなっているのです。そのために観戦用の競技スポーツ、それに伴ったイベント及び、観戦用の総合施設が多くなったと申し上げて過言でありません。よって、近年は、観るスポーツと実践して楽しむスポーツに大別される傾向が調査で明らかになっています。調査によれば、経済先進国に於いてスポーツを何らかの方法手段で観ている人が60%、自ら行う人が20%で全くスポーに関心が無く観る事も行う事もしない人が約10~20%と言われています。

スポーツの区分もスポーツ科学の視点から行われるようになりました。読者の皆様には、知識を新たにされて、日本の伝統的なスポーツの社会的な概念をスッキリと整理して頂けましたら幸いです。

スポーツの二大カテゴリー

①実践するスポーツ(Participant Sports): 例:ウオーキング、水泳、ゴルフ、野球、 サッカー、バスケットボール、バレーボール、エアロビクス、他。

②観戦するスポーツ(Spectator Sports): 例:野球、相撲、サッカー、バスケットボール、他。

スポーツの専門的な四大部門

①リクリエイション&レジャー・スポーツ(Recreation & leisure Sports):

創造性、協調性、遊びと楽しみを重視   

②健康・スポーツ(Health Sports):環境への適応性、教育性と自己管理を重視

③競技・スポーツ(Athletic Sports):体力の機能性の限界に挑み、競技に於いて勝利する事を重視

観るスポーツ(Participant Sports):社会性、協調性、精神衛生・ストレス解消、創造性を重視

 

概念とは

筆者は、K'sファイルの読者の皆様に少し堅苦しいテーマかも知れませんが、スポーツを理解して頂く上で先ず「概念」からご説明したいと思います。そして次にスポーツの分化を理解する事で一層専門性を高めて頂ければと思う次第です。筆者の稚拙で舌足らずな表現力の為に誤解を招く恐れもあるかと思いますが、皆様には卓越した読解力と創造力をお働かせ頂き、行間を埋めて頂ければと思いますので悪しからず。

スポーツ・アドミニストレイションのCOREも「スポーツの概念」が礎になっています。通常概念とは、物事のアウトライン(Outline)を意味しています。

本来、スポーツとは人々が楽しみ、健康の維持、増進に励んだり、勝敗を競ったり、またそれを生活の糧を得る為に仕事(Job)の目的で行われる身体活動Physical Activity)の総称なのです。これは、スポーツの定義(Definition)に当たる部分でもあります

スポーツが遊びであれ、競技、仕事であれスポーツに共通するものは、身体をその目的の為に動かすことです人は、身体を動かすことによりそれぞれの身体能力の違いを表現、競い合うのが自然であり本能なのですこの競い合いこそがスポーツを競技性へと導き発展させた根源です

この源は、その後いろいろな競技へと分化し、改善されて発展し今日に至っている次第です。また競技スポーツの精神的な基盤は、フェアネス(Fairness)であり同じ環境と規則・罰則(ルール)の下で行われることにより発展してきたのです。このように競技スポーツは、決められた約束事の中で誰が一番優れた能力を持っているかを知らしめる装置ともいわれています。また、スポーツは、競技だけがスポーツでない事を忘れてはならないのです。

 

2.観るスポーツの概念と歩み

①スポーツ(Sport)と歩み

歴史的経過と共にスポーツという概念は、もともとヨーロッパの騎士道の精神に由来して白人文化社会の流れを受けてアマチュリズムが19世紀に英国で生まれたといわれています

このような白人(アングロサクソン)の特権階級の精神をアマチュアリズムとアマチュアリズムがスポーツ界を永らくリードしたオリンピックでした。歴史的にローマ人は、伝統的にギリシャ風のスポーツ大会に価値を認めなかったとされ、運動は元来、軍事訓練の目的として行われていました。しかし、時代が進むにつれ、健康維持やリクリエイションのためにスポーツ活動が行われるようになっていったようです。

古代ローマにおいては、スペクテータースポーツ(観戦スポーツ)が発達し、コロシアム等の円形闘技場が建設され、支配者たちは、民衆に穀物とキルクス競技(主として殺し合いが多かったとされている)を提供して、政権を維持しようとしたのです。民族的祭典であるキルクス競技では、特に戦車競走に人気が集中していたようです。

