KファイルNO.188:天は筆者に「デスティニーとフェイト」の選択を強いる

KファイルNO.188:天は筆者に「デスティニーとフェイト」の選択を強いる

無断転載禁止              毎月第二、第四木曜日公開予定

●AUTHUR A. ESSLINGER PhD.

1905~1973、DEAN 1953~1972

Oregon大学 体育学部長 専門:体育、スポーツ・アドミニストレイション。筆者が54年前に出会って、運動生理学からスポーツ・アドミニストレイションに志を変革したエスリンジャ―教授の教えを受けた最後の学生だったかも知れません。

小生の適性を諭して下さった恩師の一人です。

オレゴン大学、体育学部の歴史的な正面玄関は、重厚で自身が此れから米国で生きて行く為の「扉」でもあった。当時は、無我夢中でこの扉をこじ開けた思い出が蘇りました。そして今夏休暇で久しぶりに訪れ扉を開くと懐かしい当時の香りと空間を感じられた貴重な一時でした。その扉を開いた奥には、肖像画の教授(当時の学部長)が笑顔で迎えて下さった次第です。

 

目次

■筆者の青春時代は目標修正の連続

■野球への情念と葛藤

■野球との決別、葛藤そして一大決心

■挫折と未知の世界へ

■天が導いて下さった他大学の教師との出会い

■日本での大学生活と故郷にさようなら

■二度と母国の土を踏めない覚悟を持って

■ノースウエスト機はシアトル到着を告げる

■天は私に何を試そうとされているのか

■光陰矢の如し

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11月10日 木曜日 公開

KファイルNO.188:天は筆者に「デスティニーとフェイト」の選択を強いる

無断転載禁止

青春の思い出を胸にまだ見ぬ国に旅立つ

筆者の青春時代は目標の修正の連続

 私は、1947年6月に阿波の徳島で誕生しました。教育者から政治家に転身した父とそして母により厳格な礼節を大事にする家庭環境にありましたが、私自身は、自由奔放に育ったと記憶しています。しかし、私が中学1年生(13歳)の時に現役の父が突然他界し、その後の私の家庭を取り巻いていた内外の環境が大きく変化した事が心に焼き付いています。母には、迷惑かけたくないという気持ちが芽生え、培われ始めた時期がこの時期であったことを確信しております。

父の告別式には、東京から三木武夫・睦子夫妻が戻られ、まだ幼い丸坊主の頭を撫でながら私に「僕心配はいらないからな、お母様とは話が出来ているから安心して勉強しなさい」と声を掛けられた時の独特なトーンは、今もかき消される事も無く耳の奥に残されています。その後私は、成長と共に「自分の路は自分で決める。自分の人生は、悔いのないよう自分で歩む」と誓って、東京に出て来たのでした。丁度、大学2年生の時でした「三木武夫内閣総理大臣に任命される」との一報を知らされた時には、亡き父と三木氏の関係、間柄、家族との関係と選挙戦が、物心ついたころからの様子が走馬灯の如く、下宿の一室で思い浮かべた夜が昨日のようでした。母からは、いつも三木さんの生い立ち、明治大学時代、睦子さんとのご結婚、USC(南カリフォルニア大学)への留学、と耳にタコができる程聞かされていたので、自分も心の隅に常に米国、大学、留学の三文字が、ふつふつと「いつか自分も」との炎に変革していたのかも知れません。大学で何時も心優しくお世話をして下さる職員から、「三木さんの所に挨拶に行ってらっしたら如何ですか」と、諭された一言が今尚心の隅に残っています。

 

野球への情念と葛藤

幼いころから野球少年として3度の食事を忘れるくらいに野球をプレイするのが好きで、期待されていたころが懐かしい。高校は、進学校でなく野球校を選んだその時から私の人生は、今日の方向に向かったのでしょう。県立高校の入試を受け入学、入学式以前から既に高校野球部での練習に参加していました。

当時甲子園出場を狙う県立高校でしたので競争も激しかった。自分は、小学高学年から中学1年生の時から投手で4番として3年間を過ごしました。高校入学と同時に投手から打力を活かした遊撃手に配置転換(投手ではスピードに欠けると判断)して夜遅くまで練習に励みました。しかし、1年目の夏の合宿中ダブルプレイの動作中にスパイクシューズが二塁ベースに引っ掛かり、左肩から横転し左鎖骨を完全骨折、半年間練習できず初めての挫折感を味わったのです。当時、下宿をしていたので毎日治療に専念、そしてリハビリの日々が長く、気の遠くなるような毎日を過ごしました。その年の夏の県大会では、甲子園出場をかけて先輩達は闘っていました。

