K’sファイルNO.49:82W杯サッカースペイン大会はビジネスの戦場だった
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注:K’sファイルのサッカーシリーズは、2018年6月開催予定の18W杯サッ カーロシア大会を記念して掲載させて頂いております。
PARTI. サッカー・ビジネスが体系づけられた時代と背景~
前置:読者の皆様は、既に1984ロス五輪のテーマについて本K’sファイルNO.38~46を通してお読み頂いているかと思われます。丁度84年ロス五輪の仕込みを電通が取りかかり始めている以前から、国内外のサッカー利権は、日本の大手広告代理店の博報堂が牙城を築き上げていました。そこに84年ロス五輪でオリンピック利権をせしめた電通が、ロス五輪の人脈とノウハウを駆使して立ち遅れていたサッカー界の利権の切り崩しにロスからスペインへと飛び、82W杯スペイン大会の会場が、まさに今日そうであるようにサッカービジネスの「戦場」と化したのです。
1.W杯サッカー・ビジネスに変革をもたらした人物
時は1982年。FIFAワールドカップ(略:W杯)サッカーの開催国は、スペインでした。1978年W杯は、アルゼンチンで開催されましたが、それまでのサッカー・ビジネスに目を向けるとビジネスコンセプトの存在すら皆無に近い状態で経営、運営、管理がなされていました。まさに大きな混乱を来していたわけです。
FIFA W杯サッカーは、世界の競技スポーツ界に於いてオリンピック大会以外で最大級のイベントとして巨大化していたにも関わらず、本ビジネス部門は、極めて非力でもあったのです。W杯サッカーの主催は、国際サッカー連盟(略:FIFA、Federation of International Football Association)です。
①ホルスト・ダスラー氏の出現:
ホルスト・ダスラー氏(Horst Dassler/1936年~1987年)のマーケテイング戦略に付いて述べる前に彼のバックグラウンドを理解する事が彼を知る上で重要なファクターと考えられます。同氏は、アデイダス(Adidas)社の創業者であるアドルフ・ダスラー氏(Adolf Dassler/1900~1978)の長男でアデイダス社の2代目の最高責任者(略:CEO=Chief Executive Officerの意味)であったことを先ず記憶しておいて下さい。
アデイダス社の系譜と歴史、
アデイダス(Adidas)社は、アドルフ・ダスラー氏のニックネームであるアデ(adi)とダスラー(dassler)から来ています。アドルフの妻は、アデイダスドイツの経営に従事していたカタリーナさんです。
1924年に、アドルフ氏は、兄ルドルフ氏とダスラー兄弟製靴工場(Gebrüder Dassler Schuhfabrik)を設立し創業を始めたのです。
1928年のアムステルダム五輪に於いて、アドルフ氏のシューズは、多くのアスリートに提供され、これが会社の国際的名声と発展に繋がり、「アデイ―シューズ」として初めてその名を博しました。
1936年のベルリン五輪では、米国のジェシー・オーエンス選手にシューズを提供した結果、アデイ―のシューズを履いた同選手が4個の金メダルを獲得し、さらなる名声を世界にとどろかせたのです。
1948年にダスラー兄弟は、袂を分かつ事に成り、弟のアドルフ氏は、アデイダス(Adidas)の創業者として、兄のルドルフ氏は、隣町にプーマ(Puma)を起業し創業者となったのです。アデイダス社は、当初よりつい近年まで長年スポーツ用品の最大手メーカーとして世界に君臨して参りました。
しかし、近年1970年初期に米国に於いて起業したナイキ社の台頭により、今日の世界のマーケットシェアーは、ナイキ社に大きく水を開けられる事となったのです。この理由に付きましては、本シリーズでスペースがあればご紹介致したく思います。
1930年代に入るとダスラー兄弟はナチに入党。しかし、アドルフ氏より兄ルドルフ氏の方がより熱心な国家社会主義者であったと当時から評されていました。
アドルフ・ヒットラーは、アドルフ・ダスラー氏の職人気質を期待してか、ドイツ国防軍のブーツを生産するために重宝された一方、ルドルフ・ダスラー氏は徴兵され、後にアメリカ軍の捕虜となったと記録されています。
兄のルドフル氏は、弟のアドルフ氏と、性格も異なり兄弟それぞれ類まれな才能を持った人物であったようです。しかし、兄弟は、第二次大戦下での軍政下に翻弄され、問題に巻き込まれ、それが原因で兄弟の袂を分かつ結果となる運命であったのです。
アドルフ氏は、職人気質を受け継ぎ、根っからの靴職人であったようです。しかし、兄ルドルフ氏は、性格も異なり経営、マネージメント力に長けていたのです。此の為か兄弟の間では、常に意見の食い違いがあった事も想像できます。
アドルフ氏の長男として生まれたホルスト・ダスラー氏は、アデイダス社の2代目として事業を継承しました。彼は、類まれな経営、政治、ビジネス・マネージメント力に才能を持った人物であり、後に世界のスポーツ界を席巻するようになったのです。1978年にアドルフ氏はヘルツォーゲンアウラハで死去、77歳でした。(以上ダスラー家のバイオグラフィーより)