このような過去の歴史を経過した今日では、政権中枢の権力者がオリンピック大会、ワールドカップ大会を招致し国民の為と称する大義の基に政治的に利用、利害・利権の道具と化している手法はまさに姿形を変えたキルクス競技なのかも知れません。皆様には、身近な東京五輪の諸般の話題をどのように感じられますでしょうか。

②現代のスポーツ観戦

スポーツ観戦には、スタジアム・競技場まで足を運んで観戦する①能動的な観戦スタイルとスポーツをテレビ・ビデオ、等を通して観戦したりする②受動的な観戦スタイルとに大きく区分されます

この度の2019年ラグビーワールドカップ日本大会に於いては、「にわかファン」が突然急増した現象が起きています。にわかファンとは、それまでラグビーフットボール(略:ラグビー)競技を見た事も無い、無関心であった人達、或は知っていたがそんなに関心があった訳でない人達を指しています。本現象は、何がその現象を生産したのかを検証する必要があるのは確かです。それにより、今後のラグビー及び他の競技スポーツの変革にも繋がる糸口になるかも知れません。

③直接的観戦と間接的観戦の違い

1)直接的な観戦

スタジアム、アリーナ、等で観戦するためには、競技が行われる競技場まで出掛ける必要があります。また、プロスポーツ、等では、ほとんどの場合に観戦料を徴収されます。本来直接的な観戦に於いては、選手が目の前で競技スポーツをしているという臨場感や、同じ趣味、同じテイーム、個々の選手を応援する観客との一体感は大きな特徴であります。 また競技場に入ると日常生活、社会から隔離された別世界を味わうことができるのも最大の特徴です。この様な評価価値に対する対価として、我々観客、ファンは観戦料としてテイケットを買い求め会場に出かけて行くのです。そして、この観戦料は、プロの場合は個々の選手の生活の糧をまた大会運営の源泉となっているのです。

筆者の友人、知人には、東京読売ジャイアンツHomeゲームの全試合にテイケットを買って行ったんだ、と何時も自慢している人物が居ます。彼らは、何を目的に観戦に行くのかを問い質すと、会場に行くと誰に遠慮することも無く大声を上げられる。先ずストレス解消がその真の目的だそうです。次に野球観戦に行くとそこには、毎回新しい出会い(隣席)があり、その出会いが縁で次々と同類の仲間が増え、その仲間達と飲食を共にして語り合う。まさに巨人のゲームがこのような同類の仲間達に出会いの場を提供しているのです。彼らは、巨人の勝敗に付いてはあまり気にしていない様子です。此れも観るスポーツを楽しむ新種なのかも知れません。

近年に於いては、自宅等から遠い競技場まで出掛ける場合、一種の旅行と捉えられる場合もあり、現に競技スポーツ観戦を目的とした観光ツアーも旅行代理店によって企画されています。

2)間接的な観戦

一方、テレビ・ラジオ・ビデオ、ネット、等での観戦は自宅で気軽に楽しめるメリットがある事は既に大部分の皆さんが経験済みです。これらが間接的な観戦と言われる所以です

一部のペイ・パー・ビユーなどを除けば、観戦に費用もかからない大きなメリットがあります。さらに、多くのカメラによる中継や感じの良いアナウンサー、程好い解説者による実況があれば、競技場、等よりも選手の動きや試合・演技の流れがコンパクトにつかみやすいというメリットもあります。テレビ中継の場合は、リプレイ画像もあるので見落とした映像が再現されるのも大変有益です。

3)新しい観戦形態

両者の中間に位置するものとしては、スポーツバー、等での観戦が挙げられます。これはスポーツ観戦を趣味とする人達が特定の店舗に集ってテレビ等で観戦するものであり、臨場感はないが他のファンとの一体感を味わうことができます。また、店舗に限らず、試合が行われていない競技場や広場等のスーパースクリーンの前に同じ心境を持ったファンが集まって観戦することがしばしば行われています。これはパブリック・ビューイングと呼ばれます。