暑い夏が過ぎ、秋のシーズンが終わり、翌年春を迎えるにつれて自分の心に変化が起きている事に気付き始めていました。「もう自分は、甲子園出場は間に合わない。まだ左肩は完治していない。」と毎日座禅をして修行僧の如く悩み、苦しみの連続でありました。当時学校では、倫理の授業があり、その教科書に出てきた哲学者カントの単行本を本屋で見つけて手にしてから夢中で読みあさったのを覚えています。その中のあるセンテンス≪格言≫に強い共感を覚えました。「成功に至る第一歩は、自分が心で何を望んでいるかを見つけ出すことです。それがはっきり分からないうちは、何を期待しても駄目でしょう」

野球との決別、葛藤そして一大決心

丁度時を同じくして、授業後の野球の練習、打球音、友達たちの掛け声を耳にするのも耐えられなくなりました。下宿先の窓からは、仲間達が夜遅くまで練習に励み、声を出し合っている姿は自分の居場所を途轍もない所に追いやって行きました。

そして、その後下宿を出て実家から通う決断をしました。それは、2年生になる春休みでした。自分の甲子園への夢をこのまま追いかける事は現実的に不可能と判断したのです。それは、また巨人軍ですでにスター選手であった憧れの長嶋茂雄選手のようなプレーヤーになる夢が破れる事を意味した。それならもう野球校を去ろう、愛着のあるグラウンド、打球音、グラブ、バット、ボール、スパイクシューズ、練習の掛け声、等から離れようと一大決心をしました。

私の決断は、即実行へと移りました。春休みであったが、高校の担任教師宅を訪れました。そして素直に自分の気持ちを伝えました。自分の気持ちは、野球部を退部する事、そして2年生の夏休みまでに県内の同じ県立高校の進学校に転校したい意思を伝えた。その為の手順と方法を担任の田口先生(女性)から教えてもらいました。担任は、即校長室に私を連れて行って下さったことに対して深く感謝でいっぱいだったのを覚えています。

校長室では、校長先生が笑顔で迎えて下さり、未成年だったので保護者(母)の同意書を要求され翌日手渡しました。その後、自分が希望する転校先への紹介状、転校先の受け入れ態勢、等手続き上の問題が山積していました。希望する高校のアカデミックなレベルが同じ県立でも野球校とは比較にならなかったのも十分承知していたので、希望する高校が自分を受け入れてくれるかどうか先ず大きな第一関門が待ち受けていました。

両校には、昨年度の県立高校入試の成績評価記録がまだ保管されていましたので確認して頂き、幸運にも希望先の高校入学入試の基準評価点を満たしていたことを確認、何かかすかな光が差してきたのを覚えています。しかし、この度は、1年経過後の転校であるので先方が要求する転校試験を受験しなければならなかった。春休みも終り2年生の新学期も始まり、希望する転学校の指定する曜日に転校試験を受けに向かった。久しぶりに緊張感を味わったのを思えている。そして、無事転校する為に必要な諸手続きも終え、夏休み前に野球部の仲間にも親友のクラスメイト達にも何も言わずに静かに1年半お世話になった野球校を去った。私の強い決心を静かに見守って下さった担任の田口先生と校長先生には、唯々感謝の念で一杯でした。

転校先の進学校では、新たな別の競争が待ち受けていましたが、勉強の遅れは肌に強く感じました。此処には、中学時代のクラスメイトにも顔を合わすことになり、驚いた様子でした。私が希望した大学は、特殊な大学であったので当時の健康診断で仮性近視が原因で入学できず一浪を余儀なくされた。しかし、仮性近視の問題は、解決されず二度目の挫折を味わうことになったのです。

 

挫折と未知の世界へ

一浪後、高校の体育の主任の住友富一先生の勧めで母校の教員として郷里に戻る事を条件に体育大学に進む事を強く勧められました。これには、大学に進学する事に関して母の強い願いもあったので東京に初めて出てくる事になった次第です。

 