②サッカー・ビジネスにマーケテイング戦略の必要性:
1978年W杯のアルゼンチン大会までは、サッカーフィールド内のピッチ周辺に置く広告看板を試合ごと、テイームごとに切り売りをしていたのです。そして、当時は、近年のようなスポンサーシップ形態の「1業種1社」の独占担保権もなく、1業種に複数社の広告看板が出ているというありさまだったのです。
国際サッカー連盟(FIFA)は、ワールドカップ(W杯)に関わる諸権利の帰属が不明瞭であるだけでなく、大会組織委員会に帰属するものもあれば、FIFAが保有しているものもありで、全く統制が取れていなかったのです。
こうした混乱した状況を整理し、FIFAの持つW杯に、ビジネスマーケテイングの必要性を打ち出し、マーケテイング権を確立し、統合する事を実践した人物が現れたのです。その名は、ホルスト・ダスラー氏です。
このホルスト・ダスラー氏こそが、世界のスポーツ界BIG3の3人目、最後の人物です。
注意:これで世界のスポーツ界のBIG3(IOCのサマランチ氏、84ロス五輪のユベロス氏、そしてこのダスラー氏)と出そろった次第です。
2.サッカービジネスのマーケテイングの開祖として
①スポーツに於けるマーケテイングとは:
スポーツ・マーケテイングとは、スポーツサービスを供給する事であり、簡単に言えば「売れる仕組みを作る」こと、と理解して戴ければわかりやすいと思います。その為には、顧客のニーズを第一と考える事です。
つまり、消費者のニーズに合ったスポーツサービスを提供して、その対価を得る関係をより効率よく、より多く築く事がマーケテイングの趣旨、目的となると思われます。
スポーツサービスの供給には、基本的にはスポーツサービス組織とスポーツ消費者との間の交換関係で成り立っています。
メガ・スポーツイベント(オリンピック、W杯サッカー、各メジャースポーツ世界選手権、等)は、単純な交換関係のみで成り立たず、そこにはマスメデイアや代理店(Agency)の介在、仲介が必要となるのです。代理店自身が独立したスポーツ組織として活動する時代になっているのです。
②ホルスト・ダスラー氏のマーケテイング手法:
サッカー・ビジネスのマーケテイングに関わる諸権利を初めて統合的に管理した人物がホルスト・ダスラー氏であると言われています。
1982年ワールドカップサッカー(略:W杯))スペイン大会は、イタリアが優勝、ブラジルは、黄金カルテッドが人気であったが2位となる。このスペイン大会は、FIFA W杯にかかわるマーケテイング権を初めて総合的に束ねたW杯だったのです。 そのマーケテイング権とは、大会のマークの使用権、ピッチに看板を出す権利、呼称権、等をパッケージ・セール(一つにまとめて販売する意味)にしたことです。当時この手法は、画期的なマーケテイングセールスであったのです。
W杯サッカーのBusiness Rightを6つに分類:
1.興行権(テイケット収入)
2.ピッチ看板掲出権(大会だけの看板)
3.マークの使用権(FIFAのロゴ・マーク、大会マーク、スポンサーが広告やプロモー
ションに使用する権利)
4.呼称兼(例:SEKOは、FIFA WCの公式計時スポンサーです)と名乗る権利
5.ライセンシング権(例:大会マークをTシャツなどのマーチャンダイジング(商
品)に使用する権利、等)
6.放送権(但し、1998年まで、放送権は、FIFAが放送局と直接的に取引していた)
以上6つに分類された商業化権は、FIFAの承認を受け告知された時、世界のスポーツビジネス界では驚嘆の嵐で迎えられました。
H・ダスラー氏は、スポーツという新しいメデイアが持つ力に事のほか興味を持ち神経を集中させたのです。彼は、1970年代からIOC国際オリンピック委員会や、FIFAをはじめとするIF(International Sports Federations)と呼ばれる国際スポーツ連盟に接近し、特にIOCのサマランチ氏、FIFAのアベランジュ会長、 UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のアルテミオ・フランキ会長、IAAF(国際陸上競技連盟)のプリオ・ネビオロ会長との仲は、血縁よりも濃い関係と囁かれていたのです。
このような関係を広めると同時に、主だった国際スポーツ競技連盟のマーケット権を獲得して行ったのです。しかし、UEFAのフランキ会長とは、当初より犬猿の中と関係者が認める仲、日々敵対関係が深まる中、1983年8月にフランキ会長は、イタリアに於いて自身の運転する車が大型トラックと正面衝突して即死されたのです。本事故に関して、当時は色んな憶測が流布していましたが、事件としては取り扱われていませんでした。
H・ダスラー氏の政治的手腕と資金力、経営手腕をトータル・マネージメントした能力は、まさに新しい時代に相応しいスポーツ・アドミニストレイターの出現でもあったのです。
文責:河田弘道
スポーツ・アドミニストレーター
スポーツ特使(Emissary of the SPORT)
お知らせ:次回K’sファイルNO.50では、82W杯スペイン大会がビジネスの戦場となり、70年代のサッカー界を占拠していた日本の広告代理店、博報堂に一大危機が到来する様子をテーマとして予定致しております。