今日日本では、サッカー、野球、等の観戦でこのような例がよく見られます。スポーツ観戦を趣味とする人達の中には、普段はテレビ等で観戦し、ときどき競技場等に足を運ぶ人が多いようです。たとえば年間100を超える試合を開催するプロ野球の試合をすべてスタジアムで観戦することは困難であるため、プロ野球ファンのほとんどは、間接的な観戦者のタイプと思われますが、如何でしょうか。

④スポーツ観戦の副産物

近年ではスポーツ観戦を観光資源と捉え、スポーツ観戦客を周辺の観光に結び付けることで地域活性化起爆剤にしようという取り組みも行われつつあります事は既にご承知の通りです。

この様なスポーツイベントを活用したビジネス手法は、この度の日本でのラグビーW杯に於いて国内外の客、及び会社・企業に対し、ワールドワイドな企業戦略の一環として大手旅行代理店とタイアップしたラグビー観戦を基軸にビジネスが多面的に発展されているのもご承知の通りです。20東京五輪に於いては、このビジネス産業がより一層スポーツ・ビジネスとして拍車がかかる様相です。

 

Ⅲ.国民・社会は「体育とスポーツ」を混同?

1.スポーツって何、体育って何?

スポーツの概念

 スポーツとは、楽しみ、健康の維持、増進を求めたり勝敗を競ったり、またそれを仕事の目的で行われる身体活動(運動)の広義な総称です。

スポーツが遊びであれ、競技、仕事であれスポーツに共通するものは、身体をその目的の為に動かすことです

 

参考までに

スポーツ(Sport)の語源とその歩み

語源は紀元前5世紀、ローマ人の言葉で ”気晴らし、遊ぶ“ と理解されラテン語で“deportare=デイポールターレ”と呼ばれていた。その後、フランス語で ”desport=スポール“ と呼ばれ、後11世紀以降イギリスに渡り、16世紀に ”Sport=スポーツ” となり19世紀に国際語として発信されたとされています。

 

②体育の概念

 体育は、英語のphysical education(身体教育)の訳語として戦後の教育改革に於いて新しく導入された科目です。今日の保健体育は、physical and health educationの訳語であり、我が国に於いては第二次大戦(1945)後、名称も保健体育と呼ばれるようになったのです。即ち、体育とは、心身の健康を維持、向上させる為の教育学の中の1学科としての学問であると捉えた方が理解し易いと思います。体育学は、体育に関する諸科学を組織・体系づけたものを意味する場合と、体育教育学を意味する場合があります。これらを総称して体育と呼んでいます

 これらを指導、教育する人達は、体育教員、体育指導者と呼ばれ決して競技スポーツの指導者、コーチとは呼ばれないのがスポーツ先進国の常識です。

 

1)スポーツと体育を混同しない事が賢明

筆者は、読者の皆様にはこの機会にスポーツと体育の違いについても様々な概念から説明することで、いかばかりかの理解と認識を新たにして頂けるのではないかと期待しております。

①我が国の伝統的なスポーツの認識と固定観念

我が国のスポーツは、学校の体育の授業から始まり、課外活動(運動部、クラブ活動)の位置付けが未だ不明確な為この頃から子供達は矛盾した環境と指導を受けて今日に至っているのです。

大半の国民は、戦時、戦中の教練=体育=文科省(旧文部省)=教育=スポーツ=競技スポーツ=オリンピック=プロ野球という流れのイメージの中で構築され今日に至っていると考えられます。

国民、社会、教育機関、指導者、父母、生徒は、体育の先生=教育者=スポーツの指導者、オリンピックの代表選手、メダリスト=最高のスポーツ界のオーソリテイー(authority、専門的権威者)、有能な教育者で体育指導者であるかのごとく誤った認識と固定観念を持っている日本人が大半居ると申し上げて過言でありません。これらの認識は、ある意味では「迷信」に近い思い込みなのです

この長年の負の遺産が、我が国のスポーツ・アドミニストレイションのレベルであり、優秀なスポーツ・アドミニストレイターの人材の養成を阻んでいる最大の要因の一つであると考えられます。

特に伝統的には、高校、大学スポーツに於いて不健全な指導者、管理者が今日マスメデイアを騒がせているのも伝統的な悪しき慣習の負の産物の一つでもあると思われます。

我が国のスポーツ界では、スポーツマン精神の必要性は強調するが、健全な規則、罰則(ルール)は軽視され、決して明文化しようとはされないのです。これらは、かえってスポーツの振興、推進、発展に矛盾と障害になっています。スポーツマン精神を語る以前に、我々は規則・罰則を明文化して、関係者一同はルールを遵守する義務と使命をリスペクトする方が何よりも大事である事が、教育、理解できていないのだと思います.