天が導いて下さった他大学の教師との出会

大学1年生の後期に大きな人生の転機を迎えたのです。入学後、履修していた運動生理学(スポーツ生理学)兼英語の先生との出会いがまさに今日の自分の源ともいえる「ご縁」を頂きました。

その恩師(栗本閲夫先生)は、当時順天堂大学助教授で米国オレゴン大学大学院を出られて母校順天堂大学に戻られ、私の大学には、非常勤講師として週1度来られていた方との出会いがあったのです。当時米国の大学で学位を取得されて日本の大学で教鞭をとっているというのも光り輝いていました。私が所属していました体育大学には、似ても似つかぬ大学教員であったのは言うまでもありませんでした。

お会いして、お話を毎週個人的にお聞きするほどに心に夢と希望が湧いてきて、今迄にない光が降臨してきた思いで、毎日ヤル気の魂が芽生え成熟して行くわが心を鮮明に今なお記憶しています。毎週授業の後、あこがれの先生とお茶を飲みながら約1時間、お話をして下さる時間が貴重であり、かけがえのない時間帯でした。こうしている内に、私は、段々と先生のお考えと足跡に傾注するようになり、公私ともに弟のように可愛がってくださり、私は、同恩師が行かれたオレゴン大学、大学院を目指して4年間のゴールを設定しました

私は、この先生との出会いは貴重な人の人生を左右する出会いでご縁を頂いたと肝に銘じたしだいです。この貴重な出会いの大切さは、その後今日迄で直接お目にかかった一人一人の個々の方々の出会いを大切にする礎とさせていただいております。

ご紹介:

「栗本閲夫氏は、順天堂大学医学部に入学されたとお伺いしています。しかし、その後同大学に新設された体育学部に編入され、米国オレゴン大学体育学部にて修士、博士号を取得され、母校体育学部において心血を注がれ、後に若き同学部学部長になられ、若き生涯を閉じられました。同教授は、最後まで小生を日本体育大学に戻り、大学再建に心血を注いで欲しいと望まれていたことを、後に大学の先輩から聞かされました。恩師が若くして去られる時期、小生は丁度米国大学に専任職を持ち、日本では、西武国土計画の堤義明社長の特命担当秘書として、プリンホテル野球部、西武ライオンズの設立と構築に心血を注いでいた時期でした。毎年4年間日米を25回往復していました尋常ではない業務に忙殺され、掛け替えのない恩師栗本閲夫先生をお見送りできませんでしたことが、今日も尚悔やまれます。」

 

日本での大学生活と故郷にさようなら

大学では、一日も欠席することなく、4時からの部活も休むことなく、部活後の夜のアルバイト、夏、秋、冬、春、休みも全てアルバイトで生活費、授業料、等をまかなったのは、自分として正しい判断と決断だったと今も確信している。

本件に付きましては、Gファイル:「長嶋茂雄と黒衣の参謀」に紹介、文芸春秋社 著武田頼政に付記させて頂いております。

自分は、自立する事で母、身内の医学部への勧めも断り、退路を断って自分の道を選ぶ決心をした浪人時代の自分が今も心の支えになっています。

大学時代は、この順天堂大学の栗本閲夫先生の指導の下で英語を懸命に学ぶ事がオレゴン大学への扉を開ける第一関門であり、米国大学から入学許可を得る為の英語検定試験TOEFLをパスする事が当面の目標とゴールと設定した。やがてこのゴールは、約4回の試験を経てオレゴン大からのアドミッションを受けた時は、栗本先生とアルバイト先のご主人、ご家族、下宿のご夫婦に報告と感謝を述べたのが昨日のようです。当時のオレゴン大学のIDカードとパスポートが懐かしく、今じゃ私の貴重な宝物の一つです。 

しかし、1年の内の殆ど毎夜、週末も燃料の配達、桜新町の小林燃料店での配管、空調配管、夏休みは、桜新町鈴木書店さんでの裏仕事と仕事に明け暮れましたが、収入は、生活費と授業料に、何の余禄もありませんでした。当時は、奨学金など知る由もなく、陰では苦学生と私を嘲笑しながら呼んでいた大学教員達のお顔は今も鮮明に覚えています。

 