スポーツは、プロやオリンピックレベルの選手及びその関係者の人達だけのものではない筈です我が国は、スポーツという名の下で根性論、とか体育会系のシゴキのイメージで、一般の人達が気楽に楽しみ、健康の維持増進といった感覚を持てない歴史が障壁になっているのも事実です

このような伝統的な社会慣習、風潮がいつまでたっても改善、改革されないので「スポーツ根性論、暴力(体罰、セクハラ、パワハラ、イジメ、等)」が話題にされても改まらない。これらを暗い歴史と矛盾の伝統によって培われてきた負の遺産と申し上げても過言ではないと思いますが、如何でしょうか。

小学校、中学校、そして高校で起きる事件の大多数の教員、指導者達は、体育の先生で、暴力教師との固定観念を国民、社会からレッテルを貼られ、疎んじられているにはそれなりの理由があるからです。しかし、そうでない多くの体育の教員達の名誉を1日も早く回復しなければフェアーな教育機関、環境を擁立することが難しい状況でもあります。

ご参考までに:

体育の授業では、体育理論や保健体育などの教室での授業を除き、基本的に体操着を使用しての実技が中心である。大まかな教育目標は、各学校ごとに学習指導要領で定められているのです。―教育指導要領より、

 予備知識として:

日本体育学会

学問において、体育研究者の集まりである日本体育学会では、人文系、自然科学系を含めた体育学の研究分野を、体育原理、歴史、心理、社会、経営管理、運動生理学、キネシオロジー(運動力学)、測定・評価、体育方法学などの諸科学の総合したものとしてとらえている。

より実践的立場からみれば、歴史的には、わが国では一般に、体育は学校における体育授業を中心とする教育活動としての方法論的立場が強かった。

しかし第二次世界大戦後は、それまでの体操中心の教材にかわって、運動文化としてのスポーツ教材が取り入れられるようになり、生活におけるスポーツへの橋渡しや意識・態度の形成、スポーツ技術の習得などを重視するスポーツ教育学ということばが生まれている。最近では、この種の教育活動を単に学校に限定せず、人間の生涯にわたっての学習の場や機会の提供と関連して、社会体育または生涯スポーツということばも生まれてきている。諸外国、とくにヨーロッパでは、社会の生活文化への橋渡しとしての学校の位置づけ論から、体育も生活文化としての運動文化の内面化をめぐる指導過程に重点を置くスポーツ教育論が支配的である。体育学を基礎科学の立場からみるか、教育学的立場からみるか、いずれにしても体育学の考え方、領域が人々のスポーツ欲求の増大と関連して、時代の進展とともに大きく変わりつつある。(大百科事典より)

文責:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports

お知らせ:

この度のK’sファイルは、「日本文化に観るスポーツが定着する日は訪れるか」を題材に①②をお届けいたしましたが、読者の皆様には少し大学の講義的で堅苦しくなかったでしょうか。意外と気付いて居なかった事が多々在ったのではないでしょうか。お役に立てていましたら幸いです。

次回からのK’sファイルは、翌年に控えた2020東京五輪にトップスポーツ・アドミニストレイターが決してやってはならない判断及び決断を独善的に行ってしまいました。筆者は、この起きるべくして起きた事実をスポーツ・アドミニストレイションとスポーツ・アドミニストレイターの視点で私見を交えて厳しく指摘させて頂く予定です。誰もが気付いていない、触れようとしないタッチーな暗部に触れるかもしれませんが、筆者の長年の国際感覚を通して私見としてご理解して頂けますなら幸いです