二度と母国の土を踏めない覚悟を持って

1971年、6月末の米国への出発時には、三井銀行桜新町支店の預金口座には、羽田―シアトル―ポートランド空港までの片道航空券代、当時1$360円で米ドルに換金すると$260ドルが手持ちのキャッシュであった。この全財産を持って当時は、羽田空港からボーイングのジャンボ機が初めて離着陸していた時代なのでそれに搭乗した。その日の見送りには、下宿のご家族が送って下さり感謝の気持ちで涙を流したあの一夜を一生記憶から消えることは無い。これは、まさに戦時中の神風特攻隊のパイロットの如く、帰りの燃料は与えられていなかった状態でした。しかし、命だけは、保証されていたのが唯一の救いでした。

その後、色んな思い出、記憶、母との別れを胸にジャンボ機は、羽田空港を離陸して一路北米のシアトル空港へと飛び立った。機内では、幼かった時に父の背中におんぶされて田舎の田んぼ道を歌を歌ってくれた、温かかった背中の温もりが肌を伝わる、「何時も父を超えるんですよ。」と励まし、激励してくれた母、転校試験の緊張感、そして大学1年生での栗本先生との出会いとご縁に感謝しながら後ろを振り向かず、ただただ「日本での目標は果たしたんだ」と、感無量な気持ちで機内に乗り込んだのが昨日の様です。

もう自分は、二度と日本の土を踏むことができないかもしれない、母に会えないかもしれない、郷里の幼馴染に会えないかもしれない、しかし、自分が選び決断した目標は、今機上に居る事がその証で実現したのだと自分に言って聞かせた。これからの次のゴールと設定は、大学院で専門課程を修了して学位を取得する事とそれを完成する為のプラニングの構築、設定が急がれる。

 

ノースウエスト機はシアトル到着を告げる

ボーイング747機が丁度シアトル上空にさしかかった時に機内アナウンスが流れ、明け方の様子を恐る恐る機内の窓から外を観た。初めてのアメリカ大陸が眼下にあった。これが、此処がアメリカか、自分はこれからどうなるんだろう。失敗したらどうするか、もう二度と母国に、郷里には戻れないし、戻るつもりはない。何も怖がることはない、毎日自分の出来ることをベストをつくせば、道は自ずと開く。と自分に何度も何度も言って聞かせながら飛行機はシアトル空港に着陸した。シアトル空港のイミグレイション(移民局)では、学生ビザの書類審査が行われ税関を通過して、次の最終到着地のオレゴン州ポートランド空港に向かった。

以上日本の大学1年生時に立てたオレゴン大学への留学の目標は、果たせた。しかし、これからまた米国での厳しい現実との戦いの幕が切って落とされるのである。

 

天は私に何を試そうとされているのか                

目標とは、設定しても修正と変更の繰り返しであり、環境と自分の状況変化に如何に適合、対応するか、できるかが大変重要である事を体験で知ることになる

大切なのは、常に高い志を持ち、その志に近づくための強い意識と意志とその実行力が運を引き寄せてくれるかどうかの分かれ道になるような気がしてならない。読者の皆様は、どのようなご経験がおありでしょうか。

光陰矢の如し

そしてこの時期から二十数年後に幼い頃の憧れの長嶋茂雄氏の球団常務兼監督補佐として東京読売巨人軍の現場、フロントをお預かりし一心同体で、メイクミラクル1994年、メイクドラマ1996年を完成させて頂けるなど誰が予測できたでしょうか。これは、天が私に下さったBIGギフトの一つであったんだと、感謝する今日この頃です。

此処に至りました中で、特に高校時代の体育の住友富一先生(徳島県立城北高等学校)の日本体育大学に進む事を進言して下さったお蔭で、体育大学での栗本先生(当時順天堂大学助教授、後の学部長)との出会い、そして大学に於いては、心暖かく支援して下さった職員の方、アルバイトの仕事を提供して下さった方々の御協力とご支援が在って初めて多くの苦難を乗り越えられたことに対して心より感謝致しております。

 

文責者:河田弘道

スポーツ・アドミニストレイター

スポーツ特使(Emissary of the Sports)

紹介:Gファイル「長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社 著 武田頼政

Kファイル、KファイルNews Comment by Hiromichi Kawada

*その後の河田弘道の今日までの歩みは、2006年、10月13日に発売された「Gファイル:長嶋茂雄と黒衣の参謀」文藝春秋社発行、武田頼政氏著、 河田弘道共著に掲載されました。本書籍は、発売後現在完売で図書館、また、中古本としてamazon楽天市場紀伊国屋、等で入手可能のようです。